第1話 最後に発行した、一枚の手形
本作は「婚約破棄」から始まりますが、すぐにざまぁで終わる物語ではありません。
剣を振るう代わりに、手形と数字で。怒鳴る代わりに、流れを整えて。
気づいたときには、国の“中心”が移っている――そんな静かな成り上がりを、ゆっくり描きます。
その夜、私が署名した一枚の手形が、王国の端から端までを動かしていた。
誰も、そのことを知らなかった。私自身でさえ、まだ。
通行手形――王国を行き交う商隊が、関所を抜けるための、たった一枚の信用状だ。荷の中身を見定め、価値を算定し、通るべき道と、納めるべき通行料を記す。署名し、封を捺す。それだけで、商隊は、いくつもの関所を越えていける。王国の交易は、こうした一枚一枚の上を、流れていた。
その、すべてを捌くのが、私の仕事だった。
査定室は、舞踏会の喧騒から、切り離されたように静かだ。羽根ペンが紙を撫でる音と、蝋の燃える微かな音しか、ここにはない。三年のあいだ、私はこの部屋で、誰に見られることもなく、ただ数字と、向き合ってきた。
羊皮紙に並ぶ数字は、もう何度も確かめたものだった。けれど私は、最後の一枚だけはいつもより丁寧に縁をなぞる。指の腹で、紙の端を一度だけ。
数字に狂いがないか、最後に体で確かめる、私の癖だった。
狂いはない。
私は署名し、封蝋を落とした。手形の束を、机の右端に揃えて積む。
その音は驚くほど小さく、しかし胸の奥にだけは、はっきりと響いた。
今夜は舞踏会だ。王太子アルベリク殿下の婚約者として、貴族たちの前に立つ日。
――今夜、殿下から「話がある」と言われていた。
婚約して三年。私が表に立つことはほとんどなかったけれど、裏方としてできることはすべてやってきたつもりだ。王国の交易の信用は、この査定室から出ていく一枚一枚の手形が支えている。それを誰よりも知っているのは、私だった。
もしかしたら。
ほんのわずかに、そんな期待がよぎる。
これまでの働きを、ようやく認めてもらえるのではないか。
私は席を立ち、手形の束を棚に戻そうとして――やめた。なぜか、机の上に置いたままにした。
***
大広間は眩しかった。
無数の蝋燭が煌めき、絹と宝石をまとった貴族たちが談笑している。誰もが今夜を祝福の日と信じて疑っていない。
王太子アルベリク殿下は、壇上に立っていた。
その隣には、華やかな赤毛の令嬢――フェルマー大商会の娘、ミレーユ。「商いの天才」と持て囃される彼女に、視線が集まっている。
私は定められた位置に立った。
その瞬間、音楽が止まる。
「本日をもって、私は――セレーナ・ヴァロワとの婚約を破棄する」
一瞬、理解が遅れた。
次の瞬間、広間がどよめいた。視線が一斉に私へ集まり、値踏みするように刺さる。
「理由は単純だ」
殿下は私を見ていなかった。正確には、“私そのもの”を見ていない。
「この女は、地味でつまらん。一日中、紙にかじりついて数字を書いているだけだ。王太子妃にふさわしい華がない」
耳の奥が、しんと静かになった。
地味。つまらない。
その言葉が、奇妙なほど静かに胸へ落ちてくる。
誰かが小さく笑った。誰かが頷いた。誰も、異を唱えない。
ミレーユが一歩前に出て、柔らかく微笑む。
「セレーナ様。査定のお仕事は、これからわたくしの家が引き継ぎます。あんな細かな書き物、本来は商人の仕事ですもの。あなたは、肩の荷が下りますわ」
――優しい言葉だった。
だからこそ、何も分かっていないのだと、はっきり分かった。
殿下が私を見る。
「何か言うことはあるか?」
ある。
本当は、いくらでも。
この国の交易が、どんな細い糸で吊られているのか。誰が手形に署名し、誰が荷の値を見定め、誰が崩壊を防いできたのか。
けれど、それを今ここで言っても、誰にも届かない。届く相手は、この広間に一人もいない。
私は、ただ静かに頭を下げた。
「――承知いたしました」
それだけ言って、踵を返す。
背中に、ざわめきと、安堵のような笑いが触れた。
査定室の前を通りかかったとき、私は扉を開けた。机の上には、さっき積んだ手形の束がそのまま残っている。
最後に発行した、一枚を含めた束。
私はそれを持ち帰らなかった。
持ち帰る資格は、もう私にはない。けれど――この束を読み解き、続きを書ける者が、この城にいるだろうか。
私は静かに扉を閉めた。
帰り道の馬車で、御者が遠慮がちに尋ねた。
「奥様……これから、どちらへ」
行く当てなど、考えていなかった。王都に未練はない。実家のヴァロワ公爵家も、王家に逆らえはしない。
ふと、棚の奥にしまい込んでいた、古い陳情書のことを思い出す。
南の辺境、ロウフェルト。寂れきった関所町から、何度も届いていた嘆願。「通行料が高すぎて、誰も通らない。町が死んでいく」と。
私はいつも、それを正しく処理してきた。けれど、一度も現地を見たことはなかった。
「南へ」
と、私は答えた。
「ロウフェルトへ、お願いします」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
捨てられた令嬢が辺境へ向かう――よくある始まりに見えるかもしれません。
ですが、彼女が机に残してきた「一枚の手形」が、この先どんな音を立てるのか。
当面は1日に3話を投稿予定です。ブックマークをして、続きをお待ちいただけると嬉しいです。




