第19話 南から来た使者
南から来た使者は、絹の上着を着た、四十がらみの男だった。
名を、レーヴェ。トラス商業同盟の、交易監。同盟の中堅どころで、各地の商圏を視察する役回りだという。
「ロウフェルトの噂は、トラスにも届いています」
レーヴェは、自由市を見渡しながら、穏やかに言った。
「通行料ゼロ。正確な査定。独自の手形。――半年で、これほどの市を作った。たいしたものだ。我が盟主も、たいそう興味を持っておられます」
「盟主、と申しますと」
「オルブレヒト。トラス商業同盟の、盟主です」
その名を、私は、初めて聞いた。
だが、レーヴェがその名を口にしたとき、わずかに――声に、畏れのような響きが混じったのを、私は聞き逃さなかった。
「オルブレヒト様は、こうおっしゃっています。『ロウフェルトの市を、トラス同盟に加えてはどうか』と。同盟に入れば、トラス全域の交易路が使えます。あなたの市は、一気に、十倍の規模になる。悪い話ではないでしょう」
甘い、申し出だった。
だが、私は、甘い申し出ほど、裏を読む癖がついていた。
「同盟に入れば、私の市は、同盟の規則に従うことになりますね」
「もちろん。同盟には、同盟の物差しがあります」
「ロウフェルトの物差しは、使えなくなる、と」
レーヴェの笑みが、わずかに、固くなった。
「……物差しは、大きいものに、合わせるのが筋でしょう」
そういうことだ、と私は思った。
トラス同盟は、ロウフェルトを助けたいのではない。飲み込みたいのだ。私が作った「正しい物差し」を、同盟の物差しに、塗り替えたい。市の独立を、奪いたい。
ヴィントが王都の中で私を止められなくなったから、外の大きな力――トラス同盟が、寄ってきた。これが、ヴィントの言っていた「大きな魚」だ。
「ご厚意は、ありがたく。ですが」
私は、静かに答えた。
「お返事には、少し、時間をいただきます。市は、私一人のものではありません。商人たち、町の人々――皆の生計が、かかっていますので」
「賢明だ」
レーヴェは、笑った。だが、その目は、笑っていなかった。
「ただし、長くは待てません。盟主は、気の長い方では、ありませんのでね」
***
レーヴェが宿に去った後。
リタが、ずっと、物陰から、彼を見ていたことに、私は気づいた。
「リタ。どうかしましたか」
彼女は、いつもの軽口を、叩かなかった。
「……あの男。レーヴェ」
声が、低かった。
「昔、おれが密輸の運び屋をやってた頃。トラスの交易監に、何人もの運び屋が、使い捨てにされた。荷を運ばせて、用が済んだら、口封じに役人へ突き出す。おれの相棒も、それでやられた。――その、交易監の名が、レーヴェだ」
私は、息を呑んだ。
「同じ人物、ですか」
「間違いねえ。あの顔は、忘れねえ」
リタの手が、腰のナイフに、無意識に触れていた。
私は、その手に、そっと、自分の手を重ねた。
「リタ。気持ちは、分かります。でも――今、ここで、彼に手を出せば、トラス同盟に、ロウフェルトを攻める口実を与えます。あなたの復讐が、町を、危険に晒す」
リタは、唇を噛んだ。
「……分かってる。分かってるよ」
彼女は、ナイフから手を離した。だが、その目には、消せない火が、燻っていた。
「でも、姐さん。一つだけ、言わせてくれ。あいつは――いや、トラス同盟ってのは、人を、道具としか思ってねえ。荷を運ぶ道具、儲けを生む道具。用が済めば、捨てる。あんたの市が同盟に入ったら、あんたも、町の連中も、いつか、道具にされて、捨てられる」
道具。
その言葉が、私の胸に、深く刺さった。
――王都で、私が、そう扱われたように。
「リタ」
私は、静かに言った。
「教えてくれて、ありがとうございます。あなたの過去は、この町を守る、何よりの知恵です」
私は、南の空を見上げた。
トラス同盟。盟主オルブレヒト。人を道具として扱う、巨大な力。
次の卓は、王都とは比べものにならない、大きな相手だ。
けれど――私は、道具にされる側の痛みを、知っている。だからこそ、人を道具にしない市を、守りたい。
「この町は」
私は、呟いた。
「誰の道具にも、させません。王都にも――トラスにも」
南の大きな魚・トラス同盟が、牙を見せ始めました。盟主オルブレヒトの登場は、もう間近です。
そして、リタの過去(密輸時代の因縁)も、静かに動き出しました。
ですが、その前に――まずは王都に残る決着を。次話、フェルマー商会の手形が、ついに紙切れになります。
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