第17話 一炊の夢
いまにも一雨きそうな曇り空の下を歩いていた。
いつもの外回りの営業中であり、普段あまり遠征しない土地であった。
そのせいで土地勘がないから、グーグルマップを頼りに古びた商店街をゆっくり進んでいると、ばったり古い知り合いと再会した。
「お前、パチプロの岸谷じゃないか、久々だな」
岸谷とは大学時代に知り合った。俺より三歳か四歳ぐらい年上の男で、ガリガリにやせこけたガイコツみたいな男だ。
いかにも浮世離れした見た目だが、彼は高校を卒業してすぐにパチプロになった。かなりギャンブルの強い男で、スロットの稼ぎだけで月収が30万近くあった。だからといって羽振りの良い生活なんてしていなくて、いつも地味に暮らしていた。
得体のしれないところがあるというか、太陽と影の間で生きているというか。
俺も大学時代から公営ギャンブル漬けだったから、地元のパチンコスロット業界の有名人である彼と自然と知り合うことになった。
友達というほどの距離感ではないのだが、しかし彼には恩義を感じていることがあって、進路の話題だ。
大学卒業間際、俺は就職するか、ギャンブル専業で行くか、真剣に迷っていた時期があった。
そのとき岸谷が『専業の道は地雷だらけの獣道だ。お前は普通に社会でやっていけるんだから、迷わず就職したほうがいい』とアドバイスをくれた。
彼ほど稼げる人間ですら、専業ギャンブラーは地雷だらけだと警告を出してくれたんだから、彼より稼げない俺に専業は無理だなと悟った。
そのおかげで、いま俺はこうして業務用洗浄機の営業マンを続けられている。
もし岸谷と出会っていなかったら、俺は借金漬けで野垂れ死んでいたかもしれない。
そんな恩義のある岸谷だが、いまにも崩れ落ちてきそうな空を見上げながら、こういった。
「もうパチプロじゃないんだ。ちょいと前に廃業して、いまは普通の労働者だ。法律が改正されてからのパチンコとスロットは専業でやるには厳しくてな」
あれだけ稼げる彼がパチプロを辞めたことには、少々の驚きがあった。
だがありふれた話でもあった。
「お隣の公営ギャンブル業界にも事情は伝わってる。出玉の規制は厳しくなったし、素人にネットで情報を共有されるせいで、安定して稼ぐことが難しくなったって」
「一発の破壊力は少なくなったし、素人と台を奪い合うことになるし、その素人どもは設定6の台を全員でしゃぶりつくしてしまうから、店側が警戒しておいしい台を設定しなくなった。だから廃業だ」
岸谷の声には、まるで化膿した傷みたいな恨みがこもっていた。
どうやらパチプロという様式美が、法律と素人という外部要因で壊されたことに無念を感じているようだ。
だからといって彼の瞳には未練の色がない。
「ちょうどいい機会だったのか? 地雷だらけの獣道を廃業するには」
かつて俺に送ってくれた恩人の言葉を、そっくりそのまま返した。
どうやら岸谷は当時のことを覚えていたらしく、しおれたチューリップみたいな顔で苦笑いした。
「……こうやって真面目に働いてて思うんだが、パチンコとスロットには夢がなかったな」
「年間の利益が意外に少ないからだな」
「そうだ。あれだけ大量の時間と情熱を注ぎ込んだのに、普通に働いて得られる給料とそこまで差がない。ギャンブルってのは、夢がなかったんだ」
夢がない、か。
たしかにパチンコやスロットは、たまに大当たりしても利益に天井がある。
あれだけ大量の時間を費やして、まともな人生を投げ捨てて、それでも得られた利益が微々たるものであれば、背後から迫りくる現実に押しつぶされるだけなのかもしれない。
ならばいっそのこと、夢のあるギャンブル=競馬のwin5に誘うかどうか考えたが、せっかくギャンブルから足を洗った人間を引っ張り込むのも気が引けた。
「宝くじ買えよ。健全な賭け事だぞ」
宝くじは健全だ。なんせ賭けられる機会が数少ない。しかも的中率が低いことが誰の目にも明らかなので、そこまで無茶な勝負をやりにくい構造だった。
という俺のアドバイスは、かつて専業で食えていた人間には不要だった。
「もちろん買ってるさ。毎年年末になると、100枚だけ連番で」
「連番ってことは、一等前後賞狙いだな」
「そうさ。もし一等前後賞が当たったら、旅に出たいな」
「海外旅行か?」
「国内だ。北海道から沖縄まで、各地の名産品を食べて、静かに老後を暮らしたい」
かつて専業ギャンブラーをやっていた男から、静かに老後を暮らしたいなんて言葉が出てくるとは思わなかった。
なんでこんなに弱気になっているんだろうか。
専業ギャンブラー時代がアイデンティティと直結していたからか?
「まだ老後を考える年齢じゃないと思うんだが」
「人間っていうのは、50代の大台に乗ると、守りに入るもんさ。お前だっていつかそうなる。そして結婚してなかったことを後悔するようになるんだ」
「そりゃ意外だな。そっちの後悔だけはしないタイプだと思ってたが」
少なくとも昔の岸谷であれば、結婚せずに専業ギャンブラーをやっていたことを後悔しないはずだ。たとえ廃業することが決まったとしてもだ。
それなのに、いったいどうしたというんだ?
「最近死を意識するようになった。誰にも看取られないまま、1Kアパートで孤独死するのは、あまりにもみじめじゃないか?」
「たとえ結婚しても、相手が先に死ぬんであれば、最期の結果は同じじゃないのか?」
「夫婦の思い出が残るじゃないか」
正しい意見だと思うが、そのまま賛同するつもりにはなれなかった。
だって俺は生粋のギャンブラーだから、もし結婚するとなったら相手の女性を巻き込むことになる。
だから孤独死上等だと思っていた。
それなのに、なぜ元パチプロの岸谷がこんな結婚に対して強烈な憧れを持っているんだろうか。
わからない。岸谷にいったいなにがあった?
と俺が困惑していると、岸谷のスマートフォンが鳴った。
「悪い井上、仕事の電話だ。またいつか会えるといいな」
そう言いながら、岸谷は小走りで雑踏に消えた。
俺は遠ざかっていく岸谷の背中に向かって「いつか結婚できたらいいな」とありふれた言葉だけ伝えて、その場はお開きとなった。
数週間後、いつものように外回り営業をしていると、突然雨が降ってきた。
土砂降りにはならないが、それでも強めの雨量で風が吹き続ける様を、まるで化膿した傷のように感じた。
なんとなく第六感が働いて、いつもは読まない官報をスマートフォンで読んだ。
行旅死亡人の欄に岸谷の情報が書いてあった。
死因は病死だ。
どうやら俺と再会したときには、なにかしらの重い病を抱えていたようだ。
だからあいつは柄にもなく結婚に憧れを抱いたのだ。50代を迎えたばかりで病死するなんて、あまりにも早すぎる人生の幕引きだから。
そして官報の欄に訃報が乗ってしまったということは、遺体を引き取ってくれる身寄りがいないということだ。
「これも専業ギャンブラーの最後なのかもしれないな……」
好き放題生きて、最期は誰にも看取られることなく病死。
ありがちな話ではある。だからといってバカにするつもりもないし、むしろある意味で立派だと思っていた。
ギャンブルで飯を食い続けて、それが難しくなったら廃業して真面目に働く。そして最後は誰にも迷惑をかけずに逝った。
やるじゃないか、岸谷。
彼には進路の恩義があるから、遺体を引き取って合葬墓に埋葬してやろうと思った。
そこそこコストのかかる行為ではあるのだが、いくらケチな俺でも最低限の仁義は忘れたくないのだ。




