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ローデリヒ平原を赤く染め上げる夕陽の中、戦場には奇妙な静寂と、すすり泣くような声だけが響いていた。

王国の中枢を担うはずだった王都の軍勢は、全ての武具を大地に投げ出し、疲れ果てた体を丸めて平原に座り込んでいた。

彼らの心境は絶望の一言に尽きる。指揮官であったダリウスは、自分たちを囮にして早々に戦場から逃亡した。戦う理由や指揮系統を失い、目の前にはアーベントの精鋭と生ける伝説クロイツ公爵がそびえ立った。

降伏したとはいえ、ここは戦場だ。自分たちはこれから捕虜となるのか、それとも処刑されるのか。

兵士たちの間には、審判の時を待っているような重苦しい空気が漂っていた。


「――よく聞け、王都の兵たち」


その静寂を破ったのは、馬を進み出した一人の黒髪の青年だった。

感情の読めない漆黒の瞳を持つその青年は、怯える兵士たちを見下ろしながら、淡々とした声で告げた。


「ダリウス王子は、お前たちを捨てて逃亡した。これより、お前たちの身柄は、王位継承者リシェル殿下と、アーベント領主クロイツ公爵の管理下に置かれる」


一部の兵士たちの肩が跳ねあがる。

いよいよ、宣告が下されるのかと、何人かの兵士が固く目を瞑った。

だが、ユウの口から紡がれたのは、彼らの予想を完全に裏切る言葉だった。


「お前たちの処遇だが――。第一に、お前たちが捨てた武器と防具は、戦利品として全て我が軍が没収する。」


ユウの口が一瞬だけ、次の言葉を発するために間が開く。


「第二に――お前たち総勢一万名は、この場をもって『解散』とする。各々、自分の故郷へ帰ること」


「……え?」


最前列にいた兵士が、間の抜けた声を漏らした。


「か、解散……? 帰っていい……?」


「嘘だろ……。殺されないのか……?」


ざわめきが広がる中、ユウの背後に控えていたアーベントの兵士が、次々と平原に巨大な鍋を運び込み始めた。

薪に火がくべられ、やがて平原いっぱいに、温かい麦粥と肉の煮込まれる芳醇な匂いが立ち込める。

何日もまともな食事をとっていなかった兵士たちの胃袋が、悲鳴を上げるように一斉に鳴った。


「武器を捨てた者に刃を向けるような真似を、リシェル殿下はなされない」


ユウは淡々と、しかし平原の隅々にまで届くようにはっきりと宣言した。


「まずは腹を満たせ。そして、一人につき銀貨二枚を路銀として支給する。それを持って、家へ帰れ」


その言葉が意味するものを理解した瞬間、王都の兵士たちの間に、堰を切ったような号泣の渦が巻き起こった。


「あ、ああ……! 殿下……! リシェル殿下ァッ!!」


「俺たちは、助かったのか……! 帰れるんだ、家に……ッ!」


屈強な男たちが涙を流し、配られた温かい麦粥を啜りながら、リシェル王女のいる本陣へ向かって何度も何度も地に額を擦り付けた。

ダリウスの狂気によってすり減らされていた彼らの心に、リシェルの慈悲がこれ以上ないほど深く、強く刻み込まれていく。


その光景を小高い丘から見下ろしていた宿老たちは、言葉を失っていた。

将軍の一人であるヘルベルトが、隣に立つクロイツ公爵に向かって震える声で囁く。


「父上……ユウは、ただ被害を抑えるだけでなく……このことまでも計算していたというのですか」


「……そのようだ。全く、恐ろしい若造を拾ったものだ」


クロイツ公爵は白髭を撫でながら、感嘆の入り交じった深い溜息をついた。


「一万の兵を捕虜として養えば、我がアーベントの食料もいずれ底をつく。だが、武器と防具だけを没収して丸裸にし、一食の飯とわずかな路銀で解放してやればどうなるか」


「彼らは『生き証人』となって、王国中に散らばる……」


ヘルベルトがハッと息を呑んだ。


「その通りだ。故郷に帰った彼らは、口々に語るはずだ。『ダリウス王子は狂気に囚われ、我々を見捨てて逃げた』『しかし、リシェル殿下とアーベント軍は、我々に温かい食事を与えて命を救ってくれた』とな」


クロイツ公爵の眼光が、鋭く光る。


「たった一食の粥と銀貨二枚で、王国全土の民心を一気にリシェル殿下へと傾ける。それと同時に、我が軍は血を流さずに『一万人分の武具』を手に入れた。それに……見ろ、ヘルベルト」


クロイツ公爵が顎でしゃくった先では、粥を食べ終えた数千人の兵士たちがいた。

彼らは帰郷の列には加わらず、ユウやアルトたちの前に跪いていた。


「どうか、我々をアーベントの軍に加えてくだされ!」


「我々を見捨てた王ではなく、慈悲深きリシェル殿下のために、この命をお使いください!」


彼らの瞳には、もはや恐怖や疲労はない。

あるのは、真の君主を見出すことができた忠誠心だった。


「……無理やり動いていた烏合の衆を抱えるより、心から忠誠を誓う精鋭を得る方が、軍としてはるかに強固になる。奴は、戦闘の勝敗だけでなく、その先までを見据えていたようだ」


戦わずして敵を無力化し、民心を掌握し、さらに自軍の戦力を引き上げる。

古今のいかなる戦史を探しても、これほどまでに綺麗で、美しく、そして恐ろしい戦果が存在しただろうか。

ヘルベルトをはじめとするアーベントの宿老たちは、ユウという青年の背中を見つめながら、底知れぬ畏怖と、そして彼を味方につけたことへの絶対的な安堵を胸に深く刻み込んだ。


翌日。

西方最大の都市ローデリヒは、かつてないほどの熱狂と歓喜に包まれていた。

城門へと続く大通りには数え切れないほどの領民たちが詰めかけ、色とりどりの花びらを撒き散らしながら、凱旋するアーベント軍に割れんばかりの歓声が挙がっている。


「クロイツ公爵万歳!!」


「リシェル殿下に栄光あれ!!」


総勢一万の軍勢を相手に、完璧な勝利を収めたという奇跡的な報告は、すでに都市中を駆け巡っていた。


重厚な城門をくぐり、城の広間へと足を踏み入れたユウたちを出迎えたのは、留守を任されていたカイン、セシリア、そしてエリナだった。


「お兄様……! ユウ様……!」


セシリアが大粒の涙をこぼしながら、小走りで駆け寄ってくる。


「ただいま、セシリア。約束通り、誰も死なずに帰ってきた」


アルトが優しく微笑み、妹の小さな頭を撫でる。


「流石だな! 一万の軍勢の相手を1日で終わらせちまうとは、歴史に残るくらいの大手柄じゃねえか!」


カインが興奮した様子でアルトの背中を遠慮のない力で叩き、広間は温かい空気に包まれた。

その輪から少しだけ離れた場所で、ユウは立ち止まり、ゆっくりと歩み寄ってくるエリナを見つめていた。

彼女の目は潤み、その両手は祈るように胸の前で固く組まれている。


「……無事に、お戻りになられたのですね」


エリナの声は、安堵で微かに震えていた。


「ああ。問題なく終わった」


ユウはいつものように淡々と答えたが、エリナは構わずに一歩踏み込んだ。

ユウの着ている黒い外套の袖口をそっと両手で包み込んだ。


「お怪我は……本当に、どこも痛みませんか?」


「安心しろ、俺は後方で指示を出していただけだ」


「……無事でよかったです。本当に」


エリナの温かい手が、ユウの冷えた指先にそっと触れる。

戦場では冷徹に何万もの命を操っていたユウだが、この瞬間だけは、どこか居心地の悪そうな、不器用な一人の青年の顔になっていた。彼は振り払うこともせず、ただ静かにエリナの体温を受け入れている。


その二人の親密な空気を、広間の入り口付近で甲冑を脱いでいたイリーナが、ふと視界の端に捉えた。

イリーナの胸の奥が、ほんの少しだけチクリと痛む。

先日の優しさと戦場で彼が見せた、神の如き冷徹な采配。どちらのユウも、彼女の心に強く焼き付いている。

だが、彼が一番心を許し、柔らかい表情を見せるのは、あのエリナという女性の前だけなのだ。


「……何を考えているのだ、私は」


イリーナは自嘲するように小さく呟くと、己の中に芽生えた名状しがたい感情を心の奥底に押し込めた。

再び近衛騎士としての凛とした表情を作ってアルトたちの輪へと加わっていった。

アーベントの城は今、確かな勝利の余韻と、安らかな空気に満たされていた。


――しかし。

西のローデリヒが祝祭の空気に包まれていたその頃、王都レイヴァルトの中枢、王宮でも一つの動きがあった。


「アアッ!! クソッ! クソがァァッ!!」


豪奢な調度品で飾られた玉座の間。

高価な陶器が壁に叩きつけられて粉々に砕け散っていく。

床に座り込み、髪を振り乱して叫び声を上げているのは、命からがら逃げ帰ってきた第一王子、ダリウスであった。


「なぜだ! なぜ俺の軍が一歩も戦わずに降伏する! ……! 俺を、次期国王の俺をコケにしおってェ!!」


血走った目で虚空を睨みつけ、爪が割れるほど強く床を掻きむしるダリウス。

その傍らでは、同じく逃げ延びてきたヴォルグが、壁に寄りかかって退屈そうに欠伸をしていた。


「ま、そういうこった王子様。あんたの人望が、あっちの小娘より無いってだけの話さ」


「貴様! 護衛の分際で俺を愚弄するか!」


「――おや。随分と取り乱しておいでですね、殿下」


突如、玉座の間の重厚な扉が開き、優雅な足音が響いた。

現れたのは、東部ルーヴェルの領主代行にして、この全ての盤面を裏から操る男、セリオスであった。

彼は、まるで自分の屋敷の庭を散歩するかのような落ち着き払った態度で、広大な玉座の間を歩いてくる。

本来、地方領主が王の許可なく玉座の間に立ち入るなど死に値する行為だ。

だが、今の王都には、彼を咎めるだけの軍事力も、まともな指揮官も残されてはいない。


「セリオス……! 貴様、なぜここにいる!」


ダリウスがふらつきながら立ち上がり、血走った目でセリオスを睨みつける。


「貴様の用意した兵も役に立たんかった! 王都の軍もアーベントに寝返った! どうするのだ、王都は空っぽだ!」


「ええ、そのようですね。まさか血を流さずに丸ごと吸収されるとは……あちらにも、少々厄介な知恵者がついているようです」


セリオスは涼しい顔で微笑み、全く悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「ですが、好都合です。殿下、逆賊どもを討ち滅ぼすために最も確実で、強大な『力』を手に入れる準備が整いました」


「力、だと……? なんだそれは!」


「『帝国』ですよ」


セリオスの口から出たその言葉に、ダリウスの動きがピタリと止まった。


「て、帝国だと……? 馬鹿を申せ、他国の軍隊を王都に入れるなど! 侵略と同じではないか! 王国中の貴族が黙っていない!」


ダリウスは狂気の中にあっても、かろうじて王族としての最低限の知識は残していた。


「ええ、ですから『大義名分』が必要なのです」


セリオスはゆっくりと歩み寄り、玉座の階段の下で恭しく頭を下げた。


「一介の王子からの要請だと、帝国も侵略を恐れて動きません。ですが、もし『国王からの正式な援軍要請』であればどうでしょう? 帝国は、同盟国を逆賊から守るという正当な理由をもって、大軍を王国領内に堂々と進めることができます」


「しかし、父上は重い病に伏せ、意識も混濁しておられる。勅命など出せるはずが――」


「だからこそ、です」


セリオスは顔を上げ、悪魔のように甘く、そして決定的な毒をダリウスの耳に吹き込んだ。


「今、国王陛下は政務をとることができません。王都の軍勢も失われました。このままでは、リシェル殿下を擁立するアーベントが王都へ攻め入り、殿下は反逆者として断頭台に送られるでしょう。……それを防ぐ道は、ただ一つ」


セリオスの細められた瞳が、妖しい光を放つ。


「簡単なことです。今この瞬間に、殿下が『国王』の座に座ってしまえばいい」


「……なっ!?」


ダリウスが息を呑む。

存命の父王を差し置いて王を名乗る。それは、明確な『王位簒奪』であった。


「殿下が王となり、最初の勅命として帝国に支援を要請する。そうすれば、帝国の大軍勢が、殿下の忠実な剣と盾となってアーベントを蹂躙してくれましょう。……さあ、いかがしますか? 逆賊として惨めに首を落とされるか。それとも、今ここで『王』となり、全てを平伏させるか」


玉座の間が、異様な静寂に包まれる。

ダリウスの視線が、誰も座っていない豪奢な玉座へと向けられた。

恐怖、屈辱、そして狂気。それら全てが玉座の持つ魔力と混ざり合い、彼の理性を完全に焼き尽くした。


「……そうだ。俺が、俺こそが王だ。俺が絶対者なのだ……!」


ダリウスは覚束ない足取りで階段を登り、そして、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。

その瞬間、彼の顔から迷いが消え、ドス黒い狂喜の笑みが浮かび上がる。


「俺は国王ダリウスだ! すぐに帝国へ使者を送れ! 俺の命において、帝国の軍勢を王国全土に招き入れる! アーベントの老犬も、リシェルも、俺に逆らう者は全て帝国兵の馬の蹄でひき肉にしてやるゥッ!! アハハハハハハハッ!!」


狂王の高笑いが、空っぽの玉座の間に虚しく響き渡る。

自らの権力を守るために、国そのものを外国へ売り渡す。王国が法も秩序も失い、完全に内側から崩壊した瞬間であった。


「……御意のままに、国王陛下」


狂笑するダリウスを見上げながら、セリオスは深く頭を下げた。

だが、その口元には、己の描いた『国家解体』の盤面が完璧に組み上がったことへの、底知れぬ歓喜と嘲笑の笑みが深く刻み込まれていた。


西のローデリヒで、ユウが一万の命を救い、王女リシェルの大義を確立したその同じ日。

東の王都では、セリオスが狂王を玉座に座らせ、国家を滅ぼす最大最悪の扉を開け放った。


二つの知略。二つの大局。

互いの盤面が完全に完成し、王国全土を巻き込む本当の『戦乱』が、今まさにその産声を上げようとしていた。

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