軍師
西方最大の都市ローデリヒの城郭内に設けられた大広間は、シャンデリアから降り注ぐ光と、着飾った貴族たちが発する熱気に支配されていた。
一万名の敵に、死者を一人も出さずに勝利したという歴史的な戦果。
国家を揺るがすほどの歓喜と安堵は、今宵の祝勝会という形で城全体に満ち溢れている。
広間に並べられた長大なテーブルには、領内から集められた極上の品が所狭しと並んでいた。香草と共に丸焼きにされた牛肉からは濃厚な脂の滴る匂いが立ち上り、年代物のワインが惜しげもなくグラスに注がれる。
香辛料の刺激的な香り、肉の焼ける匂い、そして甘い酒の香りが混ざり合い、広間の空気はむせ返ってしまいそうなほどに濃密であった。
その大広間の中央で、ひときわ目を引くのは純白のドレスに身を包んだリシェル王女の姿である。
緊張の連続だった戦場から一転、華やかな社交の場となったが、リシェルの表情には微塵の隙もない。
ローデリヒの有力者たちが次々と擦り寄り、祝いの言葉と共に己の存在を誇示しようと群がってくる。
だが、その貴族たちの無遠慮な接近を巧みに遮っているのが、リシェルの背後に控えるエリナであった。
彼女は柔和な笑みを絶やさないまま、貴族たちの歩み寄る動線を僅かな足運びで塞ぎ、王女が疲弊しないよう絶妙な間合いを保っている。武具を持たない彼女だが、この広間においては誰よりも強固な盾として機能していた。
「エリナ殿は見事だな。このような場であのように優雅に、かつ確実に他者を退ける術は、私には真似できない」
広間の喧騒から少し離れた壁際。
熱気から逃れるように石造りの柱に背を預けていたイリーナが、感心したような息を吐いた。
近衛騎士である彼女もまた、今日は甲冑ではなく、動きやすさを重視した濃紺の礼服を身に纏っている。普段の軽鎧とは異なる女性らしい装いだが、その立ち姿は剣を構えている時と同じように隙がない。
「そうだな。エリナがいれば、貴族どもの面倒な探り合いも適当にいなしてくれそうだ」
隣に立つユウは、薄めた果実酒の入ったグラスを見つめながら、どこか他人事のように答えた。彼の服装は、普段から着慣れている飾り気のない黒の外套と細身の衣類のみである。豪華絢爛なこの広間において、彼だけがまるで影のように風景から浮いていた。
「お前というヤツは……。最大の立役者だというのに、全く表に出ようとしないのだな」
イリーナは呆れたように視線を向けた。
「あの輪の中に加われば、お前も英雄として最高の称賛を浴びることになる。富も名声も思いのままだろう」
「興味ない。それに、俺はただ駒を動かしただけだ。実際に刃を交え、血と汗を流したのはイリーナたちだろ」
ユウは淡々と返し、果実酒を一口だけ含む。
「それに、見ろ。あの貴族たちの目。敵が戦わずして降伏したという事実を前に、彼らは喜んでいる反面、底知れぬ恐怖を抱いている。俺のような人間がしゃしゃり出ると、無駄な警戒を生むだけだ。今は、リシェルとクロイツを前面に押し出しておくのが一番効率がいい」
その冷徹なまでの自己評価と大局観に、イリーナは小さく息を飲んだ。
己の手柄すらも、盤面を構成する一部として計算している。この青年の瞳には、目先の栄誉など一切映っていない。常に先の先、国家という巨大な構造そのものを見据えているのだ。
「ところで、アルトの姿が見えないな」
イリーナが話題を変えるように尋ねると、ユウは視線を広間の入り口へと向けた。
「あいつなら、直前まで何かの準備に追われていた。主役の一人だし、そろそろ顔を出すはずだろう」
二人がそんな言葉を交わしていると、ふいに横から影が差した。
「おや、こんな壁際で密談ですか。我がアーベントの救世主殿は」
声の主は、少し長めの灰色の髪を無造作に後ろで束ねた男だった。
年はユウたちより少し上。すっと通った鼻筋と涼しげな目元を持つ端正な顔立ちだが、その立ち姿はひどく気怠げで、目元には深い疲労の色が濃く刻まれている。
男の右手の人差し指と中指の先には、落ちないインクの染みがこびりついていた。
「あなたは……?」
イリーナが訝しげに尋ねると、男は面倒くさそうに片手で頭を掻いた。
「失礼。私はゲニオール。このローデリヒの内政を担当している裏方です。私はこういう騒がしい場はどうも苦手でして」
ゲニオールと名乗ったその男は、大げさなため息をついてユウの隣に並んだ。少し無気力な態度の裏に、鋭く研ぎ澄まされた観察眼が隠れていることを、ユウは瞬時に感じ取った。
「見事な策だったと聞いています。武力制圧ではなく、国家の状態を計算し尽くした見事な作戦だったと。あなたのような方が味方で、本当に良かった」
ゲニオールはグラスを傾け、ユウを見据えて薄く笑う。
だが、その直後に彼の表情は恨みがましいものへと変わった。
「しかしですね……、戦は一日で終わりましたが……一万人から武具を剥ぎ取り、帳簿に記録し、彼らを帰還させるための路銀と食料を領の蔵から計算して手配する。それがどれほどの絶望的な作業か、分かりますか? あなたがこの無血開城の策を口にしてから、私は三昼夜、書類の山に埋もれて一睡もしていないのです」
疲労困憊のゲニオールの言葉に、ユウは僅かに目を細めた。
「一万の武装解除と配給の手配を、たった三日で終わらせたのか。大したものだ。実務としてそれを完璧にこなせる内政官がいなければ、俺の策は机上の空論で終わっていた。賞賛に値する能力だ」
「やれやれ。全く心のこもっていない慰めです。その見返りがこの薄い酒とは、割に合わない」
ゲニオールは肩をすくめたが、その瞳にはユウに対する確かな敬意が宿っていた。
戦場で剣を振るう者には分からない、裏方の兵站と計算の苦労。
それを完全に理解し、互いの役割を認識しているからこその会話であった。
「おっと。そろそろ、――父上の演説が始まるようです。それでは失礼します」
ゲニオールそういうと二人の場から離れた。
広間の最奥、玉座の前に立っているクロイツ公爵が重々しく右手を上げた。
歴戦の猛者が放つ圧倒的な威圧感は、言葉を発するまでもなく広間の喧騒を潮が引くように静めさせた。貴族たちの動きが止まり、全員の視線が壇上へと注がれる。
「皆の者、よく集まった。これより、先のローデリヒ平原における戦況報告を行う。ヘルベルト」
「はっ」
父の呼びかけに応じ、長男のヘルベルトが一歩前へ進み出た。彼の分厚い胸板が大きく膨らみ、広間を震わせるほどの張りのある声が響く。
「報告します。王都軍一万に対する我らの損害は、皆無。敵軍を完全に無力化し、一万人分の武装を無傷の状態で接収いたしました。さらに、降伏した兵の中から数千名が、我がアーベント軍への編入を志願。現在、各部隊への配属手続きを進行中です」
完全なる沈黙が広間を支配した。
一万の大軍を相手に、味方の血を一滴も流さず、逆に自国の兵力と武装を増やした。古今の戦史を探しても聞いたことがない大戦果であった。
数秒の後、貴族たちの間から爆発的な感嘆のどよめきが沸き起こった。グラスが打ち鳴らされ、感極まった者たちが口々に称賛の声を上げる。
クロイツ公爵は満足げに頷き、そして自らの隣に立つリシェルへと視線を向けた。
「そして、我らがこの奇跡的な勝利を収めることができたのは、ここに正当なる王家の血を引く、リシェル王女殿下がいらっしゃったからに他ならない」
紹介を受け、リシェルが毅然とした態度で前に進み出る。
その美しくも力強い琥珀色の瞳が広間を見渡すと、貴族たちのどよめきは自然と収まり、全員が居住まいを正した。
「ローデリヒの皆様、そしてアーベント領の戦士たち。私はリシェル・アルセリア・レイヴァルトです。この国を内側から蝕むダリウスの狂気を止め、王国をあるべき姿に戻すためにこの地へ参りました」
透き通るような、それでいて芯のある声が、広間の隅々にまで響き渡る。
「ダリウスは民を見捨て、大義を失いました。彼に王位を継ぐ資格はありません。私は、この王国の正当なる王位継承者として、彼を討ち、自らが新たな王としてこの国を導くことを、ここに宣言いたします」
再び、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
それは形式的なものではなく、真に彼女の威光に平伏し、未来を託そうとする民衆の熱狂であった。
リシェルは静かに右手を上げてそれを制すると、群衆の最前列に視線を向けた。
「その過酷な戦いへ臨むにあたり、私は新たな役職を命じます。……アルト、前へ」
群衆が静かに道を空け、白銀の装甲を身に纏った青年が進み出た。
先ほどまで姿を見せなかったアルトである。
入念に磨き上げられた鎧はシャンデリアの光を反射して輝き、腰にはかつての師であるシグルドの想いを継ぐ剣が提げられている。
彼はリシェルの数歩手前で足を止め、マントを翻して恭しく片膝をついた。
「アルト。あなたは幾度も死線を潜り抜け、その剣で私の命を守り抜いてくれました。あなたのその忠義と力に報いるため、これよりあなたを『王女直属の近衛騎士隊長』に任命します。私の剣となり、いかなる脅威からもこの身を守る盾となって戦ってくれますね」
「謹んで、お受けいたします」
アルトの揺るぎない声が響く。
かつての弱かった少年の面影は完全に消え去り、その背中には王国を背負って立つ立派な騎士としての風格が漂っていた。イリーナもまた、己の上官となった青年の背中を誇らしげに見つめている。
広間が温かい祝福の空気に包まれる中、壁際でその光景を眺めていたユウは、小さく息を吐いてグラスをテーブルに置いた。
「……さて、主役たちの舞台も整った。俺はそろそろ自室にて休むとしよう」
ユウが踵を返そうとした、まさにその時だった。
「――そして、もう一人。私の前に出てください」
リシェルの凛とした声が、再び広間に響いた。
「ユウ」
完全に気を抜き、壁際の影に溶け込もうとしていたユウの足が止まった。
彼を知る関係者たちは皆、面白がるような視線を一斉にユウへと向ける。
「どうやら、お前も主役だったようだな」
そういったイリーナは苦笑しながら道を譲った。
広間にいる数百人の貴族や将軍たちの視線が、一斉に壁際の黒髪の青年へと集まる。
無数の視線という物理的な重圧を浴び、逃げ場を失ったユウは、小さくため息をつきながら、渋々といった様子でアルトの隣まで歩みを進めた。
「……何か御用でしょうか、殿下」
ユウが感情を消した声で尋ねると、リシェルは悪戯っぽく微笑んだ後、一転して極めて真剣な、為政者としての表情を作った。
「ユウ。ルーヴェルからこのローデリヒに至るまで、あなたの知略がなければ、私はとうに命を落としていました。今回の成果も、あなたがいたからこそ成し得た奇跡です」
リシェルの言葉に、周囲の貴族たちが息を呑む。あの一万の軍勢を消滅させた采配を振るったのが、この飾り気のない若い青年であったという事実に、誰もが驚愕の視線を向けていた。
「私には、クロイツやアルトという強き剣と盾があります。ですが、それらを導く頭脳がなければ、この先の巨大な戦乱を勝ち抜くことはできません」
リシェルは自らの手で、王室の紋章が刻まれた豪奢な指揮杖を取り出し、ユウの前に差し出した。
「ユウ。私はあなたを、この王国の『筆頭軍師』に任命します。どうか、あなたのその底知れぬ知略で、私と、この王国を勝利へ導いてください」
広間が静まり返る中、ユウは差し出された指揮杖と、リシェルの真っ直ぐな瞳を静かに見つめ返した。
隣では、アルトが確かな信頼の眼差しでこちらを見ている。少し離れた場所からは、エリナやカイン、セシリアの祈るような視線も感じる。
彼らの日常を守り、これ以上の理不尽な争いを排除するためには、己が盤面を完全に支配し、全ての敵を蹂躙するしかなかった。冷徹な合理主義者である自分が、なぜこれほどまでに肩入れするのか――自問する間もなく、リシェルの真っ直ぐな瞳がそれを許さなかった。
青年は静かに一度だけ呼吸をして息を吐いた。
「……引き受けましょう」
軍師は静かに指揮杖を受け取り、広間の隅々にまで届く声で宣言した。
「殿下の敵は、私が全て破滅させます。……味方の血は、これ以上流させません」
その絶対的な誓いに、広間に集った全ての者たちが数秒の沈黙の後、地鳴りのような歓声を爆発させた。
剣が掲げられ、グラスが高々と突き上げられる。
王国全土を巻き込む巨大な戦乱の幕開けにおいて、リシェル陣営は、『無血の軍師』という最大の中核を手に入れた。




