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布石


祝勝会の熱気が静かな余韻へと変わりつつある、西方最大の都市ローデリヒ。

城下に広がる巨大な市場は、活気に満ち溢れていた。

一万の王都軍を相手に、味方の血を流さずに勝利を収めたという事実は、この都市の領民たちに絶対的な安心感を与えている。

戦の恐怖で一時的に停滞していた経済活動が一気に爆発し、大通りには無数の露店がひしめき合っている。

焼けた肉の匂い、西方の海から運ばれた干物と磯の香り、そして異国から持ち込まれたであろう刺激的な香辛料の香りが、複雑に絡み合っている。


「敵が来ていたのが嘘みたいだな」


行き交う人々の波を、手慣れた様子で掻き分けながらカインが息をつく。彼の腰には愛用の短剣が提げられており、周囲を警戒するその視線は鋭い。アルトは城で王女の護衛という任務に就いていたので、市場視察はカインとユウが担っていた。


「人間は不安がなくなれば動きだす。市場の活気は、その土地の自衛力とも関係しているからな」


カインの一歩後ろを歩くユウは、目深に被った黒い外套のフードの下で、露店に並ぶ品々の値段を冷徹に観察していた。

主食である小麦の価格は下がってきており、逆に鉄や皮革といった武具の材料になる品が大量に、かつ一定の価格で出回っている。

物流が完全に西のアーベントへ集中し始めている証拠だった。


「おや……? そこに見える旦那は……!」


上質な布地を山のように積んだ大型の荷馬車から、恰幅の良い男が姿を現した。

豪奢な刺繍が施された上着を着込み、丸い顔に愛想の良い笑みを浮かべて近づいてくる男。ユウたちを荷馬車にて王都まで案内した商人――サイラス・ハクスターであった。


「サイラス! どうしてローデリヒに?」


カインが驚いて声をかけると、サイラスは両手を擦り合わせながら深いお辞儀をした。


「いやはや、お久しぶりですねカイン殿、ユウ殿! 金と人が動く場所には臭いがありますからね。今の王国で一番稼げるのは、間違いなくここですから!」


サイラスの背後には、以前会った時よりも遥かに立派な荷馬車が連なっていた、それぞれに屈強な傭兵が護衛として雇われていた。彼の商売も拡大していることが一目でわかる。

サイラスは周囲の喧騒を気にするように一度周囲を見回し、声を潜めてユウに顔を近づけた。


「王都軍との戦いでは見事でしたね。いやはや、アーベントの筆頭軍師様と呼ぶべきですかな?」


「……耳が早いな。もう情報が回っているのか」


ユウが淡々と問うと、サイラスは満足げに笑みを深めた。


「そりゃ勿論!帰ってきた兵士たちが『リシェル殿下は慈愛に満ちている』って噂が広まってますよ」


サイラスの瞳の奥に、打算と計算に満ちた商人特有の鋭い光が宿る。


「我々が最も嫌いなのは、予測出来ない人間ですから。だからこそ、商人たちは皆、こぞってこのアーベントへ投資と物資を集中させているんです。」


「……そうか。まあ、あんたもせいぜい、損をしない方に賭けることだな」


ユウが短く返し、背を向けて歩き出そうとする。


「ええ! 私は最初から、あなた方に全財産を賭けてますから! 期待してますよ、軍師様!」


サイラスの景気の良い声援を背に受けながら、ユウとカインは活気に満ちた市場を後にし、城へと歩みを進めた。




その日の午後。ローデリヒ城の奥に位置する作戦会議室。

巨大な一枚板のテーブルに広げられた王国全土の地図を囲み、部屋の空気は市場の喧騒が嘘のように冷え切っていた。

地図を見下ろすのは、リシェル、クロイツ、ゲニオール、そして筆頭軍師のユウ。リシェルの背後には、アルトとイリーナが、近衛騎士として微動だにせず立っている。


「王都へ向かっている帝国軍は約十万と聞いています。奴等の動きが早ければ、二週間後にはこちらに向かってくる計算になりそうです」


ゲニオールが気怠げな手つきで、東の国境から伸びる街道に赤い駒を配置していく。


「密偵の報告によると、この十万という数字の全てが脅威というわけではなさそうでした。精鋭部隊は、およそ二万といったところでしょう」


「残りは?」


クロイツ公爵が低く重い声で問う。


「帝国から無理やり徴用された練度の低い歩兵と、膨大な物資を運ぶ陣夫たちです」


ゲニオールが資料をテーブルに投げ出した。


「装備もバラバラで烏合の衆みたいです。戦力としては素人同然かと。これだけ巨大な進軍であれば、一日の行軍で消費する物資は我々の想像を超えることでしょう」


「つまり、帝国の本国から途切れることなく食糧を運び続けなければ、十万の胃袋は満たせない。補給線が異常に間延びした、巨大で鈍重な軍勢ということか」


その場の重鎮である公爵が腕を組んだ。


「いくら腹を空かせた雑兵でも、数に押し寄せられれば我が軍でも耐えきれるか分からんぞ」


「奴等がこちらの村から略奪して補給することは出来ない」


ユウが地図上の赤い駒を指先で弾いた。


「すでに、東側の村には避難指示を出した。食糧と物資も運び出すようにしており、もぬけの殻だ。十万の軍勢がこちらに来れば来るほど、兵糧がなくなっていくだろう」


「さすがは軍師殿といったところだな。事前準備に隙がない。……だが、我々にはもう一つ、東以上に警戒すべき箇所があるぞ」


 クロイツ公爵が地図から視線を上げ、部屋の西側の壁――地図上におけるアーベント領のさらに西に広がる、海に面した広大な領域を指差した。


「ローディス共和国だな」


ユウが静かに言葉を継ぐ。

ローディス共和国。商業と海運が著しく発展し、大陸における交易に強みを持つその国家は、強大な武力こそ持たないが、大陸随一の経済力と海路を用いた莫大な物資備蓄を誇っている。

王国とは不可侵の盟約を結んではいるが、基本的には自国の利益を最優先としている中立国家であった。


「王国が内乱で割れ、帝国軍が介入してきそうな今、あの商人どもが大人しく中立を守るとは思えん」


クロイツ公爵の眼光が鋭さを増す。


「我々が東の防衛に全軍を集中させている隙を突き、ローディス軍が背後から侵攻してきたらどうする。あるいは、帝国が莫大な金と大陸での交易の利権を提示し、ローディスから海路で食糧を買い付けるような真似をすれば……」


「我々は東の帝国と、西のローディス共和国に完全に挟み撃ちにされます。二正面作戦を強いられれば、どんな策を用いようと我々に敗れてしまいますね」


ゲニオールの冷徹な結論に、部屋に重苦しい沈黙が降りた。


「……だからこそ、東の十万を相手にする前に、後方の憂いを断ち切るべきだ」


ユウは地図から視線を外し、リシェル王女へと向き直った。


「殿下。全軍を東へ集中させるために、俺が直接、西のローディス共和国へ向かいます。彼らに首輪をつけ、我々の背後を脅かさないための盟約を結んでくる」


「軍師自ら特使として行くというか。だが、相手は金と権力に塗れた老獪な評議会だ。一筋縄ではいかないぞ」


リシェルが憂いを帯びた瞳でユウを見つめる。


「ああ。理屈と利益、そして『帝国が王国を制圧した後に、大陸の交易網がどうなるか』という恐怖を天秤にかけさせ、力尽くで同意をもぎ取ってくるさ」


ユウの揺るがない言葉に、リシェルは小さく息を吐き、静かに頷いた。


「分かりました。あなたの策を信じます。……アルト」


「はっ」


リシェルの呼びかけに応じ、背後のアルトが居住まいを正した。


「貴方は近衛騎士隊長として、ここに残りなさい。クロイツ公爵と共にこの地の守りを固め、私が帝国に命を狙われることがないよう、この城の防衛を完璧なものにしなさい」


「はっ!」


アルトはユウへと視線を向け、無言で深く頷き合った。互いの役割が完全に分かたれた瞬間であった。

友は王女の盾として防衛の要となり、自分は軍師として外へ赴き、国家の活路を開く。


「しかしリシェル様、それでは誰が僕の変わりにユウと西へ向かうのですか?」


「そのとおりだ。軍師殿の護衛はどうする。アルトが動けないなら、並の兵士ではローディスの武官どもに舐められるぞ」


クロイツ公爵の問いに対し、リシェル王女は迷いなく答えた。


「イリーナに同行を命じます。彼女の剣術の腕はもちろんですが、王族直属の騎士としての威光と品格は、ローディスの政治家や軍人を牽制するための王家の威圧となるでしょう」


「……なるほど。彼女ほどの腕ならば、適任だろう」


クロイツ公爵も納得の表情で顎を引いた。


「出発は明日の早朝。手配はゲニオール殿にお任せします」


「やれやれ、私の徹夜は当分終わりそうにないですね」


ゲニオールが肩をすくめながらも、すでに書類の束をまとめ始めている。その目には、この若き軍師に対する絶対的な信頼の色が浮かんでいた。


東から迫り来る、帝国十万の蹂躙。

その巨大な波を正面から受け止めるのではなく、大局の盤面そのものを動かすために。

軍師ユウは静かに、欲望と陰謀が渦巻く西の商業国家へと視線を向けた。


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