約束
その日の深夜。
静まり返ったローデリヒ城の一室で、ユウはローディス共和国の資料を確認していた。
書類に目を通していると、控えめなノックの音が室内に響いた。
「……入ってくれ」
「失礼します……」
ユウが声をかけると、静かに扉が開き、エリナが姿を現した。
手には、湯気の立つお茶と焼き菓子が乗せられた盆がある。
質素な服を着ても、彼女の整った顔立ちと、どこか気品を感じる佇まいは隠しようがない。
「夜分遅くにすみません。まだ起きているようだったので」
「……ちょうど一息つこうとしていたとこだ」
エリナが卓上の空いたスペースに盆を置く。
ユウが資料から目を離し、小さく息を吐いて椅子に向き直った時だった。
彼の鼻に甘い香りが近づき、エリナが身を乗り出すようにして、ユウの胸にそっと抱きついてきた。
「……エリナ?」
「少しだけ……こうさせてください」
ユウの背中に回された腕に力がこもる。
ユウは少し驚きつつも、自らの胸に顔を埋める彼女の柔らかな金髪を、ゆっくりと撫でた。
しばらくの間、お互いを感じ合う穏やかな沈黙が流れた。
やがて、エリナはユウの胸に顔を預けたまま、言葉をこぼす。
「……明日には、もう西へ向かうのですね」
「ああ」
「少しだけ、ゆっくりできると思ったのに……」
その声は小さく、微かに震えていた。
ユウはエリナの背中にそっと手を添え、優しく抱きしめ返す。
「悪いな。でも、お前が安心できる場所をつくらないと」
「分かっています。……それは、分かるんですけど……」
エリナは顔を上げて、少しだけ潤んだ瞳でユウを見つめる。それから、小さく息をついて、少し拗ねたような表情を作った。
「綺麗な方との長旅ですから。無自覚に女性を惹きつける貴方のことですし……、違う意味でも心配なんですよ?」
その言葉にユウは明言を避けた。
「俺がそんな器用なことできるわけないだろ?」
「……どうですかね」
その言葉に、エリナはふわりと微笑み、再びユウの胸にしがみついた。
しかし、すぐに胸にすがる手に力が込められる。
「……お願いだから、無茶だけはしないで。……貴方がいなくなるのは、ダメです」
「分かってる……」
ユウは彼女の顎に優しく手を添えて、少しだけ上向かせる。
「西の奴等を黙らせて、直ぐに帰ってくるさ」
そう囁くと、ユウは不安に揺れている彼女を慰める動きをした。
お互いを確かめ合う口づけであった。
エリナもまた、自身の心の寂しさを埋めるように背中に回した腕に力を込めた。
やがて、お互いの唇が離れると、エリナは少しだけ照れくさそうに微笑み、ユウの頬を撫でる。
「約束、ですよ? ……私、待っていますから」
「ああ。勿論だ」
窓の外では、夜の闇が辺りを包み込んでいる。
二人は夜明けが訪れるまでの時間を惜しむように、静かな時を分かち合っていた。
***
翌朝。
薄暗いローデリヒ城の中庭には、冷たい朝の空気が満ちていた。
石畳の上には、旅の荷を積んだ馬車と、数頭の馬が用意されている。護衛の兵士たちと文官が無言で出発の準備を整えていた。
その傍らでは、旅装束に身を包むイリーナが馬の首筋を撫でている。
「準備はできているみたいだな」
外套を羽織ったユウが中庭に姿を現す。
その後ろから、彼を見送るために気心の知れた四人が近づいてきた。
「もう少し休まれても良いのではありませんか?」
セシリアが心配そうな表情でユウを見つめる。
「相手は商人だからな、せっかちな奴が多いはずさ。それに、帝国軍の進軍を考えると一秒でも無駄には出来ない」
「……わかりました。道中、お気をつけて。イリーナ様もご無事で」
セシリアの言葉に、イリーナは短く頷き返した。
「西の連中が妙な動きを見せたら、迷わず逃げろよな」
カインが普段通りの口調で言うが、瞳には真剣な色が宿っている。
「分かっているさ。お前も準備を怠るなよ」
「へいへい、軍師様の仰る通りに……っと」
カインが引き下がると、白銀の鎧を纏ったアルトが一歩前に出た。
「ユウ」
「なんだ、近衛騎士隊長様?」
ユウはそう伝えるとニヤリと口元を上げる。
「その呼び方はよしてくれよ……」
「冗談だ」
「全く君は……。ローデリヒは、僕たちが絶対に守り抜く。だから、君は君の成すべきことを果たしてくれ」
「相変わらず堅苦しいやつだな」
いつもと変わらぬアルトの揺るぎない、真っ直ぐな眼差し。しかし、それは一緒に国を背負う対等の友としての視線だった。ユウは短く頷き、最後にリシェルへと向き直った。
「それでは、行ってまいります。殿下」
「ユウ。私は貴方に頼ってばかりの不甲斐ない王女です」
リシェルは自嘲気味に微笑んだ後、凛とした表情でユウを見据えた。
「それでも、必ず帰ってきてください。王女としてではありません。友としての約束です。貴方の場所は『ここ』なのですから」
「……分かりました」
「イリーナも気をつけるのです。それと、必ず軍師様をお守りなさい」
「はっ!!命に懸けましても!」
ユウは一礼し、馬車へと乗り込んだ。
イリーナも馬に跨がり、護衛の兵士たちに短く合図を送った。
「出立するぞ!」
馬車の車輪がゆっくりと回り始める。
見送る四人の姿が朝霧の中に溶けていくのを確認し、ユウは視線を前へと向けた。
向かう先は、遥か西。
その地で武器を持たない戦いが始まろうとしていた。




