潮騒
ローデリヒを出発した一行は、西の街道を進んでいた。
馬車の中では、車輪が石や轍を踏み越える音だけが響いている。
ユウは開け放たれた窓の外を一瞥し、再び手元の書類を確認する。
窓のすぐ外では、近衛騎士のイリーナが馬に跨り、馬車と並走している。王城を出発して数時間が経過しているのに、彼女は背筋を伸ばしたまま、警戒を怠っていなかった。
「……少しは肩の力を抜いたらどうだ。そんなに力むとそのうち動けなくなるぞ」
ユウは窓越しに近衛騎士へと声をかける。声を掛けられた女性は手綱を握り、前を向いたまま淡々と返した。
「私は殿下より貴方の護衛を命じられました。いかなる時に敵がこようとも、即座に剣を抜ける態勢は維持しておくべきです」
「ここはまだ、レイヴァルトの領内だぞ。それに、他の護衛も目を光らせている。お前がいきなり剣を抜くことはない」
「そうならないように、私はここにいるのです。……そもそも、休むのは貴方の方ではないですか」
規則正しい蹄の音を響かせながら、イリーナが窓越しの車内へ呆れたような視線を向ける。
「出発してから、ずっとその紙と睨み合ってます。揺れる車内で文字を追い続ければ、気分も悪くなりますよ」
「敵のことを頭に叩き込んでおかないと、商人と戦えないからな。気分が悪くなる前に覚えるしかないのさ」
ユウは小さく息を吐き、書類から目を離し再び窓の外へと視線を向ける。
吹き込んでくる風に、少しずつだが潮の匂いが混じり始めていた。
西の街道には土煙が絶えなかった。
東と西に交互に馬車が行き交い、時折、疲れきった足取りで歩いている人も見られた。
すれ違うのは商人や避難民など、事情も境遇も異なる者たちであった。その風景が今の王国の状況を物語っているように思える。
「……同じ王国の民なのに、向かう先も、表情も全く違う」
イリーナもまた馬上から行き交う人々を見下ろし、苦々しい声で呟いた。
「それが戦争だ。国が割れると、皆、生き残れる方へ向かう。それに付け込んで商売をする奴もいるもんさ」
「理屈は分かります。ですが、あのような民の姿を見ると……王国の騎士としては、己の無力さを感じてしまいます」
イリーナは手綱を握る手に固く力を込めた。その生真面目な正義感は、王女の傍で護衛をしてきた彼女の美徳であり、同時に危うさでもあった。
「気にすることはない。お前も俺も出来ることをやれば良い。ただそれだけだ。……着いたぞ」
ユウの言葉と同時に、馬車は徐々に速度を落として停止した。
太陽が天頂を過ぎた頃、一行は国境沿いの港村シーヴェルに到着した。
ここはレイヴァルト王国の最西端となり、この村の先にある関所を越えると、そこからはローディス共和国の領土である。
休息をとるため、海を見下ろす高台で馬車が停められた。
「少し、外の空気を吸ってくる」
ユウは書類を置き、扉を押し開けて外へ出ると、強い海風が外套を大きく煽った。
視界の先には、陽光を反射して輝く紺碧の海が広がっている。
眼下の浜辺には小舟がいくつか並び、日に焼けた漁師たちが網の修繕をしていた。絶え間なく聞こえる波の音と、天を舞う海鳥の声が、張り詰めた空気を忘れさせてくれる。
背後から砂利を踏む音がした。
イリーナが近づいてきて、大きく目を見開き、ただただ無言で水平線の彼方を見つめていた。
常に隙を作らない近衛騎士としての彼女が、今はほんの少しだけその緊張を解き、一人の少女のような表情を見せる。
「……海を見るのは、初めてです。本当に果てがないのですね」
感嘆の溜息と共にこぼれ落ちたその言葉に、ユウは短く相槌を打つ。
「海を見たことがなかったのか?」
「はい。書物でしか読んだことがありませんでした。青く、広く、そしてこのような匂いがするとは……」
「潮風を浴びると剣が錆びるぞ。手入れを忘れるなよ」
景色から視線を切り、淡々と告げたユウの言葉に、イリーナは感傷を断ち切られたように小さく息を吐き、呆れたように肩をすくめた。
「ユウ……貴方は風情というものがありませんね。綺麗な景色を前にして、口から出るのが剣の錆とは……」
「風情じゃ腹は膨れないからな。それに、俺たちの仕事は景色を楽しむことじゃない」
ユウの無骨な返しを聞いて、イリーナは観念したように短く笑った。しかし、すぐにその表情から柔らかさが消え、周囲の地形、そして村の先に続く細い街道へと目を向ける。
「さて、軍師様。首都に到着したら、誰と会うのですか? 特使として面会を求めても、適当な理由で何日も待たされるはずでは?」
「相手は、共和国を牛耳っている評議会の代表者たちだ。面会に何日も待たされるような真似はしない」
「向こうもこちらの足元を見てくるのでは? 『アーベントの特使など後回しでいい』と判断されれば、それまでです」
イリーナの懸念はもっともだった。相手は金と権力を欲する商人たちだ。王族の威光が通じない相手に正規の手続きを踏めば、門前払いを食う可能性もある。
「クロイツ公爵とゲニオールが、すでに裏から手を回している。面倒な手続きを飛ばして、すぐに奴等の懐に飛び込めるはずだ」
「……さすがは軍師様ですね。事前の根回しが済んでいるのなら安心です。ですが」
イリーナはそう言うと、背後に広がる広大な海と、西へと続く陸路を交互に見比べた。
彼女の目は、もはや美しい風景ではなく戦場を測っていた。
「この地は天然の要害です。海に守られ、陸路からの侵入経路も限られている。大軍が展開できそうな平地もなく、力押しは不可能です」
「だろうな」
「交渉が決裂し、私たちが武力で囲まれれば……この少数の護衛では、貴方を連れて突破することは困難です。退路が断たれる場所に、自ら首を突っ込むことになります」
厳しい現実を口にするイリーナの手に、僅かに力がこもる。腰の剣の柄を親指で撫でるその仕草は、彼女なりの覚悟の表れだった。
「生きて帰れる確証はないのか?」
「それは安心してください。私が命に代えてもお守りします。ですが、最悪の事態は想定しておくべきです」
「イリーナの言うとおりだ。軍事的に見れば、手を出しにくい要塞だ」
ユウは海風を正面から受けながら、冷徹に言い切る。
「だが、あの閉鎖的な地形は最大の弱点でもある。奴等は商業は優秀だが、自国では満足できるほどの食糧を生産できない。別の国から買い付けないと、あの国は数週間で飢える」
ユウは街道を行き交う馬車を顎でしゃくった。
「よく見てみろ。西へ向かう馬車に食糧を運搬する者たちが多い。 物流が止まると、あの要塞は巨大な牢獄に変わる」
「……兵糧攻め、ですか?」
「連中の胃袋は誰がつかんでいるのかを分からせてやるだけさ」
その時、馬の休息が終わったことを知らせる護衛の短い掛け声が響いた。
ユウはイリーナの顔を一度だけ見遣り、翻る外套を押さえて馬車へと歩き出す。
「行くぞ。金好きな連中に、現実を教えてやる」
潮騒の村シーヴェルを抜け、一行はいよいよ、欲と陰謀が渦巻く西の商業国家へと足を踏み入れた。




