盲点
潮騒の村を越え、馬車はさらに数日の道のりを進んだ。
西へ向かうにつれ、土煙に塗れていた街道は硬く平らな道へと変わり、すれ違う馬車の装飾も豪奢なものへと変わっていく。
やがて一行の視界に、地平線を遮るような巨大な防壁が現れた。ローディス共和国の首都である。
周囲の平野を圧倒する城壁と、その中央にそびえる分厚い鋼の門。
門前には、王国の兵士より立派な鎧を着込んだ兵たちが立ち並び、出入りする莫大な数の荷馬車に鋭い視線を向けている。
厳しい検問を抜け、巨大な城壁をくぐると、景色が一変した。
そこは、戦火に焼かれる王国の人間からすると、別世界のような空間だった。
広く舗装された通りには泥や汚れが見られず、道の脇にはレンガや大理石で造られた建物が隙間なく並んでいる。建物の窓や軒先には、鮮やかな色の布が日除けとして張られ、街全体が色彩に溢れている。
行き交う人々も、王国とは違っていた。
すれ違う市民は染料で色付けされた服を纏い、中には昼間から宝石の装飾品を身につけている者もいる。
市場の通りへ差し掛かると、馬車の速度は人の波に飲まれて落ちていく。
通りでは香辛料の刺激的な香りと、肉が焼かれる香ばしい匂いが広がっている。しかし、山のように積まれている小麦の袋には東の諸国の刻印が押されており、南の海から運ばれてきた見慣れぬ果実、山脈で採れた鉱石、丁寧に作られた工芸品など、あらゆる富と物資がこの街に集約し、絶え間ない商談の声と硬貨が触れ合う音が街中を支配していた。
「……信じられません。王国では戦争が起きているのに」
馬車と並走するイリーナが、周囲を見渡しながら声を漏らした。
彼女の視線の先では、人々が笑い合い、広場の前で吟遊詩人が陽気に歌を奏でている。難民も、飢えに苦しむ者も、ここにはいない。
「まるで、戦などないかのような光景です。我が国が血を流している間に、彼らは富を貪っている」
「金で平和を買った姿だな」
ユウは馬車の中で手元の書類から目を離さず、淡々と返した。
「彼らは血を流さない代わりに、莫大な金を払って国を維持している。そういう生き方もあるということだな」
「この街を守るために、彼らは周辺に武器や物資を売り捌いているのですね」
「ああ。戦争は商人にとって一番の稼ぎ時だからな。東の帝国と西の共和国。今のところ、お互いの利害は一致しているみたいだな」
「理解はできますが、それでも納得は出来ません」
馬車は市場を抜け、ひときわ巨大な建造物へと向かっていく。
尖塔を持つ大理石の建物。この国の実権を握る評議会がそこにいる。
建物の周りには、統一された武装をしている兵士たちが等間隔で立っている。
イリーナは彼らの装備を一瞥し、手綱を握る手に力を込めた。
「あの者たち、装備は上等品ばかりです。しかし……」
「どうした?」
「兵士の目から国への誇りを感じません。装備は一流でも、あれでは死線は越えられないでしょう」
「そういうものか……」
ユウは窓の外へ顔を向け、大理石の建物を冷たく見上げた。
「この国はすべて金で解決してきた。だからこそ、計算外のことには弱い。……奴等に、現実を教えてやらないとな」
馬車が停止し、二人は評議会本部へと足を踏み入れる。
事前にゲニオールたちが下交渉をしていたおかげで、一行は面倒な身分確認を受けることなく、最奥にある大広間へと案内された。
***
天井には精巧な絵画が描かれ、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。
部屋の中央には巨大な円卓が置かれ、十数人の評議員たちがすでに席に着いていた。しかし、一つだけ中央の椅子が空席となっていた。
その場にいる者たちは、豪華な絹の服を着飾り、指にはめられている宝石がまばゆく光っている。
彼らは皆、部屋の中央に立つ青年と、その後ろの護衛を上から下まで値踏みしていた。
「……ローデリヒからの特使殿。遠路はるばるご苦労」
最も手前に座っていた、肉付きが良い評議員が、鼻で笑いながら口火を切る。
「書状によると、我々に帝国との商いを控えろとのこと……わざわざ足を運んでもらったが、我々は特定の国に肩入れするつもりはない」
「その通り。我々は客に物を売るだけのこと。今、最も気前良く金を落とすのは帝国だ」
別の痩せた男が、同調するように口を挟む。
「内乱で揺れる王国に、帝国を退ける力はない。我々は沈みゆく泥船には乗らない」
「そうだな……大人しく帝国に下れば、貴国の難民にも施しをやろう……あははは!」
下劣な嘲笑が円卓に広がる。
イリーナの青い瞳が鋭く細められ、腰の剣へ無意識に手が伸びる。空気が張り詰め、護衛たちが一斉に武器へ手をかける。
だが、ユウの表情は全く動かなかった。彼は片手でイリーナを制すると、商人たちをゆっくりと見回し、淡々と口を開いた。
「泥船、か。……俺には、お前たちの方が泥舟に乗っているように見えるがな」
広間の空気が一瞬にして凍りついた。
先程まで下卑た笑いを浮かべていた評議員たちの顔から表情が消え、一気に怒りの色が浮かび上がる。
「貴様……! 特使の分際で我々を愚弄するか!」
「愚弄ではない。計算もできない貴殿たちに事実を教えているんだ。帝国が相場より高く物資を買っている訳を考えているのか? 奴等の目的は商いではなく『侵略』だ」
ユウの言葉に対し、白髪交じりの初老の評議員が鼻を鳴らした。
「若造が、知った口を利くな。帝国は我が国と不可侵条約を結んでいる。我々が物資を供給する限り、帝国軍は西の国境を越えないと約束している。王国の未来など関係ないわ」
「保証?」
ユウは嗤った。冷たく、一切の容赦がない嘲笑だった。
「大陸の覇権を狙う者が、たかが一枚の紙切れを守ると思うのか? 王国を制圧した後の帝国が、莫大な富を抱えた隣国を放置するわけがない」
「莫迦を言うな!」
今度は、顔に傷のある評議員が立ち上がって怒鳴りつけた。
「我が国には金がある! 優秀な傭兵をいくつも抱え、防壁は強固だ。いざとなれば数万の兵も金で雇える。帝国とて、我々の経済力と武力を無視することはできまい!」
「傭兵は金で動くが、命までは懸けない」
ユウは立ち上がった男の反論を、間髪入れずに切り捨てた。
「門の前に立っていた者たちを見ればわかる。彼らは、国ではなくお前たちの払う金に従っている。もし、帝国が今の倍の金貨を積んで『城門を開けろ』と言えば、奴等は喜んでお前たちの首を帝国に差し出すだろう」
「なっ……!」
次々と自らの論理をへし折られ、評議員たちの顔色が変わっていく。
条約という盾も、傭兵という剣も、ユウの冷徹な事実の前にはあまりにも脆かった。
「……詭弁だな」
肉付きの良い男が、額に汗を滲ませながら低い声で唸る。
「帝国が裏切るというのは、貴殿の憶測に過ぎない。我々は富で平和を買い、幾度も戦火を乗り越えてきた。貴様のような野蛮人の脅しには屈しない。……おい、この無礼者をつまみ出せ!」
男が手を振り上げ、護衛の傭兵たちが一歩踏み出そうとした。
その瞬間、ユウは円卓に両手をつき、全員を射抜くような鋭い視線で睨みつけた。
「平和を買う金も、いざという時の傭兵も。……腹が減っていれば、何の役にも立たない」
その異様に低い声に、兵士たちの足が止まる。
ユウは商人たちの顔をじっくりと見据えながら、最後の事実を突きつけた。
「調べたところ、この国はほとんどの食料を輸入に頼っている。先ほど市場も見てきたが、山のように積まれている袋には東の諸国の刻印が押されている。帝国が王国を呑み込み、東からの流通を封鎖したらどうする?」
評議員たちの息を呑む音が、微かに響いた。
「お前たちの金庫にどれだけ金があっても、それはただの鉄屑だ。金貨は食えない。傭兵に配る麦もない。一ヶ月もすれば、この街は飢えに苦しむことになる。……帝国は商人から物を買うだけじゃない。圧倒的な力で、すべてを奪い取ってくる」
ユウはゆっくりと身を起こし、とどめを刺すように言い放つ。
「お前たちが武具を売り、帝国軍を太らせれば太らせるほど、お前たちの国が滅びる日は早くなる。これが計算できないなら、お前たちはただの金庫番に過ぎない」
円卓の商人たちが、完全に押し黙った。
条約、傭兵、経済力。彼らが心の拠り所にしていたすべての防壁を破壊された上で、最も脆い『胃袋』という命綱を握られている現実を突きつけられたのだ。
「……我々に、どうしろと言うのだ」
痩せた男が、絞り出すように言った。
先程までの嘲笑は完全に消え去り、その声には恐怖が混じっていた。
「帝国への物資を絶ち、俺たちへ不可侵を約束しろ。そうすれば、アーベントからの食糧輸出は保証する。さらに、戦後の王国における優先取引権も与える。生き残りたければ、どちらを頼るべきか、もう一度よく考えることだ」
その場にすぐさま反論する者は、いなかった。
圧倒的な論理と、生存という根源的な脅迫。
静まり返った大広間に、ただユウの放った冷たい言葉の余韻だけが重くのしかかっていた。




