狂気
その場にすぐさま反論する者は、いなかった。
静まり返った大広間に、ただユウの放った冷たい言葉の余韻だけが残っていた。
誰もが反論の言葉を見つけられず、汗を拭うしかできない。
その重い沈黙を破ったのは、豪快な笑い声だった。
「わははは!」
入り口の戸が開き、大笑いしながら一人の男が部屋に足を入れる。
質素だが動きやすそうな平服を着ており、顔には力強い眉と眼差しをもっている。さらに、無精髭が目立ち、白髪が混じり始めた短髪ではあるが太い腕と分厚い胸板、さらには肌にある無数の傷が見える姿は年齢を感じさせない。
男は怯える評議員たちを見回し、呆れたようにため息をつく。
「……見苦しいですぞ、皆の衆。戦は金を投げ合ってするもんじゃありませんぞ」
静かだが、腹の底に響くような声が広間に落ちる。
「腹の計算もできないのに傭兵とは、笑いが出ますな。そちらの客人の言う通りですぞ」
評議員たちは顔を赤くして何かを言い返そうとしたが、男の鋭い眼光に射すくめられ、再び無言でうつむく。
イリーナは、その男が放つ戦士の気配を感じ取り、警戒を強めながら問いかける。
「貴殿は……?」
「私はダグラス・ゾルダード。この国の軍務を任されている、ただの老いぼれですぞ」
「貴殿があの有名なダグラス将軍でしたか……!お名前はかねがね存じております。私はイリーナ・ヴァルシュタインと申します」
「おお! 王国の方にまで名を知られているとは、これは光栄です」
ダグラスが口元を歪めて笑った、その時だった。
彼の背後から、もう一人の男が静かに姿を現す。
豪奢な絹や宝石で着飾っている評議員たちとは対照的に、その男の服装は極めて質素であった。装飾の類は一切なく、仕立ての良い地味な平服を着ている。
だが、その男が姿を見せた瞬間、広間の空気が一変する。
「大変お待たせして申し訳ない。特使殿、私が評議会代表のロレンツォ・メルカンテです」
ロレンツォの端正な顔には柔和な笑みが浮かんでおり、一見すれば温和な人物に見える。しかし、その痩身から放たれる静かな威圧感と、切れ長の瞳の奥にとぐろを巻く蛇のような冷徹さは、彼が若くしてこの国の頂点に君臨することを物語っていた。
「代表が自ら来てくれるとは。俺の名前はユウ・キサラギだ」
「ふむ……あまり聞いたことがない、珍しいお名前ですね。」
先程までユウを怒鳴りつけていた年配の評議員たちが、自分よりも一回りも二回りも若いその男に対し、弾かれたように立ち上がり深々と頭を下げた。誰もが息を殺し、直立不動の姿勢をとっている。
「さて……」
ロレンツォは彼らに一瞥もくれず、真っ直ぐに歩みを進めて、空席となっていた中央の椅子に腰を下ろした。
「……皆、座りなさい。外から様子を聞いていたが、まるで交渉になっていない」
静かで抑揚のない一言だったが、評議員たちは怯えたように一斉に席へと座り直す。
ロレンツォはテーブルの上で静かに手を組み、真っ直ぐにユウを見据えた。
「それにしても……見事な弁舌でした。我が国の者たちも、すっかり言葉を失っています。貴殿の言う通り、金貨は食えないし、腹が減っては剣も振れません」
「こちらの要求は理解してもらえたかな?」
「そうですね。貴殿の要求を理解できる点もございます」
ロレンツォはそう言って、微かに口角を上げた。
だが、その瞳に笑みは一切ない。彼はテーブルの上で組んだ指をゆっくりと解き、ユウに向かって静かに言葉を紡ぐ。
「しかし、特使殿。貴方の提案には致命的な欠陥があります」
「ほう……一体なにかな?」
「アーベントからの食糧輸出を保証する、とのことですが……現在、貴国は戦いの真っ只中です。自国の兵を食わせるだけでも精一杯なのに、我が国が欲している食料を輸出するのは不可能と考えますが」
ロレンツォの指摘は、極めて正確だった。
戦乱中の国に、他国を養う余裕などあるはずがない。
周囲の評議員たちが息を吹き返し、再びユウへ敵意のある視線を向け始める。
しかし、その視線を感じてもユウは表情一つ変えない。
彼はロレンツォの鋭い視線を受け止めて、淡々と事実を返す。
「その通りだ。通常の戦争であれば、備蓄はあっという間に底をつく」
「ハッタリで我が国を縛ろうということですか? であれば、私は貴方を評価できませんね」
「誰も俺たちの『食料』を食わせるとは言っていない」
ユウは冷たく言い放った。
「食料が足りないなら、敵から奪えばいい。ありがたいことにお隣様が、丁寧に大量の食糧を運んできてくれるんだ」
その言葉に、部屋の隅にいたダグラスが目を細めた。
「帝国の兵站を奪い、俺たちの食料問題を解決する。そして余った分を、そのままお前たちへ回そう。それが俺の計算だ」
「……なるほど。敵の補給線を、自軍と我が国の兵站にすり替えるか」
ダグラスが獰猛な笑みを浮かべて低く唸る。
「口で言うのは簡単だが、ふざけた作戦だ。だが……軍事的には理にかなっておる」
歴戦の将軍がその策を認めたことで、評議員たちの間に再び動揺が走る。しかし、ロレンツォはまだ崩れなかった。商人として冷徹な目をユウへ向ける。
「確かに面白いですが、不確定な戦果を前提とした机上の空論でしょう。……もし貴方たちが帝国に敗北すればどうするのですか?」
「ああ、その時は約束を守れない」
ユウはあっさりと認めた。
そのあまりにも軽い肯定に、評議員たちは「詭弁だ!」と色めき立つ。
だが、ユウの瞳に宿る冷たい光は一切揺らいでいなかった。
「そうなった場合、俺たちは完全に飢える。……なあ、代表者様」
ユウは一歩前へ出て、円卓越しに若き支配者を見下ろした。
「仮の話だ……。数万の軍隊が、帝国に蹂躙される前に『すぐ隣に金と食糧が溢れる場所』を見つけたら、どうする?」
大広間の空気が、一瞬にして凍りつく。
評議員たちの顔から、完全に血の気が引いていく。
彼らはようやく理解した。目の前にいる特使が仕掛けているのは、単なる取引ではない。
『俺たちを支援して帝国を食い止める盾とするか』
『支援を断って、死に物狂いの軍に国境を荒らされるか』
それは、今の彼等だから切れる、最高の切り札だった。
「まさか、我々を脅してくるとは……」
ロレンツォは、たまらずといった様子で短く息を吐き――やがて、肩を揺らして小さく吹き出した。
「……ははっ! 貴方のような狂った交渉人は初めてだ」
その苦笑には、明らかな歓喜が混じっていた。
若き支配者は、自らの命綱すら交渉の道具にするユウの冷酷で論理的な狂気を、商人として価値があると認めた。
「面白い。……貴殿は、我が国が投資するに相応しい方だ」
ロレンツォの切れ長の瞳が、獲物を見つけた蛇のように妖しく光る。張り詰めていた大広間が、この瞬間、完全にユウとロレンツォの二人に支配された。




