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陥穽


ローデリヒの東に広がる平原。

普段は吹き抜ける風と丈の低い草花が揺れるその広大な荒野は、今や空を覆い尽くさんばかりの土埃と、無数の兵士たちが放つ異様な熱気によって支配されていた。

東から、王国の紋章を掲げた第一王子ダリウス率いる王都軍がやってきているが、その集団の足取りは重い。


「……水だ、誰か、水を……」


「足が動かねえ……。俺たちは、どこまで歩かされるんだ……」


陣形の中央付近を歩く一般兵たちは、不満の声を漏らし、虚ろな瞳でただ前の者の背中を見すえて足を動かしていた。

彼らの体力はとうに限界を超えていた。東に向かったかと思うと西へ向かわされ、休む間もない強行軍を強いられている。


重い甲冑は鉛のようで彼らの体力を削り取り、支給されるわずかな水と食料は底を突きかけていた。

なぜ、東と西へ向かったのか。下っ端の兵士たちには何の説明もない。ただ、逆らえば斬首という第一王子の狂気に満ちた命令だけが、彼らの足を無理やり前へと進ませる唯一のエンジンであった。


「前衛、停止ッ!!」


突如として、軍の先頭から甲高い号令が響き渡った。

波が岩にぶつかって止まるように、一万の行軍が重い金属音を立てて次々と足を止める。後方の兵士たちは何事かと首を伸ばした。


「な、なんだ、あれは……」


誰かが震える声で呟いた。

土埃が風に流された先、ローデリヒ平原の西側を完全に封鎖するように、分厚い鋼鉄の壁がそびえ立っていたのである。

いや、それは壁ではない。一糸乱れぬ隊列を組んだ、アーベントの軍団だった。彼らの甲冑は西日を浴びて輝いていた。


東から西へと引きずり回され、士気も体力も低い王都軍とは対極で、万全の状態で待ち構える西方の軍団。そこには圧倒的な威圧感があった。

さらに、王都軍の兵士たちを絶望させたのは、その精鋭六千の前に立っている二人の存在だった。


「あちらにいるのは…!」


「なぜ、あの御方が……!」


アーベント軍の最前列。漆黒の巨大な軍馬に跨り、山のように分厚い装甲を纏った巨漢。その手には、身の丈をゆうに超える巨大な戦斧が握られている。


王国最強の将、レオンハルトに次ぐもう一人の『伝説』。アーベント領主、クロイツ公爵であった。彼がそこにいるだけで、戦場全体が震えて、肌が粟立つような錯覚さえ覚える。

歴戦のオーラというものが実体を伴って、王都軍の兵士たちの喉元に刃を突きつけているようだった。


そして、その隣。純白の馬に跨り、王家の紋章が刻まれた衣服を身に纏う一人の少女。

風に揺れる水色の髪と琥珀色の瞳。彼女が掲げる旗印を見た瞬間、王都軍の将兵たちは自分たちの目を疑った。


「リシェル、殿下……?」


「殿下は王都の離宮でご静養されているはずでは……」


「これはどういうことだ……」


疲労していた兵士たちの脳裏が混乱していく。

クロイツ公爵が従っているということは、あちらにも『大義』がある。自分たちは、狂った第一王子に率いられ、王女を討ち滅ぼそうとしており、『反逆者』となってしまうのではないか?

その疑念は、あっという間に王都軍へと広がっていく。


恐怖、疲労、そして大義の喪失。

王都軍は、完全に平原に縫い留められた。

誰一人として、剣を抜いて進もうとする者はいなかった。


「なぜ止まる!! 進め! 進まんか貴様らァッ!!」


自軍の足が完全に止まったのを見て、王都本隊から第一王子ダリウスが、血走った目を剥き出しにして飛び出してきた。

豪華な装飾が施された鎧を身に纏っているが、その顔は焦燥と怒りでどす黒く歪み、もはや王族としての威厳もない。


「殿下、お待ちください! 兵の疲労は限界です! これ以上は……それに、前方にいるのはクロイツ公爵! まともにぶつかれば、我が軍はひとたまりもありません!」


前線の指揮を任されていた白髪の将軍が、ダリウスの前にすがりつくようにして進言した。


「どうか、ここは一度立て直しを……! 相手にはリシェル殿下がいます。ここで刃を向けると、我々が賊軍の汚名を着ることに……」


「黙れッ!!」


ダリウスは抜身の剣を振り上げると、ためらいもなく忠言した老将軍を斬り捨てた。


「がッ……!?」


鮮血が舞い、老将軍が苦悶の表情を浮かべてその場へ崩れる。

周囲の兵士たちが悲鳴を上げ、後ずさる。自軍の将軍を、ただ進言しただけで斬り殺す。その異常に、王都軍の士気は完全に崩壊の音を立てていく。


「俺が王だ! この俺が王国の絶対者だ!!」


ダリウスは血塗られた剣を天に掲げ、狂乱の声を張り上げた。


「あの老兵も、リシェルも、俺を脅かす逆賊だ! 恐れるな! 逆らう者はこの場で斬る! 全軍、直ちに進撃して奴等を打ち砕け!!」


ダリウスの怒声が平原に響き渡るが、兵士たちは恐怖で身をすくませるばかりで、誰一人として動こうとはしない。彼らにとって、目の前の王女へ突撃することも、後ろで剣を振り回す王子に逆らうことも、等しく『死』を意味していたからだ。


「……チッ。どいつもこいつも、腰抜けばかりかッ!」


ダリウスが忌々しげに舌打ちをしたその時、彼の背後に控えていた黒い甲冑の兵士たちが、不気味なほど揃った足取りで前に進み出た。


「……腰抜けの一般兵なんざ置いていきましょうや、殿下。俺たちが、泥まみれになって露払いってやつをしてやりますよ」


部隊長らしき全身を黒衣の甲冑で覆われた男が、兜の奥で冷たい目を光らせながら進言した。


「俺たちが先陣切って、敵の陣形をズタズタにしてやりますよ。血路が開けば、ビビってる奴等も、続いてきやすぜ」


「……ふん。口だけではないのだろうな」


ダリウスは血走った目で男を睨みつけた後、自らも馬に飛び乗った。


「いいだろう。俺の邪魔をする者は、俺自身が叩き斬ってやる! お前たち、俺に続け!!」


ダリウスは五百の強硬派だけを率い、立ちすくむ王都軍を置いて、たった一部隊でアーベントの分厚い陣形へと向かって突出を開始した。


土煙を上げながら、味方の陣形から完全に離れて、死地へと猛然と駆け出していく一部隊。残された一万の王都本軍は、何が起きているのか理解できずに見送ることしか出来なかった。


「――動いたな」


アーベントの本隊から少し離れた、なだらかな丘陵地帯。

背の高い枯れ草に身を隠しながら、はるか下方の平原を見下ろしていたユウは、感情の読めない平坦な声でそう呟いた。

彼の無機質な黒い瞳の中には、王都軍の巨大な群れから、ダリウスの率いる一部隊だけが切り離されたかのように飛び出してきた光景がはっきりと確認できた。


全ては、会議室でユウが卓上の駒を指で弾いた通り。狂気と疲労、そしてクロイツという絶対的な存在が、ダリウスから正常な判断力を奪い、自ら本軍との繋がりを断ち切らせたのだ。


「おお……! 本当にダリウスだけが飛び出しているぞ!」


ユウの隣で伏せていたヘルベルトが、信じられないものを見るような目で平原を見下ろした。将軍は青年の知略に関心もしたが、同時に武者震いにも近い恐怖心も感じていた。


「驚いている暇はない、ヘルベルト。盤面はまだ完成していない」


ユウは視線を平原に固定したまま、右手をゆっくりと天に向けて挙げた。


「ダリウスと本軍の間に、致命的な距離が生まれた。……今こそ、物理的に分断する時だ」


ユウの言葉に、アルトとイリーナの表情が引き締まった。

二人は一斉に腰元に携えている剣を抜き放った。彼らの背後には、ユウが選抜したアーベント軍の機動力に優れる騎兵三百が、息を潜めて突撃の合図を待っている。


「頼んだぞ、アルト。イリーナ」


ユウが静かに声をかけると、アルトは真っ直ぐに前を見据えたまま力強く頷いた。


「ああ。ダリウスの部隊を本軍から切り離し、これ以上の犠牲を防いでみせる」


「行くぞッ!!」


ユウの振り下ろされた腕を合図に、アルトが丘を蹴り下った。

それに続くように、イリーナ、ヘルベルト、そして三百の騎兵たちが、地響きを鳴らしながら一斉に丘陵を駆け下りる。

目標は、本軍から完全に孤立して平原を突き進むダリウスの側面。


猛烈な勢いで土煙を巻き上げながら、遊撃部隊は一体となり、王都軍とダリウスの間に生まれた僅かな空間へと突撃を仕掛ける。


「な、なんだ!? 敵の伏兵かッ!?」


側面の丘から突然、現れた騎兵にダリウスの兵士たちが慌てて陣形を西から北へと向け直そうとしていた。


「突破するッ!!」


先陣を切るアルトの剣が、鋭い銀閃となって敵の先頭を薙ぎ払った。青年の技量はいくつかの死線を越えたことで着実に上がっていた。アルトの一振りで黒甲冑の兵士たちが次々と吹き飛び、強固な防陣に一瞬にして亀裂が走る。


「続け!! ここで完全に切り離す!」


イリーナも剣を振るい、舞うような身のこなしで敵の側面に深く斬り込んでいく。青き近衛騎士の太刀筋は美しく、そして致命的だった。彼女が通り抜けた後には、敵兵が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていく。


「おおおおおッ!! アーベントの力、馳走しよう!!」


ヘルベルトが大剣を振り回し、岩を砕くような剛腕で敵の陣列を物理的に粉砕する。


三百の騎兵がその亀裂に雪崩れ込み、ダリウスの五百と、後方で立ちすくむ王都本軍一万との間に、完全なる『鋼鉄の壁』を形成した。


「き、貴様らァッ!! どこから湧いて出た!!」


完全に分断され、後方を塞がれた形となったダリウスが、馬上で血を吐くような絶叫を上げた。彼の顔は屈辱と驚愕で歪み、ギリギリと歯を鳴らしている。


「 貴様ら、この俺の邪魔をするか!!この俺を誰だと思っているのだ!」


ダリウスの怒声に対し、アルトは剣についた血を振り払いながら、静かに、しかし燃えるような闘志を込めた瞳で彼を睨み返した。


「……邪魔をしているのは、あなたです、ダリウス王子」


アルトの声が、戦場の喧騒を切り裂いて響く。


「あなたの狂った行軍は、ここで僕たちが止める!」


一方、ダリウスが完全に分断された光景を遠くから見届けていたクロイツ公爵は、ニヤリと猛禽類のような笑みを浮かべた。


「見事だ。若造どもが上手く動いたようだな」


クロイツ公爵は巨大な戦斧を天高く掲げ、腹の底から響くような大音声で、一万の王都本軍に向けて号令を発した。


「王都の兵たちよ、よく聞けェ!!」


その咆哮が、平原の空気を震わせる。


「貴様らの頭はすでに落ちた! 我らは、王位継承者リシェル殿下を擁し、国を乱している者を討つべく、ここにいる! 貴様らの中に王女へと剣を向ける逆賊はいるか!!」


その言葉に、王都軍の兵士たちは互いに顔を見合わせ、動揺を隠しきれずにざわめいた。

クロイツ公爵の隣で、リシェルが馬を半歩前に進め、凛とした声で言葉を継ぐ。


「王都の兵士の皆様! 剣を捨ててください! 私は皆様を傷つけたくはありません! 降伏する者には、このリシェルの名において、命と安全を完全に保障します! これ以上、同胞同士で無駄な血を流すのはやめましょう!!」


美しく、そして慈愛に満ちた王女の降伏勧告。

それは、疲労困憊で戦う理由を失っていた一万の兵士たちにとって、まさに暗闇に差し込んだ救いの光であった。

指揮官はすでに孤立し、自分たちには戦う意志も、そして王女に刃を向ける義もない。


最前列の一人の若い兵士が、手から剣を取り落とした。

それに続いて、次々と武器が大地に投げ捨てられ、乾いた金属音が平原に連鎖していく。


「……終わったな」


丘の上からその光景を見下ろしていたユウは、小さく息を吐き出した。


彼の作戦は、この瞬間に現実のものとなった。

残るは、孤立したダリウスと彼を守る者たちのみとなっている。

盤面は最終局面を迎え、この戦で最後の死闘が幕を開けようとしていた。

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