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交錯

ローデリヒ城にある会議室。

円卓の端に座る黒髪の青年が口にした、王都からダリウス軍がやってくるという言葉の余韻が、室内の空気を冷たく縛り付けている。


歴戦の宿老たちは皆、疑心と驚愕の入り交じった視線を青年に向けていた。ダリウス王子が東のルーヴェルへ出陣したという情報は、彼らも把握していた。しかし、そこから折り返して王都へ戻り、休む間もなくこの西方へ軍を向けるのは常軌を逸している。兵の疲労を考えれば、本来だとあり得ない行軍だった。


だが、その静寂を打ち破るように、会議室の分厚い木扉が乱暴に叩き開けられた。

全身を土埃にまみれさせたアーベントの斥候が、息を乱しながら駆け込んできたのである。


「ご、ご報告します……!」


斥候は円卓の奥に座るクロイツ公爵に向けて、片膝をついて声を張り上げた。


「東より、大軍が進軍中です! 旗印は王家の紋章。ダリウス殿下が率いる王都軍、その数およそ一万! 凄まじい強行で、ローデリヒに向けて一直線に進軍しています!」


その報告に、室内の宿老たちが一斉にどよめいた。


「まさか……! 本当に来るというのか!」


「ルーヴェルからそのままここまで向かってくるだと? 兵を休ませないとは正気ではない!」


先ほどまでの疑心は完全に払拭され、彼らの視線は再びユウへと集まった。感情の欠片も読み取れない黒い瞳をしたこの青年は、本当に盤面の全てを見通していたのだ。


「ダリウスがやってくることを我がアーベントの情報網よりも早く見抜いていたというわけか」


クロイツ公爵が、白髭を撫でながら低く唸った。その眼光には、ユウに対するさらなる評価の色が濃く表れている。


「状況は分かった。敵の数は一万。対する我が軍が即座に動かせる精鋭は六千。数の上では劣っているが……」


「恐れることはありません、公爵閣下」


宿老の一人が力強く立ち上がり、卓を叩いた。


「敵は東へ無駄足を踏まされた上に、休む間もなく西へ走らされている烏合の衆。疲労困憊で士気も地に落ちているはずです。対して我が軍は、万全で待ち構えれます。平原で正面からぶつかれば、一万の敵など容易に撃破できましょうぞ!」


「左様! この堅牢な城壁に籠もるまでもない。王都の軍勢に、我がアーベントの力を見せつけてやりましょう!」


血気盛んな将軍たちの言葉に、他の者たちも次々と賛同の声を上げる。


確かに、軍事的な優劣だけで見れば、アーベント軍の勝利は揺るぎないものに思えた。無能な指揮官によって疲弊しきった一万と、歴戦の将が率いる精鋭六千。

激突すれば、結果は火を見るまでもなく明らかである。

しかし、ユウは視線を手元の羊皮紙の地図に落としたまま、冷淡な声でその空気を一刀両断した。


「普通に戦えば、間違いなく勝てる。だが、それをやれば俺たちの負けだ」


ピシャリと言い放たれた言葉に、宿老たちが怪訝な顔で口を閉ざす。


「負けだと? 勝ち戦で負けとは、どういう意味だ、若造」


憤慨する将軍に向けて、ユウはゆっくりと顔を上げた。


「相手は腐っても一万の正規軍だ。正面からぶつかって戦えば、こちらにも被害が出る。そして何より、王国の軍勢が大きく消耗してしまう。それが、どういう意味を持つかは分かるだだろう」


ユウの言葉に、隣に座っていたアルトの肩がビクッと跳ねた。


「……王国全体の兵力が、著しく削られる」


アルトが絞り出すように呟いた。


「その通りだ」


その発言にユウは頷き、地図の東側――ルーヴェルの領地を指差した。


「ダリウスが西へ向かってくるのは、奴の意志だけではない。背後で、セリオスが操っている。ヤツの狙いは、王都軍と俺達を激突させ、両者を共倒れにすること。そして、手薄になった王国に、帝国軍を引き入れるつもりだろう。これが、セリオスの仕掛けた本当の罠だ」


「なんだと……!」


ヘルベルトが弾かれたように身を乗り出した。


「では、この一万の軍勢は、我々を削るためだけの使い捨ての駒だというのか!? 自国の正規軍を、東の売国奴のために!」


「ええ、その通りです」


リシェルが静かに、しかし悲痛な響きを帯びた声で言葉を継いだ。


「兄上……ダリウスは、もはや正常な判断を失っています。己の権力を守るためなら、無用な甘言にも容易に乗ってしまうでしょう。……この戦い、まともにぶつかり合えば、王国は内側から完全に崩壊していきます」


その残酷な真実に、会議室は再び死のような静寂に包まれた。

ダリウスの侵攻自体が、国家を売り渡すための謀略の一手。

もし、ここで王都軍を完膚なきまでに叩き潰せば、それはセリオスが描いたシナリオの一筆にすぎない。


「セリオス……」


アルトは歯を食いしばり、拳を強く握り締めた。

かつて、優しかった次兄だったが、長兄を見殺しにした。そして今は、自らの野望のために王子を囮として使い、王国そのものを帝国に売り渡そうとしている。


アルトの脳裏に、凄惨な戦場で命を落とした長兄の背中が蘇る。そして、己の弱さを呪った日々がフラッシュバックする。

だが、今のアルトはかつての彼ではなかった。


「……セリオスの思い通りにはさせない。僕たちで奴の願望を叩き割ろう」


アルトは顔を上げ、クロイツ公爵、そしてユウを真っ直ぐに見据えて力強く宣言した。その瞳には、肉親と刃を交えることへの迷いは微塵もなかった。


「兄上の無念も、王国を売る真似も、これ以上好きにはさせない」


「アルトの言う通りだ」


イリーナも静かに立ち上がり、腰の剣の柄に手を添えた。


「帝国を再びこの国に招き入れるような謀略、殿下……そして何より王国の騎士として断じて許すわけにはいかない。私の剣も好きに使ってくれ」


二人の揺るぎない覚悟に、クロイツ公爵は重々しく頷き、そしてユウへと視線を向けた。


「真の敵は見えたな。この戦、まともに戦って互いに血を流せば、セリオスや帝国の思う壺ということだ。ならば、お前はどうやってこの盤面を覆す。剣を交えずに、一万の敵を退かせる方法でもあるというのか」


「退かせるんじゃない」


ユウは少しの感情も交えずに、淡々と、しかし恐るべき言葉を口にした。


「丸ごと吸収するんだ。こちらの被害も、向こうの被害も、限りなく抑えた形で」


「なんだと……?」


宿老の一人が呆然と声を漏らした。敵軍を一万も無傷で降伏させ、さらに自軍として取り込むなど、いかなる戦史にも存在しない狂気の沙汰である。


「ダリウス率いる王都軍一万は、ダリウスへの忠誠ではなく、恐怖によって、無理やり動かされているだけだ」


ユウは卓上の駒を二つに分けるように動かした。


「であるならば、ダリウスを引き剥がせば、疲弊しきった王都軍は一瞬にして戦う理由を失うだろう」


「……頭を切り離すということか。言うは易いが、一万の軍勢の中からどうやって総大将だけを引き剥がすのだ?」


ヘルベルトの問いに、ユウは生ける伝説である老公爵を真っ直ぐに見据えた。


「そのためにはクロイツ公爵。あんたの力が必要だ。公爵には、六千の精鋭を率いて、一歩も動かない『壁』になってもらう」


ユウは一切の謙ることなく、堂々と指示を出した。


「王都軍の進軍ルートであるローデリヒの平原を、アーベント軍の分厚い陣形で完全に塞ぐ。そして最前線にクロイツ公爵とリシェル殿下に立ってもらう。遠征で疲弊しきった王都の兵たちにとって、無傷のアーベント精鋭と生ける伝説が立ちはだかる光景は絶望的だろう。まずはその圧倒的な威圧で、一万の足を止めさせる」


「なるほど、心理的な重圧で士気を砕くか。だが、狂ったダリウスがそれに怯むとは思えんが」


「それでいい。足の止まった軍を見て、怒り狂ったダリウスは前線に飛び出してくるはずだ」


ユウの瞳に、冷酷な光が宿った。


「ダリウスが本軍から孤立したその一瞬を突く。俺とアルトとイリーナの少数精鋭による遊撃部隊で、ダリウスの周囲を固める工作員ごと一気に強襲し、本軍との間に物理的な分断線を引く」


息を呑むような大胆かつ緻密な作戦に、会議室の誰もが言葉を失った。


「ダリウスと強硬派が王都本軍から切り離された瞬間、クロイツ公爵とリシェル殿下が大義名分を投下する。すなわち、『我々はリシェル王女を擁し、ダリウスを討ちに来た。剣を捨てれば命は保証する』という降伏勧告だ」


ユウは最後に残った敵の駒を指先で弾き飛ばした。


「指揮官が孤立し、正当な王位継承者から命を保証されれば、戦う理由のない王都の一般兵は一斉に武器を捨てるだろう。これで、最小限の被害で戦闘は終結するはずだ」


完全なる静寂。

力によるねじ伏せではなく、人間の心理、疲労、そして軍の構造を完璧に計算し尽くした、文字通りの『無血開城』の戦術。

宿老たちは、目の前に座る青年が、もはや人間離れした怪物のように思えてならなかった。


「……ふ。ふはははははっ!!」


静寂を破ったのは、クロイツ公爵の腹の底から湧き上がるような哄笑だった。


「このわしとアーベントの精鋭を、ただの一歩も戦わせずに『囮』として使う気か! 歴代の国王ですら、わしにそのような命令を下したことはないぞ!」


老公爵は笑い涙を拭いながら、たまらないというように口角を吊り上げた。


「面白い! 実に面白い! その知略、底が見えん! いいだろう、我がアーベントは貴殿が思い描く通りに動いてみせよう!」


「感謝いたします、クロイツ公爵」


リシェルが立ち上がり、深く頭を下げた。


「そしてアーベントの皆様。無謀なお願いであることは承知しております。ですが、どうか私に、一人でも多くの民と兵の命を救うためのお力をお貸しください」


その真摯な姿は、すでに一人の立派な君主としての風格を漂わせていた。


「全軍、出陣の支度を急げ!」


クロイツ公爵の号令が、城の奥深くまで響き渡った。


「目標はローデリヒ平原! ダリウスの道化どもに、我らアーベントの威容と、真の王族の姿をその目に焼き付けてやるのだ!」


クロイツの力強い号令が響き渡り、会議室にいた者たちは一斉に立ち上がった。一万の王都軍を迎え撃つという作戦に向け、皆の表情が険しくなっていく。

そんな慌ただしい空気の中、開け放たれた扉から一人の伝令が駆け込んできた。


「申し上げます! リシェル殿下、ならびにアルト様、ユウ様にお目通りをしたいという者たちが城門に到着しております!」


「私たちに……?」


リシェルが不思議そうに目を瞬かせる。アーベント領に彼らの知己などいるはずがない。アルトとユウも顔を見合わせ、訝しげに眉を寄せた。


「身元は分かっているのか?」


アルトの問いに、伝令兵は姿勢を正して答える。


「はい。カインと名乗る者と、黒装束の男、そして二人の女性です。王都から急ぎ駆けつけたと申しております」


「「カイン……!?」」


アルトとユウは咄嗟に報告された名を繰り返していた。二人の顔には驚きの表情が走っていた。


四人は即座に会議室を飛び出し、伝令兵の案内で城の広間へと向かった。

石造りの広間に足を踏み入れると、そこには全身を土埃で汚した四人の姿があった。限界まで馬を走らせてきたのだろう、彼らの足取りは重く、疲労困憊であることは一目で分かった。


「お兄様……!」


「セシリア! エリナ!」


広間に入るなり、セシリアが涙ぐみながら駆け寄ってきた。アルトは妹の小さな体をしっかりと抱き止め、その後ろで安堵の笑みを浮かべるエリナに深く頷いた。


「どうして、君たちがここまで……」


アルトが驚きと喜びに声を震わせると、御者台で土埃を浴び続けていたカインが白い歯を見せて笑った。


「よぉ! 元気にしてたか?」


「お前たち、王都から抜けてきたのか?」


ユウが淡々と問うと、カインは自慢げに鼻を擦った。


「ああ。王都が妙にきな臭くなってな。ルーヴェルに向かった軍が引き返すって聞いた瞬間に、すぐに王都から離れることにしたんだよ。それで、大急ぎで馬車でここまで逃げてきたってことよ」


「流石の判断力だな」


ユウが素直に称賛の言葉を口にすると、アルトも深く頷いた。


「カイン、二人をここまで守ってくれて本当にありがとう」


「よせやい。照れるじゃねえか」


照れ隠しに頭を掻くカインの横に進み出たのは、リシェルの暗躍部隊「影」の者であるクロウだった。彼は片膝をつき、リシェルに向けて深く頭を下げる。


「殿下、ご無事で何よりです。私は三人の護衛として同行しておりましたが、無事に皆様と合流を果たしましたので、これより王都へと戻ります。王都の混乱に乗じて、さらに情報を探る必要がありそうです」


「クロウ……。このような遠方まで、本当にご苦労様でした。王都はこれから非常に危険な状態になります。どうか、命を最優先に気をつけてください」


リシェルの労いの言葉に、クロウは「御意」と短く応え、音もなくその場から姿を消した。彼もまた、己の戦場へと戻っていったのだ。


再会の喜びも束の間、広間の窓からは、出陣に向けて慌ただしく動き回るアーベント兵たちの喧騒が聞こえてくる。その異様な空気に気づいたセシリアが、不安げにアルトの服の袖を掴んだ。


「お兄様……。また、戦が始まるのですか?」


震える妹の声に、アルトは彼女の目線に合わせて静かにしゃがみ込んだ。


「……王都の軍が、一万の兵を率いてこのローデリヒに向かってきているんだ。それを迎え撃つために、僕たちも出陣する」


「そんな……。一万の軍勢と戦うなんて……」


エリナが青ざめ、口元を両手で覆う。セシリアの大きな瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「嫌です……。お兄様やユウ様が傷つくのも、王国の国民同士が殺し合うのも……。これ以上、誰も死なないでほしい……」


痛切な願いを口にする妹の頭を、アルトは優しく、力強く撫でた。


「大丈夫だ、セシリア。僕もユウも、死ぬつもりはない。それに……」


アルトは立ち上がり、隣に立つユウと視線を交わした。


「そうはさせない。ユウの策で、これ以上の不要な血は流させない。王都軍をの被害を抑えて撃破するつもりだ」


「そんなことができるのですか……?」


「ああ。だから、安心してここで待っていてくれ。必ず、みんな無事に帰ってくるから」


アルトの力強い誓いに、セシリアは涙を拭い、小さく、しかししっかりと頷いた。


「……はい。お兄様、ユウ様……。どうか、王国の国民に被害を出さないでください。皆様のご無事を、ここでお祈りしております」


「勿論だ。約束しよう」


これまで沈黙していたユウが、絶対的な確信を帯びた声で短く応えた。その後ろで、エリナが祈るように両手を組み合わせ、彼を真っ直ぐに見つめていた。ユウは彼女の視線に気づくと、ほんの僅かに頷き返して前へと振り向いた。


「行くぞ。出発前に準備を整えよう」


ユウが歩き出そうとした、その瞬間だった。


「ユウ様……っ!」


エリナが弾かれたように駆け出し、ユウの背中にすがりつくようにして、その細身の体を強く抱きしめた。

突然の行動に、広間の空気が一瞬だけ止まる。普段は一歩引いて控えている彼女が、大勢の兵士や王女の前で見せた大胆な行動。それほどまでに、彼女の心は限界まで張り詰めていたのだ。


「どうか、ご無事で……」


エリナはユウの背中に顔を埋め、震える声で祈りを捧げた。そして、彼にしか聞こえないほどの小さな声で、そっと囁く。


「……これ以上、私を心配させないでください」


「……ああ」


その切実な温もりに触れて、ユウは足を止めた。振り払うことはせず、ただ静かに視線を落とし、不器用ながらも短く応えた。それは彼なりの、確かな誓いであった。


その二人の姿を少し離れた場所で見つめていたイリーナは、ふっと息を呑み、わずかに目を伏せた。

先日、破れた服を隠すためにユウから上着を借りた時の、あの不器用な優しさが脳裏を過る。無意識のうちに胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚え、彼女の端正な顔立ちに、ほんの少しだけ切なげな色が浮かんでいた。

己の中に芽生えかけた名状しがたい感情に蓋をするように、イリーナは小さく首を振り、再び近衛騎士としての凛とした表情を作った。


「……さあ、参りましょう」


リシェルの静かな声に導かれ、彼らはカインとセシリアたちに見送られながら広間を後にした。


――一時間後。

ローデリヒの強固な城門が重々しい音を立てて開き、クロイツ公爵が率いるアーベントの精鋭六千が平原へと進み出た。

分厚い鋼の甲冑を纏った重装歩兵たちが、一糸乱れぬ足並みで大地を踏み鳴らす。その歩みは地鳴りのように腹に響き、太陽の光を反射する無数の長槍は、まるで鋼鉄の森のように威圧感に満ちていた。


最前列には、圧倒的な覇気を放つ生ける伝説クロイツ公爵と、毅然とした態度で馬上に跨るリシェル王女の姿がある。

東の謀略を打ち砕き、王国を救うという大義を得たアーベント軍の士気は、これ以上ないほどに最高潮に達している。

その本隊から少し離れた側面の丘陵地帯に、ユウを始めとする遊撃部隊が身を潜めていた。


アルトは愛剣の柄を確かめるように握り直し、イリーナは藍色の軽鎧の留め具を静かに調整している。ヘルベルトもまた、大剣を背負い、静かな闘志を燃やしていた。


風が、乾いた土埃の匂いを運んでくる。

ユウが東の地平線に目を向けると、そこにはすでに、空を覆い尽くさんばかりの巨大な砂塵が舞い上がっていた。


「来たな」


ユウが短く呟く。

疲労と狂気に支配された王都軍一万が、ついに姿を現した。

自国内部で国家の命運を分ける巨大な盤面。

勝利を掴むための戦の幕が切って落とされようとしていた。

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