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戦雲


王国の中央に位置する王都レイヴァルト。

豪奢な大理石で彩られた王宮の玉座の間に、かつてないほどの激しい怒声が響き渡っていた。


「逃げただと……!? 離宮に閉じ込めていたリシェルが、王宮から消えただと!?」


玉座の前で、精緻な装飾が施された卓を蹴り飛ばしたのは、第一王子ダリウスであった。

彼の顔は怒りと焦燥で赤く染まり、その瞳には狂気すら宿っていた。

数日前、東部ルーヴェルを治める若き英雄セリオスに謀反の疑いがあるという情報が王都内にもたらされた。ダリウスはすぐさま軍を率いてルーヴェル近郊へ出陣したが、それは見え透いた虚報であった。徒労に終わった遠征の帰路、自らが王都を離れた隙を突かれたのではないかという疑念が、ダリウスの脳裏を侵食し始めていた。

そして王宮に帰還した直後、最悪の報告が彼を待っていたのである。


「恐れながら、申し上げます……!」


玉座の前に平伏する衛兵の長は、震える声で報告を続けた。


「近衛騎士の制服を着た数名の男女が、西門を突破したと報告が……。その中に、リシェル殿下と見られる女性の姿があったかと……」


「なぜその場で斬り捨てなかった! 貴様ら、王都の警護を何だと思っている!!」


ダリウスは腰の剣を引き抜き、報告に上がった衛兵の首元へと刃を突きつけた。


「殿下、お鎮めください。ここで兵を斬っても事態は変わりません」


狂乱するダリウスを静かな声で制止したのは、ギルベルトであった。王国の頭脳とも呼ばれる彼は、冷や汗を流す衛兵を庇うように一歩前に出る。


「西へ向かったということは、十中八九、アーベント領のクロイツ公爵へ協力を求めに向かったのでしょう。かの老将がリシェル殿下を保護すれば、我々にとって非常に厄介な事態となります」


「アーベントだと……あの忌々しい辺境の老犬のところへ逃げ込んだというのか!」


ダリウスは血走った目でギルベルトを睨みつけた。


「ならば話は早い! アーベント領だ! ただちに全軍を再編し、あの生意気な老犬の首とリシェルを引き摺り出しに行け!」


「お待ちください、殿下! それは愚策の極みです!」


普段は冷静なギルベルトが、声を張り上げて進言した。


「今、自国同士で大規模な戦を起こせば、帝国につけ込まれる隙を与え、何も生み出しません。ここは一度冷静になり、アーベントに対しては外交で圧力を――」


「黙れッ!!」


ダリウスの怒声が、玉座の間に轟いた。


「俺の命令に背くというのか、ギルベルト! 貴様、さてはアーベントと内通しているな!? そうでなければ、反逆者を擁護する理由がない!」


完全に理性を失っているダリウスの眼光には、もはや正常な判断能力を欠いていた。


「衛兵! この裏切り者を捕らえよ! 直ちに死罪に処す!!」


その言葉に、室内にいた文官たちが一斉に青ざめ、次々と床に膝をついた。


「殿下、お待ちください! ギルベルト殿は長年殿下に尽くしてきた忠臣! なにとぞ、命ばかりはご容赦を!」


「これ以上の混乱は、王都の政務そのものを麻痺させます! どうか、お考え直しください!」


「くどい!!」


ダリウスは嘆願する文官たちに向けて、抜身の剣を振り上げた。


「俺の決定に口を挟む者は同罪とみなす! 誰であろうと、この王都で俺に逆らう者は生かしてはおかん! 衛兵、早くこいつを連れて行け!!」


しかし、文官たちは引かなかった。彼らは震える足で立ち上がり、決死の覚悟でダリウスの周囲を囲むように立ち塞がった。 


「殿下……! ギルベルト殿を失えば、王国の国政は崩壊いたします! どうか、どうかご再考を!」


騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた衛兵たちでさえも、武器を構えることなく、文官たちに倣ってその場に片膝をついた。


「殿下……我らからも、伏してお願いいたします。ギルベルト様の忠義は、誰もが知るところにございます」


文官、そして衛兵までもが、一人の副官の命を乞うために第一王子に反旗を翻すかのような異常事態。玉座の間は、張り詰めた異様な空気に支配されていた。

自分を取り囲む数多の臣下たちの姿に、ダリウスの顔が屈辱と怒りで激しく歪む。全員を斬り捨てることも脳裏を過ったが、ここで本当に血の雨を降らせれば、自分が玉座に座る前に王宮が機能不全に陥ることは明らかであった。


「……チッ」


ダリウスは忌々しげに舌打ちをし、剣を乱暴に鞘に納めた。


「貴様ら、よく覚えおくのだ。次はないぞ。……こいつを地下牢へぶち込め。光の射さぬ場所で、己の不忠を悔いるがいい」


拘束の指示が出たその時、ギルベルトは一切の弁明を口にしなかった。

衛兵たちに両腕を掴まれながらも、彼はただ目を伏せ、微かに震える息を長く吐き出した。その静かな所作には、長年仕え、王の器だと信じたかった主君が完全に正気を失ったことへの絶望と、間もなくこの王都が凄惨な破滅を迎えるという痛切な確信が込められていた。

忠臣としての最後の進言すら届かなかった彼は、抵抗する理由すら見出せないまま、ただ静かに、光の届かぬ牢へと連行されていった。

王都の頭脳を自らの手で切り捨てたダリウスは、血の気の引いた文官たちを見下ろし、狂気をはらんだ声で命を下した。


「全軍に出陣の触れを出せ。西へ向かう。逆らう者は、一人残らずアーベントの城壁ごと焼き尽くしてやる」


同時刻。

王都レイヴァルトから、西方の都市ローデリヒへと続く街道。

車輪が巻き上げる乾いた土埃の匂いと、限界まで酷使される馬の濃い汗の臭気が、焦燥感を煽るように鼻腔を突き刺してくる。王都から逃げ出した難民たちの列を巧みに躱しながら、一台の簡素な馬車が、車体を激しくきしませて凄まじい勢いで道を疾走していた。


「あまり馬を酷使するな。この速度を維持できなくなるぞ」


御者台の横に座る黒装束の男――リシェルの暗躍部隊「影」の一員であるクロウが、むせ返るような土埃の匂いに顔をしかめることもなく、冷静な声で隣の青年に忠告した。


「平気だ! 戦場を走り抜けてきた俺の勘が、すぐにでも王都から離れろって告げてるんだよ!」


手綱を握り、必死の形相で馬を駆るのは、かつてアルトやユウと共に戦場を生き延びた青年、カインであった。彼の額には大粒の汗が浮かんでいる。

王都での異変をいち早く察知した彼らは、間髪入れずに王都からの脱出を選択していた。


「俺が王都で探った情報だと、ダリウスの軍はルーヴェルから折り返して王都へ帰還した。その直後に殿下が姿を消したと知れば、間違いなく次は西へ兵を向けるはずだ」


クロウは風に目を細め、感情の読めない声で呟く。


「王都周辺で、大規模な戦が起きるのは明白。ここから先は時間との勝負になる」


「だから急いでるんだよ! アルトとユウのところに合流しなきゃ、俺たちの命も危ない!」


揺れる馬車の中には、少女と女性が身を寄せ合っていた。狭い車内には、外から入り込む微かな埃っぽさと、荷物に染み付いた油の匂いが満ちていたが、二人は互いの温もりでその不安を和らげていた。

一人は、アルトの妹であり、王都でリシェルに匿われていたセシリア。もう一人は、アルトの家で長年使用人として働き、同じくリシェルの庇護下にいたエリナである。


「……アルトお兄様たち、無事でしょうか」


セシリアが、不安げに小さな両手を握り締めた。その震える手を、エリナが優しく包み込む。


「大丈夫です、セシリア様。アルト様の剣の腕前は王国でも屈指ですし、何より……ユウ様が一緒にいらっしゃいますから」


ユウの名前を出した瞬間、エリナの顔がほんの少しだけ朱に染まった。


「……また、戦となるのでしょうか」


セシリアの問いに、エリナは悲しげに目を伏せた。


「クロウ様の情報や、私が王都で侍女たちから聞いている限りのダリウス王子だと……高い確率で、戦になりそうです」


「お兄様たちに会えるのは嬉しいです。でも……皆が傷つき、苦しむ姿は見たくありません」


セシリアの優しく、痛切な願いに、エリナは深く頷いた。


「セシリア様は、本当にお優しいですね。共に、私たちが彼らのためにできることを探しましょう。彼らが帰るべき、温かい場所を作ることも、私たちの大切な役目ですから」


エリナはそう微笑みながらも、馬車の窓から流れる景色を見つめ、ふと自身の胸の奥に灯る想いに触れた。


(ユウ様……どうか、ご無事でいてください)


戦乱の足音が背後まで迫っているというのに、恋人である黒髪の青年の無表情な顔を思い浮かべてしまう。そんな自分を少しだけ不謹慎に思いながらも、彼女の心の中には、ユウへの絶対的な信頼と愛情が確かに存在していた。


「カイン様!」


エリナは御者台へと繋がる小窓を開け、声を張り上げた。


「あとどのくらいで、ローデリヒに到着しますか!?」


「まだ時間は掛かる! だが、馬が倒れるまで走らせてでも、絶対にアルトとユウの元へ送り届けてみせる!」


カインの力強い返答に、馬車はさらに速度を上げ、西の最果てを目指して土煙を上げていった。

一方、西方の主要都市、ローデリヒ。

クロイツ公爵の居城であるローデリヒ城の奥深くでは、謁見の間での劇的な幕引きの後も、緊迫した空気が漂っていた。

円卓を囲むのは、クロイツ公爵、息子のヘルベルト、そして重鎮たち。向かいにはリシェル、アルト、イリーナ、そしてユウが座っている。


「――以上が、我がアーベント領の現在の兵力と、防衛線の配置状況です」


一人の文官が羊皮紙の地図を指し示し、重々しい声で報告を終えた。


「リシェル殿下を保護した以上、ダリウスが黙っているとは思えません。いずれは何らかの形で兵を向けてくるでしょうが、我らがローデリヒの城壁に籠もれば、数ヶ月の防衛は――」


「籠城は不要だ」


会議室の空気を断ち切ったのは、ユウの平坦な声だった。

円卓の端に座り、それまで静かに地図を見つめていたユウが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、すでに起こるべき未来が完全に映し出されていた。


「籠城などしている時間はない。王都から、ダリウスの軍がやってくる。東から大軍がやってくるはずだ」


ユウの絶対的な予言に、会議室の空気が一瞬にして凍りついた。王都の狂気と、背後に迫る東の闇。

アーベントという新たな協力者を手にした彼等に、最初にして最大の試練が、すぐそこまで迫っていた。

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