大義
生ける伝説と謳われるクロイツ公爵。
彼から放たれる、立っているだけで息が詰まるような凄まじい威圧感の只中で、黒髪の青年は迷いのない足取りで一歩前へと踏み出した。
ユウの無表情な瞳が、玉座から自分を見下ろす老公爵の鋭い眼光を真っ直ぐに射返す。
百戦錬磨の将軍や文官たちが立ち並ぶ重苦しい謁見の間にあって、丸腰に等しい名もなき青年の態度に、周囲の宿老たちは一斉に眉をひそめた。何者だ、あの若造は。そんな侮蔑と警戒の視線が四方から突き刺さる中、ユウは一切の感情を交えない、ただ事実のみを並べるような平坦な声で口を開いた。
「ダリウス王子は、権力を掌握したつもりのようだが、焦りから実の妹を幽閉するという愚かな行動を取った。これは、彼が王都を完全にコントロールできていない証拠であり、王都の権力基盤は既に崩壊しかけている」
静まり返った謁見の間に、ユウの冷徹な声が響き渡る。
王国の次期国王と目され、現在の中央を牛耳っている第一王子ダリウス。その絶対的とも思える権力者の足元を、一片の敬意も恐れもなく、ただの『崩壊寸前の盤面』として分析してみせた青年に、宿老たちからどよめきが漏れた。
しかし、玉座のクロイツ公爵だけは微かに目を細め、先を促すように沈黙を守っている。
「ダリウスがリシェル殿下を幽閉し、それを隠蔽しなければならなかったのは、奴が自らの正当性に恐怖を抱いているからだ。王都の貴族たちは表向きはダリウスに従っているように見えるが、それは忠誠ではなく単なる利害関係に過ぎない。ひとたび彼が致命的な綻びを見せれば、その基盤は内側から崩壊する」
「……仮にそうだとして」
宿老の一人が、我慢しきれないというように声を荒らげ、一歩前に出た。
「王都が自滅しようがどうなろうが、我らアーベントには関係のなきこと! むしろ王都が権力闘争で混乱するのであれば、我ら西方はこの堅牢なローデリヒに籠もり、守りを固めるのが最も賢明な道ではないか! なぜわざわざ、崩れかけの火中の栗を拾う必要がある!」
その反論は、一つの領地を守る重鎮としては極めて真っ当で、現実的なものであった。他の宿老たちも同調するように頷き合う。
しかし、ユウは視線すらその宿老に向けず、ただ正面のクロイツ公爵だけを見据えて言葉を紡ぐ。
「王都の崩壊を対岸の火事として傍観するのは、最悪の選択だ。なぜなら、この王国内には外敵がいる。王都が内乱状態に陥れば、必ず東のルーヴェルで動きが出てくる」
ユウのその言葉に、イリーナだけでなく、アルトの表情も険しくなる。ユウは淡々と、しかし決定的な絶望をこの謁見の間へと放り込んだ。
「ルーヴェルには、アルトの兄セリオスがいる。奴は帝国を退けた英雄と王都では言われていたが、その実は王国を裏切り、レオンハルトの長兄レオニードを見殺しにした張本人だ。奴はすでに、帝国と通じているはずだ」
「なんだと……!? あの西方にも名轟く若き英雄が、裏切っているだと……!」
宿老たちが驚愕に目を見開き、信じられないものを見るようなざわめきが謁見の間を支配する。王都の腐敗とは次元が違う、国家存亡の危機。
「……やはり、その情報は事実であったか」
クロイツ公爵が重々しい声で呟き、ざわめきを切り裂いた。
「東の不穏な噂は我らの耳にも届いていたが、真実であったとはな。何より、レオンハルトの息子であるアルトがここまで逃れてきたことが、その動かぬ証拠というわけだ」
アルトは悔しさに唇を噛み締めながら、ただ深く頷いた。尊敬していた父の死、そして故郷を売った兄。その凄惨な事実を背負うアルトの姿に、宿老たちは沈黙せざるを得なかった。
「帝国がその隙を見逃すはずがない」
ユウは再び冷徹に論理を組み立てる。
「東のルーヴェルが完全に戦火に呑まれ、中央の王都が崩壊した後……孤立したこのアーベントが、大軍に囲まれながら無傷で生き残れるとでも思っているのか?」
王都を無視して籠城することは、一見安全に見える。
しかし、その実は自らを孤立させる緩やかな崩壊に他ならない。圧倒的な戦力を持つ帝国と、腐敗した王都に挟撃される未来。その逃れられない事実に、反論しようとした宿老たちの言葉が喉の奥で完全に詰まった。謁見の間は、死兵のような重い沈黙に包まれる。
「……なるほど。王都の混乱は、いずれこの西方にも致命的な飛び火をもたらす、か」
クロイツ公爵が、低く地鳴りのような声で呟いた。
「ならば答えてほしい。お主はどうしろと言うのだ」
「簡単な話だ」
ユウは少しの躊躇いもなく即答した。
「こちらから、最も価値のある『大義』を握る。ダリウスが自滅し、王都が混乱したその瞬間、アーベントは『正当な王位継承権を持つリシェル殿下を擁して、王都を救済する』という大義名分を得て動くことができる」
ユウはそこで言葉を区切り、静まり返った宿老たちをゆっくりと見回した。誰一人として、彼から目を逸らすことはできない。全ての視線を惹きつけた上で、ユウは確信に満ちた声で言い放った。
「これは反逆ではない。正当な王都の平定だ。これを成せば、アーベントはただの一領地から、国全体を動かす最高権力に躍り出る。この莫大な利益と、後の安全保障を手にするための先行投資として、リシェル殿下を今ここで受け入れることのリスクなど、計算する必要もないだろう」
完全なる静寂。
謁見の間にいる全ての者が、息をするのも忘れたかのようにユウを見つめていた。
たった一人の青年が、王都の権力闘争、外敵の脅威、そしてアーベントの取るべき大局的な外交戦略に至るまで、感情を一切交えない冷徹な計算によって完璧に描き出してみせたのだ。
クロイツやその息子であるヘルベルトでさえも、ユウの口から語られたその壮大かつ緻密な盤面に、言葉を失って息を呑んでいた。
その張り詰めた静寂の中、衣擦れの音をさせて、リシェルが一歩前に出た。彼女はユウの隣に並び立ち、クロイツ公爵、そしてアーベントの家臣たちに向けて、深く、静かに頭を下げる。
「クロイツ卿、そしてアーベントの皆様。どうか私に協力してください。私は権力を欲しているわけではございません。このままでは、王国だけでなく多くの民が犠牲になってしまいます。私は彼らを救いたいという一心でございます」
私情も権力欲もない、ただ国と民を憂う王女の切実な祈り。
ユウの提示した冷徹極まる「理」の盤面に、リシェルの揺るぎない「情」が吹き込まれた瞬間だった。二つの言葉が合わさったとき、アーベントの宿老たちの目に宿っていた保身と疑念は完全に消え去り、代わりに熱を帯びた決意の光が宿っていた。
「……ふ。ふはははははっ!!」
玉座のクロイツ公爵が、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声を上げた。生ける伝説が、これほどまでに上機嫌に、心の底から笑う姿を、アーベントの一員は見たことがなかった。
「見事だ。実に見事な盤面だ。お主の目には、この国の全てが俯瞰して見えているようだな。理屈通りに全てが進まなくとも、何度でも盤面を書き換えてみせるのだろう」
クロイツ公爵は笑いを収め、ゆっくりとその巨体を玉座から立ち上がらせた。分厚い装甲が擦れ合う重厚な音を響かせながら、老公爵はゆっくりと階段を下りていく。そして、リシェルの前まで歩み寄ると、おもむろにその場に片膝をつき、恭しく頭を垂れたのである。
「父上……!」
「閣下……!」
生ける伝説が臣従の意を示したその光景に、ヘルベルトも、宿老たちも一斉に息を呑み、そして弾かれたようにその場に跪いた。
「クロイツ卿……」
驚きに目を見開くリシェルを見上げ、クロイツは不敵な笑みを浮かべた。
「王宮の椅子に比べれば見劣りするかもしれませんが、あの玉座はこれより貴女のものとなります」
クロイツは顔を上げ、リシェルを見据えて力強く宣言した。
「これより我がアーベント領は、リシェル殿下を正式に迎え入れる! 今より、我らが君主はリシェル殿下だ! ダリウスの道化どもが何百の兵士を差し向けようが、このローデリヒの城壁は決して破れんと知れ!」
謁見の間に、かつてないほどの熱を帯びた勝鬨が響き渡った。
東の帝国、中央の王都、そして西のアーベント。
全ての因縁が交差するこの都市ローデリヒで、一人の青年の知略がついに国を動かす歯車と噛み合った。
それは、ユウが軍師としての階段を、決定的に登り始めた瞬間であった。




