謁見
王国の東端に位置するルーヴェルから、中央の王都の監視を掻い潜り、遥か西の最果てまで至る旅路。
アルトたち一行はついに西方を統べる貴族、クロイツ公爵家が治めるアーベント領の主要都市ローデリヒへ辿り着いた。
かつて独立した屈強な武人たちが築き、後にクロイツ家によってアーベント領へと統合されたという歴史を持つ都市ローデリヒ。その街並みを囲む石造りの城壁は、あらゆる外敵を拒絶する厳然たる防壁としてそびえ立っていた。門を固める兵たちの装備は、関所を預かるヘルベルトの部隊よりもさらに洗練されており、一分の隙もない重装歩兵たちが、大長槍を携えて整然と列をなしている。武人の領地としての厳格さと、数百年紡がれてきた独自の誇りが、石畳の隅々にまで染み付いていた。
ヘルベルトの案内のもと、一行は都市の中央に鎮座する「ローデリヒ城」へと足を踏み入れた。
長い回廊を渡り、通された最奥の謁見の間。高い天井から差し込む西日は、冷たい石の床を赤黒く染め上げ、室内に集まった将軍や文官たちの陰影を深く刻みつけていた。誰もが口を閉ざし、値踏みするような視線をリシェルたちへと向けている。
その空間の最奥、一段高い場所に据えられた堅牢な椅子に、その男は腰を下ろしていた。
アーベント領の最高権力者、クロイツ公爵。
衣服の上からでも一目で分かる、鍛え上げられた分厚く強靭な体躯。年齢を重ねてなお衰えを知らないその佇まいは、かつて数々の戦場で「生ける伝説」と恐れられた一騎当千の英雄としての覇気を、周囲にこれでもかと撒き散らしていた。
白髪と見事な白髭を蓄えた厳つい顔。その切れ長の瞳の奥にある眼光は、対峙する者の魂の底まで見透かすかのように鋭く、冷徹であった。
「父上! ただいま帰還しました!」
静寂を破り、ヘルベルトが一歩前に出て朗々と声を響かせた。
「旧ガルデン砦に蔓延っていた山賊、その数およそ三百。それらを、ここにいるユウの策と、アルト、イリーナの武功を以て、我が方の損害は皆無で殲滅しました! 報告通り、彼らの実力は本物にございます!」
我がことのように胸を張り、誇らしげに彼らの戦果を語るヘルベルト。しかし、玉座に座るクロイツは微動だにせず、ただフンと低く鼻を鳴らしたに過ぎなかった。
「戦術としては上出来だ、ヘルベルト」
クロイツ公爵の地を這うような重々しい声が、大広間に響き渡った。
「だが、その程度の局地戦の勝利が、王都を追われたリシェル殿下を我がアーベントで匿うリスクに見合うかと言われれば、未だ足りん。甚だしく足りんと言わざるを得んな」
その冷淡な言葉を皮切りに、それまで沈黙を守っていた周囲の宿老たちが、一斉に騒ぎ始め、室内は一転して紛糾の渦へと巻き込まれた。
「公爵閣下のおっしゃる通りにございます! ガルデン砦の賊を討った程度、アーベントの精鋭を動かせばいつでもできたこと!」
「今、リシェル殿下を保護するということは、王都を掌握しつつあるダリウス王子を真っ正面から刺激することになる。それはすなわち、我が領と王都との全面戦争を意味する!」
「東のルーヴェルならいざ知らず、我が西方のローデリヒが、なぜ王都の権力闘争の泥沼に足を突っ込まねばならんのだ」
次々と浴びせられる、政治的な利害とリスクを並べ立てた拒絶の言葉。
その喧騒の中、一歩前に出たのはリシェルであった。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、毅然とした佇まいで玉座の老公爵を見据えた。
「お久しぶりでございます、クロイツ卿。幼き頃、王都の宮廷でお姿を拝見して以来ですね」
リシェルの透き通るような声が、騒がしい室内を静かに黙らせていく。
「卿の耳にも、すでに届いているのでしょう。私が兄ダリウスによって、光の届かぬ離宮の奥底に幽閉されていたという事実が。そして、ここにいる彼らが、その檻を打ち破って私をここまで導いてくれたということも」
クロイツは白髭を微かに揺らし、不敵な笑みをその厳つい顔に浮かべた。
「我がアーベントの情報網を侮ってもらっては困りますな、リシェル殿下。貴女が幽閉された日から、私は王都が完全に腐ってしまったことを確信しておりました」
老公爵の言葉に、宿老たちが息を呑む。クロイツは初めから、王都の隠された真実を知った上で、彼らの実力を測るために泳がせていたのだ。
クロイツの鋭い視線が、アルトへと移った。その瞳に一瞬だけ深い追憶の色が過る。
「ルーヴェルの若子。そなたのその揺るぎない立ち姿、そして無駄のない体躯……ふむ、かつて王国最強と謳われた、あの男の若き日によく似ている」
言われたアルトは、緊張に身を硬くしながらも、堂々と一歩前に出て頭を下げた。
「お久しぶりでございます、クロイツ公爵閣下。我が名はアルト・ルーヴェル・レイヴァルト。ルーヴェル家当主、レオンハルト・ルーヴェル・レイヴァルトが三男にございます」
「やはりレオンハルトの息子か」
クロイツ公爵は満足そうに目を細め、傍らの大剣の柄を叩いた。
「そなたの父上とは、かつては共に背中を預け合って戦った仲だ。あの男の剛剣は、敵の戦列を一人で消し飛ばすほどの化け物だったが……いや、語ると長くなってしまうな」
クロイツはどこか懐かしむように目を細め、言葉を続けた。
「そなたの剣は、兵士達からの報告を聞く限りだと、親父殿の剛を削ぎ落とし、純粋な速さと理を突き詰めたもののようだ。獅子の血が未だ死に絶えていないようで安心したぞ」
「過分なお言葉、恐悦至極に存じます」
アルトは生ける伝説からの言葉を胸に刻み、深く一礼して退いた。続いて、クロイツ公爵の視線は、その隣に佇む藍色の軽鎧の女性騎士へと向けられた。じっとその佇まいを観察するように、老公爵は目を細める。
「そなた……どこの誰かは知らんが、その揺るぎのない正眼の構え、頑なまでの身のこなし……。あの不器用な男の面影が見えるな」
イリーナは一歩前に出ると、拳を胸に当てて騎士の礼を取った。
「我が名はイリーナ・ヴァルシュタイン。父オーティスは、東部の戦争にて命を落としております」
「ヴァルシュタイン家のものか……! あの実直な男の娘であったか」
クロイツ公爵の声に、武人としての深い哀悼と、腑に落ちたような得心が混じる。
「そなたの父も帝国との戦の折、東部国境で数倍の敵に囲まれながらも、一歩も引かずに防衛線を守り抜いて戦死した、真の英雄だ。なるほど、あの男の娘であれば、それほどまでに隙のない佇まいを見せるのも頷ける。ガルデン砦でのそなたの戦いぶりは、天国からさぞかし誇りに思ったことだろう」
「……勿体なきお言葉。父の名に恥じぬよう、この命、リシェル殿下と我が白刃に捧げております」
イリーナは微かに声を震わせながらも、凛とした態度を崩さず、深く頭を下げた。
リシェル、アルト、イリーナ。
王国の最高峰の血統と、数々の歴史を背負った者たちが、それぞれの想いを胸にこのローデリヒの地に集っている。周囲の宿老たちも、彼らの名と血筋の重さに、もはや軽々しく不満を口にすることはできなくなっていた。
しかし――クロイツ公爵の真の目的は、彼らではなかった。
老公爵の底知れぬ眼光が、最後に、そのすべての背後で、一言も発さずに盤面を見つめ続けていた黒髪の少年へとピタリと定められた。
血統の証明も、過去の武勲の歴史も持たない、ただ一人の少年。しかし、ヘルベルトをして「戦場を盤上としか思っていない」と言わしめた、すべての策の張本人。
「静粛に」
クロイツ公爵が低く呟いた。その一言で、室内の全ての空気が張り詰め、静まり返る。
老公爵はゆっくりと身を乗り出し、その圧倒的な威圧感を黒髪の少年へと浴びせかけた。
「少年。お主がヘルベルトたちに罠を授け、この曲者たちを裏から操っている、ユウだな」
魂の底まで見透かすような、生ける伝説からの直々の問いかけ。
「皆がリスクだと騒ぎ立てている。だが、戦というものは常に危険を伴うものだ。問題は、その危険を背負うだけの価値が、今の王都にあるかどうかだ。少年、お前の目に今の王都はどう映っている? そして、我らアーベントが今、どう動くべきだと考える?」
国家の行く末、勢力を動かす大局、すべてを握る問いが、ユウへと投げかけられた。
ユウは静かに、しかし迷いのない足取りで、一歩前へと踏み出した。




