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氷塊


旧ガルデン砦の戦闘が完全に終結し、東の空がわずかに白み始める頃、討伐部隊はヘルベルトが布陣する陣所へと帰還した。


先頭を行くニステル、そしてその後ろを歩む百人の精鋭たちの足取りは、出発前とは見違えるほどに力強く、誇らしげであった。彼らの表情からは指示に従うことへの不満や疑念は完全に消え去り、代わりに、圧倒的な知略によって無傷の勝利をもたらした指揮官への、深い敬意と畏怖がその瞳に宿っていた。


皆が布陣の入り口へと足を踏み入れたその時、陣所の奥から一睡もせずに彼らの帰りを待ち続けていたリシェルが、周囲の兵士の制止を振り切るようにして駆け寄ってきた。彼女の美しい瞳には、深い不安とそれ以上の切実な祈りが滲んでいた。


「皆さん……! ご無事でしたか……!」


駆け寄るリシェルの視線が、先頭を歩くアルト、ユウ、そしてイリーナの姿を捉える。誰一人として大きな怪我を負っておらず、全員が五体満足で戻ってきたことを確認すると、彼女は王女としての立場も忘れ、胸に手を当てて深く安堵の息を漏らした。


しかし、すぐにリシェルの視線が、イリーナの奇妙な姿に釘付けになった。

いつもなら凛として、一糸乱れぬ完璧な身なりをしているイリーナ。その彼女の肩に、明らかにサイズが大きな黒い無地の上着が不自然に羽織られていたからである。さらに、その上着の隙間から覗く衣服は、激戦の名残で肩から胸元にかけて大きく破けていた。


「……イリーナ? その上着……それに、その服はどうしたのですか?」


リシェルが不思議そうに小首を傾げ、純粋な疑問を投げかけた。その言葉に、イリーナは弾かれたように自身の体を見下ろした。戦闘の緊張が完全に解けていなかったせいか、彼女は自分がまだユウの上着を借りたまま、リシェルの前に立っていることにようやく気付いたのだ。


「で、殿下、こ、これは……っ!」


一瞬にしてイリーナの頬が林檎のように真っ赤に染まった。彼女は慌てて上着の襟元をぎゅっと掴み、体を縮めるようにして視線を泳がせる。


「その……戦闘中に不覚にも服が破けてしまいまして! 見苦しいところをお見せするわけにはいかないと、その、ユウが、その場しのぎに貸してくださっただけで……!」


「まぁ、ユウの上着でしたの」


リシェルは驚いたように目を瞬かせた後、少しだけ悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。


「いつも冷徹なユウが、そのような細やかな気遣いをしてくださるなんて。イリーナ、とても暖かそうですね」


「殿下、からかわないでください……!」


普段ならどんな窮地でも表情を変えないイリーナが、年相応の女性らしく大慌てで言い訳を繰り返している。その微笑ましい光景に、周囲の兵士たちからも小さく温かい笑いが漏れ聞こえた。

その様子を少し離れた場所から見ていたアルトは、隣に立つ黒髪の少年に肘で軽く小突いた。


「ユウ、君って実は紳士なんだね。いつの間にそんな気の利いた真似を覚えたんだい?」


アルトは純粋に感心したように、笑みを浮かべて耳打ちをする。対するユウは、表情を一切変えることなく、いつも通りの平坦な声で首を振った。


「ただの合理的な判断だ。服が破けたまま歩かせるのは精神的な動揺を誘うし、何より、そのまま陣所に戻れば周囲の兵士たちの規律が乱れる。今後の作戦に障ると判断しただけだ」


「……本当にそれだけの理由かい?」


「それ以外に何がある」


ユウは全く悪びれる様子もなく、当然のことを口にするように淡々と答えた。彼にとっては、女性に恥をかかせないための当然の配慮であり、そこに特別な感情や下心は一切存在していない。それをごく自然に、無自覚にやってのける姿であった。


「なるほど、戦場での規律を守るための判断だったんだね。さすがユウだ」


一方のアルトは、ユウの屁理屈をそのまま真に受けているようで、すっかり納得した様子で感心していた。


「はっはっは! まさか本当に百人の兵で、あの軍勢を解体して戻ってくるとはな!」


その時、広場の奥から大地を震わせるような豪快な笑い声が響き渡った。現れたのはこの地の防衛を任されていた、ヘルベルト・アーベントであった。彼は大股で歩み寄ると、アルトたちの前に立ち塞がり、その鋭い眼光で彼らを上から下まで見つめた。


出発前、彼らの実力を半信半疑で見ていたヘルベルトの瞳には、今や明確な警戒の念は消え、代わりに武人としての最大級の驚愕と賞賛が宿っていた。


「ニステルから報告は受けた。物資を偽装して敵の主力を谷道へと誘い込み、上部からの崩落で物理的に分断。手薄になった本陣を一気に強襲し、指揮官を敗走させた……。おい、少年。貴様、本当に戦場を盤上としか思っていないような、恐ろしい戦術を使いおるな」


ヘルベルトの視線がユウへと注がれる。ユウは身じろぎもせず、静かにその視線を受け止めた。


「当然の最適解を選んだだけです。地の利はこちらにありましたから」


「言うではないか!」


ヘルベルトは再び大声で笑うと、今度はアルトの肩を、骨が折れんばかりの勢いでバシバシと力強く叩いた。


「ルーヴェル家の三男坊! 貴様の無駄のない剣、砦に残っていた野盗どもを次々と制圧したそうだな。それに王女の近衛騎士、貴様の剣技と魔法も実に見事と聞いた。気に入ったぞ! 貴様らのような骨のある奴らは大歓迎だ!」


ヘルベルトは腰に手を当て、満足そうに頷いた。


「このヘルベルト・クロイツ、平民を虐げるような盗賊は大嫌いだが、圧倒的な実力でそれをねじ伏せる本物の武人は大好きでな。最初にあのような態度を取った非礼を詫びよう。これからは貴殿らを、アーベントの正式な友として扱おうではないか!」


「ありがとうございます、ヘルベルト卿。それもお貸しいただいた兵たちの練度が高かったおかげです」


アルトが痛む肩をさすりながらも、丁寧な一礼を返す。そして、その後に一歩前に出たリシェルが深い感謝の念を込めてヘルベルトに向き直った。


「ヘルベルト卿、私たちの提案を信じ、兵を動かす許可をくださったこと、心から感謝いたします。卿の決断がなければ、東部の村々の安全は守られませんでした」


「ははっ、殿下にもそのようにおっしゃっていただけると、冥利に尽きますな!」


ヘルベルトは豪快に笑い、満足そうに胸を張った。これで、最初の大きな関門であったヘルベルトの信用を完全に勝ち取ることができた。彼らの実力は証明され、クロイツ公爵への道筋はより確かなものとなったのだ。


「よし、お前たち、今日の戦功を祝して、夜は盛大な宴を開くぞ! 疲れを癒すがいい!」


ヘルベルトの号令に、広場の兵士たちが一斉に勝鬨を上げた。


――数時間後。

陣内の中央には簡素な机が並べられていた。

机上には、ヘルベルトたちによって用意された、温かいスープと切り分けられた新鮮な肉、そして香ばしいパン、さらには彼らの凱旋を祝うための上質な酒瓶が並べられていた。久方振りの豪勢な食事ということもあり、陣内には戦場らしからぬ食欲をそそる香りが漂っていた。

激戦を終えた彼らにとって、それは最高の労いであった。


イリーナはすでに着替えを済ませ、いつもの近衛兵姿である藍色の軽鎧に戻っていたが、机の上にくしゃりと畳んで置かれた黒い上着を見るたびに、どことなく決まり悪そうに視線を外していた。


「皆さん、本当にお疲れ様でした。皆さんが無事に戻ってきてくださって、私は本当に嬉しく思います」


リシェルが手ずから全員のコップに酒を注ぎ、自身もグラスを掲げて心からの笑顔を向けた。


「リシェル殿下のお言葉、恐悦至極に存じます」


イリーナがグラスを受け取り、姿勢を正して応じる。


「でも、イリーナ。さっき広場であなたは、本当に顔が真っ赤でしたよ。いつもと違って、とても可愛らしかったです」


リシェルがクスクスと笑いながら酒を口に運ぶと、イリーナは再び顔を紅潮させた。


「で、殿下……! ですから、あれは本当にただの状況の混乱と言いますか、仕方のないことでして……!」


「分かっていますよ。でも、ユウは本当に不思議な人ですね。あんなに冷たそうなのに、女性の困っているところには、自然と手を差し伸べるのですから」


リシェルが感心したようにユウを見つめる。当のユウは、差し出されたグラスを無表情のまま口に運び、特に反論する様子もない。


「確かに、ユウのあの状況判断の速さは僕も見習わなきゃいけないな」


アルトが目の前にあった肉を齧りながら、大真面目な顔で頷いた。


「戦闘直後で、相手の衣服の破損にまで気を配るなんて、僕には到底できなかった。騎士としての視野の広さという点でも、ユウには敵わない」


「アルト、それは少し方向性が違うと思うが……」 


イリーナが呆れたような、しかしどこか救われたような複雑な表情で溜息を吐き、手元の酒を一気に煽った。アルトのこの致命的なまでの恋愛音痴ぶりが、今はむしろ彼女の羞恥心を和らげる盾になっていた。


「ふふ、アルト殿は相変わらず生真面目なのですね」


リシェルが楽しそうに笑っていると、それまで黙ってスープを口に運んでいたユウが、器を机に戻して淡々とした声を響かせた。


「別に特別なことはない。戦場で破損した装備をそのままにするのは危険だからな。それが今回は防具ではなく衣服だっただけだ。同じ状況なら、俺はアルトが相手でも同じように自分の上着を裂いて包帯にするか、上着ごと貸している」


ユウのあまりにも実も蓋もない、しかし大真面目なその言葉に、その場の空気が一瞬だけ凍りついた。

アルトがユウから上着を着せかけられる奇妙な光景を想像してしまったのだろう、リシェルは思わず口元を押さえて笑ってしまい、イリーナは今度こそ完全に言葉を失って、呆れ果てたように天を仰いだ。


「……やはり、お前はどこまでも情緒というものがない男だな」


「計算に情緒は不要だ」


そっけなく告げたユウは表情一つ変えずにグラスの酒を喉に流し込んでいく。しかし、その頬がほんのすこしだけ、赤くなっていた。周囲は戦場の臭いを忘れるような、穏やかで温かい空気で包まれていった。


圧倒的な兵力差を覆した討伐戦の夜。

彼らは確かに勝利を収め、そしてその絆を、より深く静かに確かなものへと変えていくのだった。

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