炎刃
月明かりだけが冷たく差し込む、旧ガルデン砦の最奥に位置する大広間。
かつては砦の守備隊が作戦会議や兵たちの鼓舞に用いていたであろう石造りの広い空間は、今や、一人の男の底知れぬ警戒心と憎悪によって異形の戦場へと変貌しようとしていた。
「俺は死なん。真正面からお前たちのような暴力の権化と打ち合って、無様に死んでたまるか」
長身痩躯の指揮官、ザンデ・クレインが自身の細い腕を血が滲むほどに爪で掻き毟りながら、低い声を響かせた。
彼の足元から広がる魔力の波動は、冷たく硬い石畳を波打つ水面のように歪ませた。ザンデが紡ぎ出す強力な土魔法が、部屋全体の地形を己の意のままに作り変えていく。
床の石材がひび割れ、不自然に隆起したかと思えば、次の瞬間には鋭い石の槍となって天井へ向かって伸びる。ザンデを中心に、まるで彼を外敵から守る強固な城壁のように、幾重もの土と石の防壁が形成されていった。
その光景を前にして、イリーナとアルトは静かに剣の切先を下げた。二人の服装は、王城や領地で見せるような華美なものでは決してない。実戦用の、実用性だけを追求した薄汚れた軽鎧と、使い込まれた一振りの剣。ザンデの目には、彼らはただの厄介な騎士にしか見えていなかった。
だからこそ、ザンデの警戒は最大級に跳ね上がっていた。
「大層な魔力だ。だが、自分から檻に引きこもるとはな」
イリーナが凛とした声で言い放つ。
「黙れ……! 貴族の犬どもが。お前たちのその磨き上げられた剣が、どれほどの平民の血を吸ってきたか分かっているのか!」
防壁の奥から、ザンデの憎悪を帯びた声が響く。
次の瞬間、石の防壁の隙間から、銀色の鋭い閃光が凄まじい速度で突き出された。
ザンデの得物である長槍であった。自身の身長を遥かに超える、およそ三メートルに達するその異様な長さは、入り組んだ室内での戦闘においては本来ならば邪魔になるだけの代物だ。
しかし、土魔法によって意図的に狭められ、障害物だらけにされたこの空間においては、その常識は完全に覆る。ザンデ自身は絶対の安全圏である石の壁の裏に身を隠したまま、相手の剣が絶対に届かない間合いから、一方的に死の切先を送り込んでくる。
鋭利な刃が空気を裂き、アルトの胸元を正確に狙う。
アルトは表情一つ変えることなく、剣の腹を滑らせるようにしてその致命の一撃を逸らした。金属が激しく擦れ合う甲高い音が大広間に響き渡り、火花が散る。
槍の突きは一撃では終わらなかった。長さを活かした刺突が、防壁のあらゆる死角から嵐のように連続して放たれる。壁の隙間から蛇のようにうねりながら迫る刃に対し、アルトとイリーナは後退を余儀なくされた。
「……徹底しているね。魔法で接近を阻み、長槍で一方的に削ってくる。実に見事な用心深さだ」
後方に跳躍し、間合いを取り直したアルトが冷静に分析する。
「臆病ではなく、自分の弱さと強さを完璧に理解した戦い方だな。こちらの剣の届かない場所にいる相手をどうするべきか……」
イリーナは剣を正眼に構え直し、無数に立ち並ぶ石の柱の奥にいるザンデの気配を探った。
「やれるものなら、やってみるがいい!」
ザンデの叫びと共に、再び床が大きく波打った。
アルトとイリーナの足元の石畳が液状化し、底なしの泥沼のように彼らの足を絡め取ろうとする。さらに頭上からは、天井の石材を引き剥がして作られた無数の石塊が、雨のように降り注いできた。
足場を奪い、頭上から圧殺する。相手に一切の反撃を許さない、幾重にも張り巡らされた死の罠。
しかし、二人の身体能力は、ザンデの悲観的な予測を遥かに凌駕していた。
イリーナの足は、泥と化した床に沈み込む直前に、隆起したわずかな石の突起を捉えていた。彼女は羽のように軽く跳躍すると、落下してくる石塊の一つを足場にして空中に舞い上がる。
洗練された、重力を感じさせない身体操作。彼女は空中で身を捻り、自分を狙って伸びてきた長槍の刺突を紙一重で躱す。そのまま槍の突きを利用するように、その槍の柄を硬い軍靴で強く踏みつけた。
「なにっ……!?」
石の防壁の奥で、ザンデが驚愕に息を呑む。
槍の動きが封じられたその一瞬の隙を、アルトが見逃すはずがなかった。
アルトが大地を強く蹴り、弾かれたように前方に突出する。彼を阻もうと床から新たな石の槍が何本も突き出すが、アルトの剣は一切の無駄なくそれらの根本を的確に切断していく。力任せの破壊ではなく、石の強度が最も弱い継ぎ目を正確に見抜いた、極めて高度な剣技であった。
「させるかあぁっ!」
恐怖に駆られたザンデが、踏みつけられた長槍を手放し、両手を床に叩きつけた。
アルトの目の前に、これまでの比ではない、分厚く巨大な石の城壁が立ち塞がる。剣では断ち切れない圧倒的な質量の壁。
だが、アルトは歩みを止めない。彼は突き進む勢いを殺すことなく、その石壁の表面を蹴って斜め上へと跳躍する。彼の役割は、壁を破壊することではない。ザンデの意識を自分一人に向けさせるための、最も危険な囮となることだ。
「僕の相手をしている余裕があるのかい?」
空中のアルトが剣を振り下ろす。石壁の向こう側にいるザンデは、アルトの攻撃を防ごうと無意識に頭上へ土の盾を形成した。その瞬間、ザンデの意識から完全に外れていたイリーナが、これまで見せる必要のなかった自身の「切り札」を発動させた。
「――燃え上がれ」
イリーナの凛とした呟きと共に、彼女の持つ剣の刃が爆発的な紅蓮の炎を纏った。
彼女はただの剣士ではない。かつてその才能を見出され、魔力による属性付与を使いこなせる火魔法の使い手でもあったのだ。実戦で使う必要がなかったため隠していたその力が、この土の檻を焼き尽くすために解放された。
炎を纏った一撃が、ザンデの背後にある石壁の基部に叩きつけられる。凄まじい熱量によって石材が急激に膨張し、次の瞬間、内側から爆発するように粉々に砕け散った。
土魔法によって作られた堅牢な防壁が、火の魔力によって一瞬にして瓦解していく。
「な、なんだと……!? 魔法も使えるのか!?」
完全に死角を破られ、自慢の防壁を失ったザンデの顔が、驚愕と絶望に染まる。二人の完璧な連携によって、ザンデの過剰な防衛は完全に無力化された。懐に飛び込まれたこの状況は、普通の魔術師であれば死を意味していた。
「これで終わりだ!」
イリーナが疾風のような速度で踏み込み、ザンデの喉元へ向けて必殺の白刃を閃かせた。一切の淀みもない、完璧な一太刀。
金属が肉を裂く鈍い音が響く――はずだった。
しかし、大広間に響き渡ったのは、金属同士が激しくぶつかり合う、硬質で重い衝撃音だった。
「……何っ!?」
イリーナの瞳が驚愕に見開かれる。彼女の放った鋭い一撃は、確かにザンデの衣服を切り裂いた。しかし、その衣服の下から現れたのは、人間の肉体ではなく、ザンデの皮膚そのものが変質したかのような、赤黒い土の鎧であった。
ザンデは、生に対しての執着が凄まじい男だった。
防壁を築き、長槍で距離を取るだけでは万が一壁を突破された時に死ぬ。そう確信した彼は、交戦直後に自身の衣服の下に、魔力によって極限まで圧縮した土の膜を張り巡らせていた。
イリーナの渾身の刃は、その驚異的な密度の土の鎧によって完全に弾き返されていた。
「ひ、ひぃっ……! し、死んでたまるか、こんなところで……!」
刃こそ通らなかったが、衝撃までは殺しきれなかった。ザンデは口から血を吐きながら後方へと激しく吹き飛んだ。しかし、彼はその恐怖の勢いのまま、狂ったように反転して大広間の奥の隠し扉へと飛び込んだ。
「待て!」
アルトが即座に後を追おうとするが、逃げ込んだザンデは最期の魔力を振り絞り、通路全体の天井を崩落させた。
大量の土砂と巨石が通路を埋め尽くし、アルトたちの追撃を物理的に完全に遮断してしまう。崩落の衝撃が収まった時には、ザンデの気配は遥か遠くへと消え去っていた。
「……逃げられたか。土の鎧を肉体に纏わせていたとは、用心深い男でしたね」
アルトが剣を引き、崩落した通路を見つめながら悔しげに息を吐いた。
「ああ。だが、あの傷だ。部隊も壊滅した以上、しばらくは動けまい」
イリーナも剣の炎を消し、小さく息を吐いた。
「それにしてもイリーナ、今の火魔法は見事だったよ。まさかあんな切り札を隠し持っていたなんてね」
アルトが感嘆の面持ちで彼女を振り返ると、イリーナはふっと不敵に唇を吊り上げ、自身の得物の柄にそっと手を添えてみせた。
「切り札は隠しておくものだ。最初からすべての手の内を晒すのは、近衛のやることではないからな」
少し得意気に胸を張ってみせるその姿には、彼女らしい誇り高さが満ちていた。
大広間の周囲を見渡せば、ザンデの護衛部隊もアーベントの精鋭たちによって完全に制圧され、盗賊たちの拠点だった場所には静寂が戻りつつあった。
静まり返った大広間に、瓦礫を踏みしめる静かな足音が響いた。崩れた石壁の向こうから現れたのは、この作戦の盤面を描き出した青年、ユウであった。アルトはすぐにその存在に気づき、表情を緩めて彼を迎え入れた。
「そっちも終わったみたいだな」
ユウは大広間に転がる敵の武器や、完全に制圧された室内の様子を見渡しながら、淡々と声をかけた。
「ああ。君の作戦通り、面白いほど綺麗にハマったよ。谷道の主力はニステル殿たちが完全に抑え込んでくれたし、砦の中に残っていた連中もこれで全滅だ」
アルトは少しだけ肩の力を抜いて微笑んだが、すぐに視線を崩落した通路へと向け、苦笑いを浮かべた。
「ただ、一つだけ誤算があった。敵の指揮官が想像以上に執念深くて……。服の下に魔力で固めた土の鎧を仕込んでいて、イリーナの刃を弾いて奥の通路から逃げられてしまった。僕の力不足だ、すまない」
アルトの少し悔しげな報告を聞いても、ユウの顔に動揺の色はなかった。彼は完全に塞がれた通路を一瞥すると、いつも通りの平坦な声で首を振った。
「謝る必要はない。指揮官一人が裸同然で生き延びたところで、盗賊団の脅威は完全に崩壊した。ヘルベルトへの手土産としては、十分すぎるだろう」
「フン……、相変わらず冷徹な奴だな。まあ、お前がそう言うなら骨折り損にはならなかったということか」
イリーナもようやく緊張の解けた顔で小さく息を吐いた。
しかし、彼女がゆっくりと剣を鞘に収めようと腕を上げた瞬間、激しい戦闘の名残が露わになった。
ザンデの放った鋭い長槍の風圧と、崩落した石壁の破片を躱した際に彼女の軽鎧の隙間――肩から胸元にかけての衣服が、少しばかり大きく破けてしまっていたのだ。
普段なら絶対に肌を見せない彼女の、白い素肌が夜の冷気に晒されている。激戦の直後ゆえに、イリーナ自身もまだそのことに気づいていないようだった。
ユウは何も言わず、彼女の元へと歩み寄ると同時に自身の体を覆っていた上着を脱いだ。装飾のない黒い無地の上着。それを、イリーナの肩へと後ろからそっと着せかけた。
「……え?」
不意に男物の大きな上着に包まれ、そのぬくもりにイリーナが目を丸くして硬直する。
「服が破れているぞ」
ユウは視線を合わせないまま、淡々とした声でそれだけを告げた。言われて初めて自身の胸元に目を落としたイリーナは、一瞬にして頬を紅く染め、上着の襟元を掴んで体を縮めた。普段の凛とした態度は見られず、年相応の女性らしい動揺がそこにあった。
「あ、あぁ……。すまない、見苦しいところを」
「気にするな。怪我がないならそれでいい」
ユウはいつも通りの無表情のまま背を向け、廃砦の状況確認へと戻っていく。その少し不器用だが確かな気遣いに、アルトは隣で小さく笑みをこぼしていた。
開け放たれた中庭からは、谷道の処理を終えたニステル率いる部隊も合流し、怪我人の手当てをしながらも勝利を確信した兵士たちの歓声が響き始めていた。
出発前は彼らへ不満を隠さなかったアーベントの猛者たちも、今や彼らを見る目に深い敬意と、その恐るべき手際に畏怖の念を滲ませている。
「これで、リシェル殿下の安全も、僕たちの力もヘルベルト卿に証明できたはずだ」
アルトが確かな手応えを口にすると、ユウも小さく頷いた。
圧倒的な兵力差を覆した討伐戦は、ユウの冷徹な知略と彼らの確かな武力によって、完全なる勝利として幕を閉じた。




