分断
赤く染まる夕陽が完全に沈み、アーベント領の東部一帯は濃密な夜の闇に包まれようとしていた。
旧ガルデン砦へ続く、両側を険しい崖に挟まれた谷道。その絶壁の上部に広がる暗がりの中に、作戦の要である封鎖部隊が息を潜めて同化していた。
彼らの足元には、崖の縁に沿って無数の巨大な岩塊や、成人男性の胴回りほどある太い丸太が縄で固定されて並べられている。
吹き抜ける夜風が岩肌を撫でる音だけが響く中、兵士たちは緊張で喉を鳴らした。彼らは皆、この地域での戦闘経験が豊富な猛者たちである。しかし、崖の下の底知れぬ闇を覗き込む彼らの背中には、冷や汗が張り付いていた。
視線の先、谷道の入り口から遥か遠くの街道に、幾つもの松明の明かりと、夜空に舞い上がる土煙が見えてきたからである。
「……来たな」
封鎖部隊の指揮を執る黒髪の青年、ユウが暗闇の中で感情の抜け落ちた声を漏らした。
彼の見下ろす先、土煙を上げて疾走しているのは、ニステルが率いる陽動部隊であった。彼らは王都からの支援物資に偽装した数台の荷馬車を走らせていた。馬の尾には枯れ枝が括り付けられており、少数部隊でありながら、まるで大軍が物資を輸送しているかのような錯覚を生み出している。
そして、その偽の物資輸送隊の背後には、闇夜を照らし出す無数の松明の炎が、飢えた獣の群れのように迫っていた。谷道を埋め尽くさんばかりに連なるその数は、目算で二百名は下らない。砦に潜んでいた「自由の盾」の主力部隊が、喉から手が出るほど欲していた物資の気配に誘い出されて追撃をかけてきている。
「馬を潰しても良い! 追いつかれると死ぬぞ!」
ニステルは全力で部下たちを鼓舞する。彼らのすぐ背後には、武器を振りかざし、狂ったような叫び声を上げている盗賊たちの群れが迫っていた。ほんの少しでも馬が躓けば、一瞬にして波に飲まれ、肉片すら残らないだろう。極限の恐怖が陽動部隊の背中を叩いていた。
一方、その群衆が飛び出していった旧ガルデン砦の最上部。かつては見張り台となっていた崩れかけの石造りの塔の上で、一人の男が冷ややかな視線を遠くの土煙へ向けていた。
長身でありながら、まるで枯れ木のように酷く痩せこけた体躯。不健康なまでに青白い顔を歪め、神経質に自身の細い腕へ爪を立てて掻き毟っている。彼の傍らには、自身の身長よりも長い身の丈ほどの長槍が立てかけられていた。
この男こそが、この部隊を束ねる指揮官、ザンデ・クレインであった。
「……愚か者どもが。あんな見え透いた罠に、揃いも揃って飛びつきおって」
ザンデは忌々しげに独り言を暗闇へ吐き捨てた。
彼は悲観主義者であり、同時に異常なほどの防衛本能を持っていた。
夕刻、見張りの者が「王都からの支援物資らしき部隊が近くを通る」と報告してきた時、砦内は歓喜に沸いた。日々の食料すら枯渇していた彼らにとって、それは天からの恵みのように見えた。しかし、ザンデだけは違った。
(――都合が良すぎる。我々が苦しんでいるこの絶妙な時期に、無防備な輸送隊が砦の近くを通るなど、有り得ない)
ザンデは即座に出撃を禁じた。あれは貴族どもが仕掛けた罠で、我々を砦から誘い出すための陽動であると理詰めで説いた。だが、彼の冷徹な判断も、飢餓と欲望に狂った部下たちには届かなかった。
「ここで物資を奪わなければ、どのみち俺たちは飢え死にするんだ!」
「相手は少数だ、総出で押し潰せば一瞬だ!」
暴動寸前の熱狂を前にして、ザンデは彼らを止めることを諦めた。自らの命運を、これほどまでに愚かで浅はかな平民たちと共にするしかないという絶望感が、彼の胸の奥でどす黒く渦巻いていた。
「……どうせ俺たちは、持たざる者として搾取され、無様に死ぬ運命。あいつらは、常に我々を嘲笑いながら罠に嵌める算段を立てている……」
ザンデは長槍の柄を強く握り締め、残された五十人ほどの護衛と共に、重く冷たい砦の石壁の奥へと姿を隠した。いざとなれば、得意の土魔法で砦の入り口を完全に封鎖し、自分だけは生き延びるという卑屈な計算を巡らせながら。
ザンデの予測通り、街道の追走劇はすでに致命的な罠へと変貌を遂げていた。追撃する盗賊たちが谷道の入り口に差し掛かった瞬間、逃げていたニステルの部隊が突如として荷馬車を乗り捨てたのである。
「馬から降りろ! 崖を登って退避しろ!」
ニステルの裂帛の号令と共に、陽動部隊の兵士たちは素早く馬を捨て、険しい岩肌をよじ登って谷道の上へと逃れていく。
残されたのは、偽装された荷馬車だけとなり、追いついた盗賊たちが歓声を上げて幌を引き剥がすが、中から出てきたのは食料でも武器でもなく、ただの重い石ころと砂袋だけであった。
「なんだこれは……石!?」
「騙された! 罠だ!」
狂乱の歓喜は一瞬にして冷や水を浴びせられ、怒りと混乱の叫びに変わる。騙されたという屈辱に顔を赤く染めた盗賊たちは、逃げたニステルたちを地の果てまで追い詰めて惨殺しようと、狭い谷道の奥へと我先になだれ込んでいった。
頭が谷道の半ばを過ぎ、最後尾が完全に崖の間に収まったその瞬間。上空から冷たく見下ろすユウの手が、静かに振り下ろされた。
「やれ」
その一言を合図に、崖上で待機していた兵士たちが、一斉に縄を斬り裂いた。固定を失った無数の岩と丸太が、重力に従って滑り落ちていく。岩肌を削り取る凄まじい質量が、逃げ場のない谷道へと降り注いでいく。
大地を揺るがす轟音が夜を支配した。岩塊が硬い地面に叩きつけられる衝撃が伝わり、同時に、それまで怒声に満ちていた谷道の下から、言葉にならない凄惨な絶叫が沸き上がった。
一陣の風が吹き抜け、もうもうと立ち込めていた土埃が晴れた後、そこには地獄絵図が広がっていた。
谷道の出口と入り口は、積み重なった巨岩と丸太によって完全に塞がれ、巨大な石の壁と化していた。道を断たれ、前進も許されない狭い空間に、多数の男たちが完全に閉じ込められたのである。
上空からは弓兵による容赦のない雨を降らせていく。身を隠す場所もない狭い谷底で、物資を簒奪しようとした集団は瞬く間に烏合の衆へと成り下がり、逃げ惑うことしかできない標的へと変わった。
「まずは、作戦の第一段階が完了だな」
ユウは眼下で繰り広げられる一方的な蹂躙を、まるで盤上の駒が減っていくのを数えるかのような瞳で見下ろしていた。
「主力は完全に分断した。もはや砦に戻ることは不可能だ。あとは……」
ユウの視線が谷道の先にある、旧ガルデン砦へと向けられた。
同じ頃、主力が抜け出て静まり返っていた旧ガルデン砦の裏手。高くそびえる石積みの城壁の影には、イリーナとアルト、そしてユウによって彼らに預けられた六十名の精鋭たちが息を潜めていた。
遠くの谷道の方角から、大地を揺るがすような重低音と、微かな絶叫の響きが風に乗って届いた。その音を聞いた瞬間、暗闇の中でイリーナが静かに口を開いた。
「……ユウの仕掛けた罠が発動したようだ。見事なまでに敵の主力が足止めされている。ここまでは作戦通りだ」
イリーナは腰に佩いた剣の柄を確かめながら、砦の防壁を見上げた。本来であれば、見張りが絶え間なく巡回しているはずの廃砦である。しかし現在、城壁の上に立つ人影は数えるほどしかいない。主力が欲望に駆られて飛び出していった結果、砦の防衛は手薄を極めていたのだ。
「行くぞ」
アルトの静かな号令と共に、部隊は音もなく城壁に取り付いた。アルトとイリーナが先陣を切って壁を乗り越え、後に続く精鋭たちが次々と砦の内部へと侵入していく。中庭には、居残りを命じられた五十人ほどの盗賊たちが、遠くから聞こえる轟音に不安げな声を上げながら右往左往していた。
「おい、今の音は何だ……!」
「谷の方から聞こえたぞ。まさか、罠だったんじゃ……」
混乱が広がる中、彼らの背後から急襲をかけた六十の刃が、容赦なくその陣形を切り裂いていく。
アルトの剣には無駄な動きが一切なく、一太刀で確実に敵の急所を仕留めていた。一切の感情を交えないその剣筋は、名門ルーヴェル家で幼い頃から修練を積み重ねてきた騎士としての凄みに満ちている。
一方、イリーナの剣技は王城で鍛え抜かた洗練と優美さを極めていた。敵の荒々しい槍の突きを、流れるような身のこなしで紙一重に躱す。そのまま、舞を舞うかのように滑らかな軌道で白刃を閃かせると、一瞬の瞬きすら許さない速度で敵の喉元を正確に断ち切っていく。
悲鳴を上げる間もなく次々と仲間が倒れていく異常事態に、ようやく盗賊たちが侵入者の存在に気づき、慌てて武器を構えた。
「敵襲だ! 城壁を越えて入り込まれたぞ!」
「くそっ、数が多い! 防ぎきれねえ!」
残存していた盗賊たちが槍や斧を振りかざして抵抗を試みる。しかし、アルトとイリーナを先頭とする部隊の歩みは止まらない。アルトが鋭い踏み込みから三人の男たちの武器を弾き飛ばし、その隙を突いてイリーナが疾風のように駆け抜け、敵の前線を崩壊させていく。
兵士たちもまた、二人の背中を守るように手堅い槍衾を作り、次々と敵を制圧していった。圧倒的な練度の差を前に、盗賊たちの数はみるみるうちに減らされていく。
やがて、中庭の敵を完全に沈黙させた後、アルトとイリーナは数名の兵士を連れて、砦の最も奥に位置する頑丈な扉の前へと辿り着いた。扉の向こうからは、重苦しい土の匂いと、尋常ではない魔力の圧が漏れ出している。
「……どうやら、この奥に親玉が引きこもっているようだな」
イリーナが剣に付着した血を払い落とし、凛とした視線を扉へと向けた。
「ええ。この気配……並の野盗ではありません」
アルトも剣を上段に構え、油断なく息を整えた。
イリーナが厚い木の扉を蹴り開けると、そこはかつての砦の謁見の間であった。石造りの広い空間の中央。月明かりだけが差し込む薄暗い玉座の前に、一人の男が立っていた。
自身の身長よりも長い異様な長槍を構え、その痩せこけた顔に深い憎悪と諦念を貼り付けた男、ザンデ・クレインである。
「……やはり、貴族の犬どもが嗅ぎ回っていたか」
ザンデは自らの細い腕に爪を立てて掻き毟りながら、恨み言のように低い声を響かせた。
「最初から分かっていたのだ。甘い餌の裏には、必ず俺たちを皆殺しにするための罠があるとな。……お前たちの着ているその服、磨き上げられた剣。すべて我々から搾取した血税で購ったものだろう?」
ザンデの足元から、石畳が不気味な脈動を打つように隆起し始める。彼の持つ高い土魔法の適性が、部屋全体の地形を己の意のままに作り変えようとしていた。
「俺は死なん。真正面からお前たちのような暴力の権化と打ち合って、無様に死んでたまるか。この圧倒的な距離と絶望の中で、無力に這いつくばって死ぬのは……お前たちの方だ」
卑屈な被害妄想と極度の怯えが生み出した、徹底的な防衛の構え。砦の最奥で、アルトとイリーナは、かつてない厄介な強敵と対峙することになったのである。




