幕間・崩壊
灰色の雲がどこまでも重く垂れ込める、荒涼とした平野。
吹きすさぶ風の中、大地を塗りつぶすように巨大な軍営が広がっていた。多くの天幕が波打つように連なり、王家の紋章を掲げた旗が風に煽られている。
王都レイヴァルトから第一王子であるダリウスが率いた軍の総数は一万。その中核を担っているのは、王家の威信を体現する三千の精鋭部隊である。
厚い鋼の重装甲に身を包み、一切の私語なく陣を固める彼らの矛先は、本来であれば国境を脅かす外敵に向けられるべきものであった。しかし、その圧倒的な力は国の要所であるルーヴェルへ向けられている。
ひときわ大きな陣中の天幕には豪奢な装飾が施されており、天幕の中で総大将は苛立っているようで、落ち着きなく周囲を歩き回っていた。
ダリウスは幼い頃より、己の器量に引け目を感じていた。他者の優れた才能を見るたびに焦燥を覚え、心から信頼できる臣下を持てずにいた。誰もが内心で自分を見下し、いつか寝首を掻くのではという疑心が、彼から「人を信じる」という要素を完全に奪い去った。
今回の強硬な軍事行動も、その拭いがたい猜疑心が生み出したものである。
ルーヴェルの長であるセリオスが、ダリウスに対して反旗を翻した――
そんな噂が王都に流れたのは数日前のこと。冷静な為政者であれば、まずは密偵を放って真偽を確かめるだろう。しかし、ダリウスは流言を真実と断定して裏切り者を討伐すべく自ら精鋭を率いてやってきた。
確たる証拠もないまま、王子自らが怒りに任せて軍を動かすという異常事態。陣営内には、上層部の拭いきれない不安が伝播し、いつ味方の刃が背を向くか分からないという重苦しい空気が漂っている。
そこへ、討伐対象であるはずのセリオスが、少数の供回りを連れて王軍の陣へと姿を現したと報せが入った。
天幕へ通されたセリオスは、剣はおろか防具すら身につけていない。ダリウスの前に進み出ると、臣下としての完璧な作法で静かに片膝をついた。普段の彼が親しい者の前に見せるような、飄々として軽口を叩く態度はない。そこにあるのは、主君へ忠誠を誓い運命を委ねる貴族そのものであった。
「ダリウス殿下。この度は私の身の潔白を証明するために参上いたしました」
「黙れ!」
ダリウスは血走った目でセリオスを睨みつける。腰の剣の柄に手をかけ、今にも引き抜かんばかりの怒気を放っていた。
「貴様が反旗を翻したという報告はすでに私の耳に届いている! 王都の精鋭を前にして、命乞いにでも来たつもりか!」
王子の激昂を真っ向から浴びても、セリオスは表情を一つも変えずに静かに首を振る。
「殿下、それは何者かが流した悪質な流言です。私が殿下に弓を引くなど、到底あり得ないことです。第一、私に反逆の意思があるという確たる証拠がどこにあるのでしょうか」
「証拠……? 貴様が密かに兵を集め、帝国と結託しているという報告が上がっているのだぞ!」
「殿下、お怒りはご尤もですが、少しよろしいでしょうか」
激昂するダリウスを宥めるように、彼の傍らに控えていた男が一歩前に進み出た。ダリウスの副官を務める知将、ギルベルトである。
ギルベルトは冷徹な観察眼を持つ男だ。能力に乏しい王子を支え、王都の政争を生き抜いてきた彼からすれば、目の前で平伏するセリオスという男は得体が知れず、危険な匂いがした。
「セリオス卿。あなたは流言と言い張りますが、状況があなたを黒と示しています」
ギルベルトは懐から数枚の羊皮紙を取り出し、セリオスの目の前に突きつけるように掲げた。
「王都に噂が流れる半月前、あなたは王都への定期報告を意図的に遅延させましたね。さらに、ルーヴェル領の東部国境に展開していた哨戒部隊を不自然に後退させ、まるで反乱のために軍を中央に集結させているかのような『隙』を作った。これらの不可解な動きが、殿下の耳に入らないとでも思ったのですか」
ギルベルトの鋭い視線がセリオスを射抜く。
「証拠がないと仰るが、軍の不自然な動きという最大の証拠がある。あなたは意図的に殿下の心を煽るような動きをし、王都の軍をこの辺境へ引きずり出した。……謀反の意思がないのなら、この不審な動きをどう説明されるおつもりか」
ダリウスを守るための、副官としての見事な理攻め。
しかし、天幕の冷たい空気に包まれる中、膝をついたセリオスはふっと息を吐き、ダリウスを見据えたまま静かに口を開いた。
「なるほど。ギルベルト殿の仰る通り、確かに私の軍の動きは外から見れば不審に映るのでしょう。……しかし殿下、もし私が真に反逆を企て、殿下の精鋭をこの地に引きずり出すのが目的なら、あまりにも盤面が杜撰だと思いませんか?」
「杜撰だと……?」
ダリウスが怪訝な顔を向けると、セリオスは淡々と反証を紡ぎ始めた。
「第一に、殿下が『自ら』軍を率いてくるという保証はありません。もし殿下が討伐軍の将に別の将を据えていれば、私は弁明の機会すら与えられず、その者の独断で首を刎ねられて終わる。私は、己の命をそのような運任せの盤面に晒すほど愚かではありません」
静かな声だが、その論理には一切の隙がない。
「第二に、兵站の問題です。この数の軍勢がこのルーヴェルの平野に駐留すれば、一日に消費する食糧は莫大です。もし戦が長引けば、兵たちは我が領地から略奪を始めるでしょう。自らの領地と民を疲弊させ、己の権力基盤そのものを焼き尽くすような真似を、誰が好んで引き起こすというのですか」
「……」
「そして最後に。ギルベルト殿が指摘した『定期報告の遅延』と『哨戒部隊の後退』の真の理由です」
セリオスはギルベルトが手にする報告書を真っ直ぐに見つめた。
「報告が遅れたのは、西部の関所付近で難民の流入が相次ぎ、その身元調査と対応に追われていたからです。部隊を下げたのも、手薄になったルーヴェルの防衛を一時的に固めるための措置に過ぎません。……ギルベルト殿、あなたがお持ちのその報告書の末尾には、難民対応の遅延についての謝罪が記されていたはずですが?」
ギルベルトは手元の羊皮紙に素早く目を落とした。僅かに見開かれたその瞳が、セリオスの言葉が事実であることを物語っていた。
軍事的なリスクの巨大さ、兵站という動かしがたい現実、そして記録に残された事務的な事実。セリオスの完璧な理攻めの前に、ギルベルトの推測は完全に論破された。
「……では、セリオス。なぜこのような噂が王都に流れたのだ」
ダリウスの声から怒りが消え、代わりに強い困惑が混じり始めていた。
「私を排除し、殿下の軍事力をこの辺境に釘付けにしたい者達がいるのです」
セリオスは声を一段低くし、ダリウスの耳に甘く、恐ろしい毒を注ぎ込むように言った。
「私が部隊を動かした『隙』を突き、絶妙なタイミングで王都に噂を流した者がいる。大方、先の戦から逃げ延びた『王女の残党』が時間稼ぎをするために流した流言でしょう。殿下の正義感と素早い決断力を逆手にとり、我々を同士討ちさせようという魂胆でしょう」
「なんだと……!」
ダリウスの顔色が目に見えて変わった。
セリオスの言葉は、ダリウスが「自らの失態で軍を動かした」という事実を「正義感と決断力を利用された」という言葉にすり替え、彼の矮小なプライドを完璧に守り抜いていた。
「もし殿下が理性を失い、私を斬り捨てていれば、その者達の思惑通りになっていたのです。だからこそ、私は防具すら身につけず、真っ先に殿下の下へ駆けつけました。この無防備な姿こそが、私に反逆の意思がないという最大の証拠です」
「殿下、お待ちください! 彼の言葉を鵜呑みになさっては……!」
セリオスの放つ言葉の魔力に気づいたギルベルトが、必死にダリウスを制止しようとする。しかし、人を信頼できないと怯えながら、自らを肯定してくれる耳障りの良い言葉にはやすやすとすがりつくダリウスにとって、セリオスはすでに「己の無実を証明し、自分を正しいと認めてくれた忠臣」に変わっていた。
「黙れ、ギルベルト! セリオスの申す通りだ。すべては王宮に巣食うネズミどもの陰謀に違いない!」
ダリウスはギルベルトを一喝し、焦燥に駆られたように天幕の中を歩き始めた。
すかさず、セリオスが甘い毒を上塗りするように言葉を紡ぐ。
「我々がこんな辺境で足止めを食らい、身内の腹を探り合っている間に、王都がどう動いているのか……。反乱の正当性を完全に掌握し、貴族たちを従わせるためには、大義名分となる王族の身柄確保が最優先かと思われます」
ダリウスの脳裏に、最大の不安要素がよぎる。己の正当性を根本から揺るがしかねない存在。
「……リシェルだ!」
ダリウスは血相を変え、ギルベルトに向けて叫んだ。
「すぐに陣を畳むのだ! 我々は王都に戻る! そして、あの小娘が城の奥に確実にいるかを、一刻も早く確認するのだ!」
「……はっ。御意のままに」
ギルベルトは自身の落ち度を認めたかのように深く頭を下げた。彼は理解していたのだ。ダリウスはすでに、目の前で膝をついているセリオスという男の完璧な掌握下に置かれているのだ。それでも、君主は自身の声ではなくセリオスの言葉を信じている。
兵士たちは王子の命令を受け、即座に天幕を飛び出していく。その混乱の中心で激しく指示を飛ばすダリウスの背中を、床に膝をついたままのセリオスは、伏せた目の奥で冷ややかに観察していた。
(……愚鈍な王子だ)
セリオスは内心で底知れぬ冷笑を浮かべる。大局を見失い、猜疑心に溺れる者に、乱世の王たる資格はない。
表向きは頭を下げ、この王子に忠誠を誓い続けてやる。自らへ向けられた疑念を「王女の残党」というスケープゴートへと巧みに逸らしたことで、ダリウスはもはやセリオスを疑うことはないだろう。
(せいぜい、私の盤面で都合良く踊り続けてもらう。だが……ダリウス、あなたも間もなくおしまいだ)
セリオスの端正な顔に張り付いた酷薄な笑みは、誰の目にも触れることはなかった。三千の精鋭を背後に持つ王子すらも手駒と見做す男の底知れぬ野心が、薄暗い陣幕の中で静かに、そして禍々しく息づいていた。




