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王器


若き騎士ニステルの先導によって関所を抜けた四人は、アーベント領にある前線の陣所へと足を踏み入れた。

関所と都市を繋げるための野営地であったが、陣内は戦時中のような張り詰めた緊張感があった。行き交う兵士たちの顔に余裕はなく、無言で武器の手入れを行っている者たちの間には常に外敵への警戒が宿っている。


「ここで少々お待ちいただきたい。ヘルベルト様に報告してきます」


ニステルは四人を簡素な待機用の軍幕へ案内すると、一人で陣所の中央にそびえる最も大きな天幕へ向かった。

しばらくした後に息を切らした伝令係が現れて四人を指揮官がいる軍幕へと通していった。


天幕の中央で分厚い木の机越しに彼らを待ち受けていたのは、丸太のように太い腕と樽のような胸板を持つ、熊のごとき巨漢であった。過酷な前線で焼けた肌には歴戦の傷跡が無数に刻まれており、実戦仕様の無骨な重装甲がその威圧感をさらに際立たせている。

彼こそがクロイツ公爵の長男にして、アーベント領の軍事を束ねる猛将、ヘルベルト・アーベントであった。

ニステルから事前に報告を受けてはいたが、ヘルベルトの顔には未だに信じがたいという疑問が浮かんでいた。彼の鋭い眼光はリシェルを値踏みするように見つめていた。

泥に汚れ、平民の粗末な服を纏っていても、その顔立ちにはかつて王城で拝謁した姫君の面影が確かにあった。


「三年前でしたかね。ヘルベルト卿……。その節はお世話になりました」


リシェルが一歩前に出て、静かに微笑みながら告げた。その瞬間、ヘルベルトは微かに目を見張り、やがて深く息を吐き出して姿勢を正した。


「やはり、リシェル殿下……! 間違いありません。よくぞご無事で」


「ええ。本日は貴卿の父君、クロイツ公爵へとお願い事がありまして訪問させてもらいました」


「父上ですか……」


ヘルベルトは小さく呟き、リシェルの背後に控える者たちへと視線を移した。


「そちらの方々は?」


「私の協力者となります」


リシェルの紹介に合わせ、イリーナ、アルト、そしてユウが順に名前を告げた。


「アルト・ルーヴェル・レイヴァルト⋯⋯だと?」


その名を聞いた瞬間、ヘルベルトの太い眉が吊り上がった。彼は机についていた両手を離し、凄まじい威圧感と共にアルトを射抜く。


「戯れ言を……。ルーヴェル家は、次男セリオス以外は帝国との戦いで散ったとのことだ。貴様は名家の名を騙るのか」


軍幕の空気が凍りつくほどの殺気。しかし、アルトは全く怯むことなく、真っ直ぐにヘルベルトの双眸を見返した。


「騙ってなどいません。私はレオンハルト公爵の三男、アルトです。ルーヴェルの混乱を生き延び、殿下と共にここまで参りました」


「ヘルベルト卿」


リシェルが毅然とした声でアルトに並び立った。


「彼の身元は私が保証します。アルトの忠義と剣がなければ、私はここまで辿り着けませんでした。彼は間違いなく、誇り高きルーヴェルの騎士です」


ヘルベルトは、一切の揺らぎを見せないアルトの眼差しと、武人としての隙のない立ち姿をじっと見つめた。やがて、その奥底に亡きレオンハルトやレオニードと同じ気高い気配を感じ取ると、ふっと殺気を収めた。


「……その眼差し、そして殿下にそこまで言い切らせる器量。どうやら、獅子の血を引いているのは間違いなさそうだな。無礼を詫びる」


ヘルベルトは改めてアルトに向き直った。


「レオンハルト卿が病に倒れたという報せは、西の我々にも届いている。高潔な武人の死に心からの哀悼の意を表する」


深く頭を下げるへルベルトの姿に、アルトは微かに目を見開いた後、静かに礼を返した。


「しかし、あの『若獅子』レオニード卿が戦死したのは、未だに信じられん。あの男が帝国の軍勢に容易く後れを取るとは思えんのだが」


ヘルベルトの言葉に、アルトは奥歯を噛み締め、静かな、しかし確かな怒りを込めて事実を口にした。


「兄は帝国軍に敗れたのではありません。次兄であるセリオスに裏切られ、背後からの刃によって殺されたのです」


「……何だと?」


ヘルベルトは眉間に深い皺を刻み、机をドンと叩いた。


「セリオス卿の裏切りだと? いくらダリウスの駒に成り下がったとて、実の兄を戦場で手にかけるなど……出鱈目を口にしているのではなかろう?」


「信じられないのも無理はありません」


アルトは揺るがない声で言葉を継いだ。


「あの時、前線を維持していた兄の部隊は、セリオスによって意図的に退路を断たれました。物資もまともに届かぬまま、孤立無援となり、帝国軍の猛攻に晒されました。……兄は、絶望的な状況の中でも私を逃がすために自ら盾となって犠牲になりました。私は、兄の最期を背中越しに見届けることしかできなかったのです」


アルトの強く握りしめた拳から、血が滲みそうなほどの怒りと無念が伝わってくる。ヘルベルトは、その悲痛なまでの覚悟と彼が語る戦況の異様さに嘘がないことを悟った。


「……そうか。いかに若獅子であろうと、肉親の刃には耐えきれずに弟を生かすために命を散らしたか……。武人として、これほど無念な死はあるまい」


その言葉には、一片の嘘も飾りもない純粋な哀悼が込められていた。リシェルの背後に立っていたイリーナは、目の前の巨漢がただ力に任せて暴れ回るだけの野蛮な将ではなく、他者の忠義と武を正当に評価できる真の武人であることを確信した。

場に沈痛な空気が流れる中、リシェルが再び口を開く。


「ヘルベルト卿。過去を追悼する言葉に感謝いたします。先ほど申し上げた通り、私たちはクロイツ公爵と対話して、この国を正すために参りました。どうか、お力をお貸しいただきたいのです」


一切の淀みない真っ直ぐな瞳で直訴するリシェル。ヘルベルトは彼女の顔を見返して、やがて低い声で答えた。


「王女自ら、ここまで足を運んだその度胸は認める。だが、父も俺も、私欲で国を割ったダリウスとそれを止められなかった王家の者たちを許す気にはなれない」


冷徹な拒絶。しかし、イリーナはヘルベルトの表情の奥にある僅かな焦燥を見逃さなかった。


「……どうやら、王家への怒りというだけではないな」


イリーナの低い声に、ヘルベルトの視線が動く。


「協力したくとも、今のアーベントには他所へ軍を動かす『余裕』がない。関所の防衛以外にも、厄介事を抱えているというようにだな、指揮官殿」


「……ご名答だ、護衛殿」


ヘルベルトは小さく息を吐き、机の上に広げられた地図を指差した。


「西部領全体の治安が悪化している。我が領地も例外ではない」


「それは、王都から流れてきた難民の影響でしょうか?」


リシェルが問うと、傍らに控えていたニステルが首を横に振った。


「それもあるが、最大の懸念は別だ。出処は分からないが、最近になって東部から盗賊団が流れてきている。奴等は単なる寄せ集めではなく、組織的に動いており、すでに国境付近の村がいくつも被害に遭っている」


「組織的な盗賊団……」


ユウが顎に手を当て、静かに口を開いた。


「『自由の盾』の残党かもしれませんね」


「自由の盾だと? 奴らはすでに崩壊したと聞いていたが」


ヘルベルトが怪訝な顔を向けると、ユウは淡々と答えた。


「表向きはそうかもしれん。だが、ダリウスの目を欺くために地下へ潜った連中が、資金や物資を集めるために東部を荒らしている可能性もある。もしくは、王都の混乱に乗じて動き出した別組織という線も」


その推測に、ヘルベルトは苦々しい顔で頷いた。 


「正体は分からんが、少々手を焼いている。この関所の防衛を薄くして討伐に向かうわけにもいかず、膠着状態というわけだ。お姫様に手を貸す余裕がないというのが偽らざる本音だ」


「ならば、我々にも手伝わせてください」


アルトが即座に申し出る。しかし、ヘルベルトは鼻を鳴らした。


「たった四人で何ができると言うのだ。相手は組織化された数百の規模だぞ」


「俺に少数の兵を預けてもらえるなら、その盗賊団を確実に撃退してみせる」


ユウが一歩前に出て、一切の感情を交えない平坦な声で宣言した。


「俺たちを公爵に会わせるという確約をもらえるなら、野盗を殲滅してみせよう」



不敵な自信に満ちたユウの言葉。ヘルベルトはその双眸の奥底にある底知れない知略の光を読み取り、やがて豪快に口の端を歪めた。


「……面白い。お前達がどれほどの力を持つか、見せてもらおうか。ニステル、お前を彼らの補佐とする。要求する兵を与え、存分に動かしてみせろ」


「はっ!」


その承諾を得て軍幕を後にした四人は、ニステルの案内で滞在用の空き天幕へと向かって歩き出した。

その道中、血と排泄物、そして膿の入り混じった異臭が彼らの鼻を突いた。


視線の先には、他の場所とは明らかに異なる陰惨な空気を纏った大きな天幕があった。そこは、先の戦闘で重傷を負った兵士たちや関所を越えられずに行き倒れ、保護された難民たちを収容している野戦病院であった。

呻き声が絶え間なく響き、泥と血にまみれた者たちが藁の上に無造作に寝かされている。王都の絢爛豪華な城では決して見ることのない、凄惨な現実のどん底がそこにあった。


「……殿下、あちらは不浄です。見ない方がよろしい」


ニステルが気遣うように声をかけたが、リシェルは足を止めなかった。彼女は同行者たちが止める間もなく、その泥まみれの天幕の中へと一人で足を踏み入れたのである。


「殿下!」


アルトが慌てて後を追うが、リシェルは悪臭に顔をしかめることもなく、足を失い高熱にうなされている初老の兵士の傍らに膝をついた。


「痛みますね。もう大丈夫ですよ」


平民の粗末な服の膝が泥に汚れようとも意に介さず、リシェルは自らの手で水桶の布を絞り、兵士の額の汗を優しく拭った。


「ありがとう、お嬢ちゃん……。少し、楽になったよ……」


素性を知らない兵士が、弱々しい笑みを浮かべて純粋な感謝を口にする。リシェルは静かに頷き、さらに奥でうずくまっている平民の男のもとへ歩み寄った。


「くそっ……」


その男は、包帯の巻かれた腕を押さえながら、憎々しげに吐き捨てた。


「俺たちがこんな目に遭うのも、全部あの腐った王族どものせいだ……! 上の連中が勝手なことばかりをするから、俺たちの村が……!」


目の前に立つ少女が誰であるかも知らず、男は行き場のない怒りと不満をぶちまける。アルトが顔を顰めて一歩前に出ようとしたが、リシェルはそれを手で制した。

彼女は逃げることなく、男の怒りに満ちた目を真っ直ぐに見つめ返し、泥に汚れた地面に静かに両膝をついた。


「申し訳ありません」


一切の自己弁護のない、真摯な謝罪。そのただならぬ空気に、男は戸惑いを見せた。


「な、なんだよ。なんでお嬢ちゃんが謝るんだ……」


「あなた方の流した血と涙は、すべて王家の罪です」


リシェルは自らの胸に手を当て、男の言葉を真っ向から受け止めた。


「私には、今すぐにあなた方の痛みを消し去る力はありませんが、二度とこのような悲劇を繰り返さない国を作ると、お約束します。どうか、生きてください」


澄み切った声が、泥と血に塗れた天幕の中に静かに響き渡る。

その飾らない言葉と底知れぬ覚悟に、不満を漏らしていた男も、周囲で呻いていた負傷者たちも、やがて静まり返り、呆然と彼女の姿を見つめることしかできなかった。


少し離れた軍幕の隙間。

その一連の光景を、腕を組んだヘルベルトが静かに見下ろしていた。

王族でありながら正体を誇示せず、泥を被ることを厭わずに民の怒りを真っ向から受け止める少女の背中。

ヘルベルトの鋭い眼光は、決して揺らぐことのないその清廉な姿に、紛れもない「真の王」の器を垣間見ていた。


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