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伴走


難民たちの不安と焦燥でごった返していたボーグの村に夜の静寂が訪れていた。

冷たい夜風が吹き抜ける宿の裏庭でリシェルは一人、暗い夜空を見上げていた。見上げる空は王宮のバルコニーと同じであるはずなのに、夜の空に輝く星々はいつもより綺麗に広がっているものの、どこか遠く冷たいように感じる。


「リシェル様。湯を少し沸かしてもらいました。外は冷えますから、どうぞ」


背後から足音が近づいて、アルトが湯気の立つ木製のカップを両手で差し出してきた。


「……ありがとう、アルト」


リシェルがカップを受け取ろうと手を伸ばした時、冷たい夜風が吹いて彼女の華奢な肩がわずかに震えた。

それに気づいたアルトは、カップを一旦近くの木箱に置いて自身が羽織っていた厚手の外套を迷うことなくリシェルの小さな肩へと優しくかけた。


「あ……」


アルトの体温が残る外套に包まれ、リシェルは小さく息を呑んだ。アルトは少し照れくさそうに頭を掻いた。


「すみません、気の利いたものがなくて。でも、風邪を引かれてはいけませんから……」


「……優しいのですね、あなたは」


リシェルは外套の襟をぎゅっと握りしめ、再び夜空へと視線を向けた。その横顔には、昼間の気丈な王女としての顔とは違う、年相応の少女のような儚さがあった。


「今日のイリーナの姿を見て……私は、自分の無力さを痛感しました。 私は王になると言いながら、剣を振るうことも人を導く力もありません。 公爵の心を動かすと言いましたが……本当は、恐いのです。もし私が、ダリウス兄様のように道を違えてしまったらと」


ぽつりとこぼれ落ちた弱音。それは、これまで王宮の中に居ながらどんな重圧にも耐え続けてきた彼女が初めて見せた、一人の人間としての弱さであった。

アルトは少しだけ思案するように伏し目がちにすると、ゆっくりと口を開く。


「僕には難しい政治のことは分かりません。王族がどれほどの重圧を背負うのかも想像できません。それでも……」


アルトの真っ直ぐな瞳が、リシェルを捉えた。


「リシェル様が食事を残さず食べられたこと。民に寄り添おうと必死にもがいていること。それだけは知っています。あなたのその心は絶対に間違っていません。クロイツ公爵にも必ず伝わります」


「アルト……」


「もし公爵が剣を向けてきても、恐れないでください」


アルトは一歩だけリシェルに近づいて、彼女が握っている外套の襟元――

その震えていた小さな手に、自分の少しだけ大きな手をそっと重ねた。慣れている仕草ではないが、彼女――

一人の少女が抱えている不安を少しでも拭い去りたいという、まっすぐで純粋な行動の現れであった。


「僕もあなたを守ります。……いえ」


アルトは首を横に振り、自らの言葉を訂正した。


「共にあなたの隣を歩かせてください。 あなたが倒れそうになったときに僕が支えます。 一緒にこの国を正しましょう」


その言葉は、騎士としての誓いであると同時に、一人の青年としての真っ直ぐな願いだった。

重なった手から伝わる温もりに、リシェルの頬がわずかに朱に染まる。


「……ええ。頼りにしています、私の騎士様」


リシェルは安堵したように微笑み、アルトの温かい外套の中で、小さく頷いた。


同じ頃。建物の二階にある薄暗い相部屋では、別の静かな時間が流れていた。

備え付けの粗末な机の上で、ユウは小さなランプの灯りを頼りに、羊皮紙にペンを走らせていた。

王都に残るクロウや、恋人のエリナへ送るための文だ。


建て付けの悪い扉が軋む音を立てながらゆっくりと開かれた。周囲の見回りに出ていたイリーナが部屋へとやってきた。


「異常はなさそうだった。村は静かなものだ」


「ご苦労。こっちも手紙を書き終わったところだ」


ユウがペンを置き、羊皮紙を丸めようとしたその時だった。


「待て、その手はどうしたのだ」


イリーナが鋭い声を上げ、ユウの元へ歩み寄った。彼女の視線は、ユウの右手の甲や腕に注がれている。

そこには、馬車の手綱を荒く引いた時の摩擦や旅の道中で木の枝に擦れたような細かな切り傷がいくつもできていた。本人は全く気にも留めていない些細な傷ではある。


「大した傷じゃない。放っておけば治るさ」


「馬鹿を言うな。そこから感染症にかかったらどうするのだ」


イリーナは強引にユウの右手を掴み取ると、自身の荷物から小瓶に入った軟膏と清潔な布を取り出した。


「おいおい、何をしてる」


怪訝な顔で手を引き抜こうとするユウだったが、イリーナはガッチリと手首を掴んだまま、有無を言わさずに傷口へと丁寧に軟膏を塗り込み始めた。


「……勘違いするな」


イリーナはユウの顔を見ようとせず、そっぽを向いたまま不機嫌そうに言い放った。


「私は殿下の護衛だ。お前のような非情で冷酷な策を弄する男は好かない、が……」


包帯を巻く彼女の指先の動きは、不器用ながらも驚くほど優しかった。


「この旅で一番の泥を被っているのはお前だ。お前に倒れられては殿下の不利益になる。だから、仕方なく手当てをしてやっているだけだ」


それは、実直な騎士である彼女なりの、最大限の譲歩と気遣いだった。

ユウは少しだけ目を見張った後、ふっと鼻で笑い、抵抗するのをやめて彼女のなすがままに腕を任せた。


「そうか……。なら、せいぜいこき使わせてもらうよ。俺の手が動かなくなったら、誰が公爵を騙すシナリオを書くんだって話だからな」


「っ……! お前という奴は、本当に口が減らない可愛げのない男だな!」


イリーナは悪態をつきながら、最後に包帯の結び目をわざと強めにキュッと引っ張った。


「痛っ」


「動くからだ。⋯⋯ほら、終わったぞ」


乱暴に手を離されたユウは、綺麗に巻かれた包帯を見て、小さく肩をすくめた。


(……王都にいる 『素直すぎる』 奴とは大違いだ。厄介だが……背中を預けるには悪くない)


ユウの脳裏に一瞬だけ王都に残している侍女の顔が浮かんだが、すぐに目の前の不器用な騎士へ視線を戻した。


「感謝するぞ。今日は寝よう、明日も早い」


「言われるまでもない」


いがみ合いながらも、確かな信頼が芽生え始めていた。

王道の光を歩む者たちと、影の盤面を歩む者たち。

それぞれの想いが交差した夜が明け、四人はいよいよ最大の関門――

クロイツ公爵の待つアーベント領の関所へと挑む。

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