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猜疑


王都の雨が上がろうとしていた。

灰色の雲に厚く覆われ、肺にまとわりつくような重苦しい湿気に包まれていた。


――王宮の最上階、一般人は足を踏み入れることも許されない。

窓から眼下の街並みを見下ろしながら、王位継承者第一位のダリウスは、不快を拭うように鼻先をハンカチで覆った。


「……雨が降るとこの街の匂いが鼻につく。王宮の石壁を越えてここまで臭うとは⋯⋯、衛兵どもは何をしているのだ」


豪奢な紫の絹の服に身を包んだダリウスからは、鼻をつくほど強い香水の匂いが漂う。だが、どれほど香水を浴びようとも、窓の外から漂ってくる泥や、自らの神経を苛つかせる気配を完全に消すことはできなかった。


「殿下、窓を閉めましょうか」


背後に控えていた側近の使用人が頭を下げる。

ダリウスはその言葉に答えず、右手の親指で中指にはめたルビーの指輪をゆっくりと回し続けた。


「……最近、眠りが浅い」


ダリウスの青白い手には、慢性的な不眠を示す薄暗い隈が張り付いている。


「夜になると、首筋へ刃を突きつけられる夢を見る。誰かが私の寝首を掻こうと、息を潜めているのだ。……ギルベルト、お前はどう思う?」

 

部屋の片隅で、山積みの書類を静かに整理していた男が、ゆっくりと顔を上げる。

ダリウスの参謀、ギルベルト・クレイン。

長身で、無駄な肉が一切ない細身の体躯。シワが一つもない漆黒の文官服に身を包んでおり、眼鏡の奥で、彼の瞳は感情を排除した氷のような眼差しを宿していた。


「……殿下の直感は、時として真実を射抜かれております」


ギルベルトは淡々と、しかし確かな重みのある声で答えた。


「そして現在、王都の状況は幻覚で済まされる規模ではございません。すでに水面下で、巨大な渦が起こりつつあります」


「渦? 下民が何を騒いでいるというのだ」


ダリウスが不機嫌に眉をひそめたその時、執務室の重厚な扉がノックされ、近衛隊長が部屋へと駆け込んできた。普段であれば許可なく入室することは死罪に値するが、隊長の顔にはそれを忘れるほどの焦りが浮かんでいる。


「殿下……! 大至急、ご報告申し上げたいことが!」


「騒々しい。何事だ。報告なら順序立てて行え」


「申し訳ございません。ですが、街で……極めて不穏な噂が流れております」


近衛隊長は、口にすることさえ嫌がるように声を震わせている。


「東の英雄、セリオス卿が……帝国と密約を交わし、ルーヴェルを独立して、殿下の背後を突き、この王都を乗っ取ろうと計画していおりますっ⋯⋯!!」


ダリウスの指先が、ぴたりと止まる。

喉仏が上下して、彼は無意識に自らの首元を撫でていた。首筋を撫でる刃の正体を突きつけられたような錯覚に陥った。


「……下民の戯言だ。セリオスが私を裏切るわけがない」


ダリウスは無理やり冷笑を作ったが、その声はわずかに上擦っていた。


「奴には相応な特権と領地を与えている。飼い犬が飼い主の手を噛んで何の得がある。ただの酔っ払いの寝言だ」


「それが……噂は酒場や裏路地にとどまりません。街中の至る所で民がこぞってその話を語り合っています。さらには……」


「下がれ」


ダリウスが怒鳴る前に、ギルベルトが静かで底冷えする声で隊長を制した。


「ご苦労。外の警備を厳重にするのだ。誰一人、蟻一匹も不審な者を王宮に近づけるな」


隊長は逃げるように退室していく。ギルベルトは眼鏡の位置を直し、ダリウスの机へと歩み寄った。彼の手には数枚の書状が握られていた。


「殿下。単なる流言であるならば、商人や貴族たちが一斉に顔色を変えることはあり得ません。これは今朝、殿下を支持する貴族や商人たちから届けられた書状の束です」


ギルベルトは書状を机に置き言葉を続けた。


「皆、言葉を濁しておりますが、本音は一つです。『東からの噂は事実か。もし戦が起きるなら、自分たちの財産と命は保証されるのか』……という探りです。軍の物資を納入する商会では、すでに在庫を出し惜しみしております。……この噂には、彼らを怯えさせるだけの『説得力』がありすぎます」


「説得力⋯⋯?」


ダリウスは指先を口元へと近づけて自身の爪を噛み始めた。室内には嫌な音が鳴り響いてくる。


「奴が私に牙を向くのか!! 私を差し置いて、この国の玉座に座るとでも言うのか!」


「玉座に座る者が誰であろうと、彼らには関係ありません。問題なのは、セリオス卿が『裏切ろうと思えば、いつでも殿下の寝首を掻けるほどの力を持っている』ということです」


ギルベルトは無表情のまま、残酷な事実を口にした。


「……殿下。記録では、セリオスの兄、レオニードは、帝国軍との戦で『戦死』したことになっています。……ですが、当時の不自然な補給の遮断、そして絶好のタイミングでの帝国軍の侵攻。……私は以前より確信していました。セリオス卿こそが実の兄を殺して領主の座を奪った当事者だと」


ダリウスの瞳が大きく見開く。


「……貴様!! それに気づいていながら……なぜ今まで黙っていた!」


「利用価値があったからです。野心という鎖で繋がれた獣は、餌さえ与えれば優秀な犬となりましょう。帝国の侵略を防ぐ防波堤としてあの男は必要不可欠です。しかし……」


ギルベルトの冷徹な分析が、ダリウスの心の奥底にある劣等感と猜疑心に油を注ぐ。


「自分の血を分けた家族すら平気で食い殺す獣が、他人に真の忠誠を誓うことなどあり得ません。民衆が奴を『英雄』と称えるほど、獣は自らの王座を欲する。殿下、街の噂は、単なる嘘ではございません。民が英雄に抱く幻想であり、皆が納得する筋書きなのです」


「……おのれ……、セリオス!!」


ダリウスは椅子から立ち上がり、部屋の中を獣のようにうろつき始めた。

自分が「真の王の器」ではないという事実。それはダリウス自身が誰よりも分かっている。

だからこそ、気高く聡明な妹を西の離宮に幽閉した。彼女の存在が自分の凡庸さを浮き彫りにしてしまうからだ。そして、自分の弱さを隠すために、セリオスという剣を用いた。

だが、その切っ先は、自分の喉元に突きつけられている。


――その時だった。

ダリウスが執務室の重い扉の近くを通りかかった瞬間、扉の向こうの廊下から、若い侍女たちの潜めた声が微かに漏れ聞こえてきた。


『……聞いた? ダリウス様の警護が最近急に厳しくなったの……』


『ええ。ルーヴェルの裏切ったという密書が、殿下のもとに届いたらしいわ』


『恐ろしい。だから城中が殺気立っているのね……王都が戦火に包まれるのも時間の問題ね。私たち、どうなるのかしら……』


ダリウスの全身の血が凍りついた。

自分の足元。自身の身の回りの世話をする侍女までもが、その「密書」の存在を囁いている。

自分の手元に、そんな密書は届いていないが、彼女たちは「届いた」と信じて疑わない。


「……ギルベルト。聞いていたか」


ダリウスは狂ったように自らの喉仏を掻き毟り、血走った目で参謀を睨みつけた。


「密書は届いていた! 私のもとへ届く前に、誰かが揉み消した! この王宮の中に、すでにセリオスの内通者がいるということだ!」


「殿下、落ち着きを。それは侍女たちの出所不明の憶測にすぎぬ可能性も……」


「黙れ! 誰が信じられる! お前か? お前も奴と通じているのか!?」


ダリウスは机の上の高価なクリスタルを床に叩きつけた。

粉々に砕ける音が、彼の理性を完全に断ち切った。


「私が何もしないと? そう、思っているのか!? 奴が帝国と結んで王都に攻め込んでくるのを、私が震えながら待っていると思うのか!? ふざけるな、このダリウス・ヴァレリウス・レイヴァルトを侮るなよ!!」


恐怖の裏返しである凄まじい怒りが、ダリウスの細い体を大きく震わせていた。


「ギルベルト、騎士団の精鋭を集めろ。……私が自ら赴く。東のルーヴェルへ向かって、セリオスが軍を動かす前に、奴の首を刎ねてやる!」


「殿下、自ら出陣など危険すぎます! 何者かの罠という可能性がございます! 万が一、王都を空けた隙に……」


「罠であろうとなかろうと、自分の身は自分で守る!」


ダリウスは目を剥き、もはや誰の言葉も届かない狂気の淵にいた。


「奴が各所から買い集めた物資も兵器も、すべて私の前で没収し、逆賊として処刑してやる! セリオスの首を王都の門に晒せば、商人も貴族も、再び私に這いつくばる!」


ダリウスは激しく息をつき、マントを翻した。


「王都の守りは最低限の近衛兵に任せろ。西の離宮の監視も……数名で事足りる! あそこには病弱な小娘しかおらん! 精鋭はすべて私が引き連れていく。明日、夜明けとともに出陣するッ!!」


ダリウスの咆哮が、王宮の最上階に虚しく響き渡った。

ギルベルト・クレインは深く頭を下げながら、銀縁眼鏡の奥で静かに目を閉じた。主君の猜疑心は、もはや彼の知恵で止められる領域を超え、自ら破滅への道を選び取ったのだ。

アルトたちが闇夜に放った偽報は、数週間にして大輪の花を咲かせた。

最大の障壁であった王子が、自らの恐怖に急き立てられるように王都を空けていく。

西の離宮を深く閉ざしていた「絶望の扉」が、皮肉にもダリウスの手によって開かれることになる。

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