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流言


雨の王都は、深い泥と陰鬱な闇に沈んでいた。

分厚い雲が月明かりを完全に遮り、絶え間なく降り注ぐ冷たい雨が、石畳の汚れを洗い流すかのように激しく打ちつけている。だが、この街の根底に巣食う腐敗の臭いまでは、どれほどの豪雨でも洗い流すことはできなかった。


王女リシェルが囚われている離宮。その厳重な監視網の死角となる隠し通路を抜け、王都の裏路地へと這い出たアルト、ユウ、カインの三人は、目深に被った黒い外套のフードで顔を隠し、降りしきる雨の中で足を止めた。

冷たい雨粒が頬を打ち、吐く息が白く濁る。


「三人がまとまって動くのは効率が悪い」


ユウが雨音に負けないよう、声を潜めながらも張り上げて言った。その無機質な瞳は、すでに王都という巨大な盤面を俯瞰している。


「手分けして王都中に情報を撒こう。カインはマルセルの所へ。アルトはサイラスの所へ。俺はヴェインの所へ行く」


「へっ、俺はあのタヌキおやじの相手か。脅し甲斐があっていいぜぇ!」


カインが外套の下でナイフの柄を軽く叩き、悪びれた笑みを浮かべた。暗闇の中で、彼の凶暴な目が獲物を狙うように細められる。


「暴力は最後だぞ、カイン。情報は『対価』を払って流させるからこそ信憑性が出る。……アルト、そっちも頼んだぞ」


「ああ、任せてくれ。夜明けには、『片翼の燕亭』で合流しよう」


三人は短く頷き合うと、それぞれが漆黒の闇の中へ、雨を切り裂くように別々の方向へと散っていった。


王都の商人街、その一等地に堂々と店を構える『ガニエ商会』。

表向きは各国の珍品や高級品を扱う豪奢な商館だが、店の奥にある部屋では、丸みを帯びた体躯の商人マルセルが、夜更けだというのに何やら怪しげな帳簿の計算に没頭していた。部屋の中は高価な香炉の煙が立ち込め、彼の強欲さを象徴するように金貨の山も積まれている。

不意に、背後の隠し扉が音もなく開き、ずぶ濡れの黒い人影が部屋に入り込んだ。


「こんな夜更けにだれだ?……ひ、ひぃっ!?」


フードを取ったカインの顔を見た瞬間、マルセルは椅子から転げ落ちそうになった。帳簿が床に散らばる。


「よう、マルセル。随分と景気が良さそうじゃねえか。ちょっとした商談に来たぜ」


カインは濡れた髪を無造作に掻き上げ、鞘から抜いた銀のナイフを空中でくるりと回した。刃が蝋燭の光を鈍く反射する。


「ひぃっ、しょ、承知いたしました! このマルセル、何でもさせていただきます! ですから、どうか、どうか命だけは……!」


マルセルは顔面を蒼白にし、脂汗を浮かべながら壁際まで後ずさった。震える手で、蓄えた口髭をしきりに弄り回している。極度に焦った時の彼の癖だ。


「安心しな、お前のその脂肪だらけの腹に風穴を開けに来たわけじゃねえ。ただの『仕事』の依頼だ」


カインは机の上に、ずっしりと重い革袋を放り投げた。チャリン、と鈍い黄金の音が部屋に響く。


「……し、仕事、ですか……?」


マルセルは口髭から手を離し、恐る恐る机の上の革袋に視線を向けた。恐怖よりも欲望が勝り始める商人の性が、彼の瞳に微かな光を宿させる。


「セリオスが帝国と通じて、ルーヴェルを独立させてダリウス王子を背後から暗殺して王国を乗っ取ろうとしている計画だ。……その噂を、あんたの抱えている御用商人や、金欠の下級貴族どもの耳に入れてくれ」


その言葉に、マルセルは両手で口髭をむしるような勢いで震え始めた。


「ほ、本気ですか!? ひええ、そ、そんなの、一歩間違えれば私の首まで飛んでしまいます! セリオス卿は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの大英雄だ。それに喧嘩を売るなど、私のようなしがない小商人には到底……っ!」


「だからこそ、商機があるんだろ」


カインはマルセルの鼻先にナイフの切っ先を突きつけ、獰猛に笑った。ナイフの冷たさがマルセルの鼻先を掠める。


「ダリウスがセリオスを重用しているからこそ、面白くねえと思ってる奴等は山ほどいる。お前の顧客にも、恨みや妬みを持ってる奴がいるはずだ。そいつらに『これは極秘情報だが』と教えてやれ。連中は喜んでその話を信じ込み、勝手に周りに吹聴する」


「あわわ、そんな、危険な火遊びをするような真似…⋯」


マルセルは脂汗を絹のハンカチで拭いながら髭を撫で回す。恐怖でガクガクと震えながらも、目の前の金貨と、カインの言う「商機」という言葉に、商人特有の浅ましい計算が働き始めていた。ダリウスがいなくなれば、王都の利権の構造は一気に塗り替わる。


「……分かりました。ええ、分かりました! 旦那がおっしゃるなら、このマルセル、一肌脱がせていただきますよ!」


マルセルは震える手で革袋を素早く懐にねじ込むと、ペコペコと何度も腰を折った。


「明日の朝一番は、絹商人や香辛料の元締めどもに、私が手配した『最高級のヴィンテージワイン』と一緒に、『とっておきの秘密』として流してやりましょう! 」


「へっ、交渉成立だな。せいぜい上手くやれよ、タヌキ親父」


カインはナイフをしまい、再び雨の降る闇の中へと消えていった。


同じ頃、ユウは王都の地下深く、下水道のさらに奥に広がる巨大な空間へと足を踏み入れていた。


重い鉄扉を開けると、むせ返るような酒と煙草の臭い、そして狂気に満ちた怒号と歓声が波のように押し寄せてくる。王都最大の地下賭博場『黒曜の盃』――あらゆる階層の人間が欲望のままに金と命をすり減らす、伏魔殿の心臓部だ。

ユウは熱狂する群衆を冷ややかな目ですり抜け、一番奥にある鉄格子で守られた一段高い特別席へと向かった。そこで、無数の金貨が積まれたテーブルを前に、退屈そうに葉巻をふかしている隻眼の男がいた。

王都の裏社会を牛耳る顔役の一人であり、この賭博場の元締めであるヴェインだ。


「ヴェイン。少し耳を貸せ」


ユウが声をかけると、ヴェインは隻眼を細め、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。その口元には、粘りつくような不気味な笑みが浮かんでいる。


「おやぁ、誰かと思えば。地獄から舞い戻ってきた野良犬が、一匹だけで来るとはねぇ……」


ヴェインは立ち上がりもしないまま、値踏みするようにユウを見上げた。


「それにしても、随分と上等な香水の匂いをさせてるねぇ。王女様の離宮の居心地はどうだった?」


その言葉に、ユウの表情がわずかに強張る。


「……耳が早いな。どこからその情報を仕入れた?」


「怖い顔をするなよぉ。キミたちのことは、だいたい予測がついてるよぉ……」


ヴェインはクックッと喉の奥で笑い、葉巻の灰を指先で弾き落とした。


「ここは王都最大の肥溜めだよぉ。上流の綺麗な連中がこぼしたゲロも、下水を通って全部ボクのところに流れ込んでくるのさ。王宮の警備兵のシフトの変更、離宮に出入りした怪しい馬車。……どこからでも情報は集まるんだよぉ」

 

ユウは息を吐き出し、一歩前に出た。


「なら話は早い。その集まった情報の中に、一つ新しいものを混ぜてほしい。……セリオスがダリウスを暗殺して、ルーヴェルを独立させるって話をな」


ヴェインの隻眼が、わずかに見開かれた。


「なるほどねぇ。あの英雄サマを裏切り者に仕立て上げるか。こいつは特大の毒薬だ。…⋯でも一つ、勘違いしてるよぉ」


「何?」


「ボクは情報を『集める』のが仕事だが、『広める』のはボクの仕事じゃないんだよぉ」


ヴェインは肘掛けに寄りかかり、鉄格子の向こうで狂騒に酔いしれる群衆を見下ろした。


「ボクが『噂』を触れ回ったところで、誰も信じやしない。だがねぇ、ここに集まっている連中……借金で首が回らない兵士、主人の金を横領した使用人、人生の一発逆転を狙うクズども。こいつらは常に『上流階級の不幸』を探してるんだ。キミの持ってきた毒の種を、ボクがこっそりとテーブルの端に置いてやれば…⋯」


ヴェインはニヤリと笑い、群衆を指差した。


「あとは、ここにいる連中が勝手に広げてくれるのさ。酒場へ、娼館へ、裏路地とね。……しばらくすれば、王都中がその噂を真実だと信じ込んで大合唱しているかもねぇ」


「……その言葉が聞きたかった。頼んだぞ」


ユウは満足げに頷き、分厚い革袋をヴェインに向かって放った。ヴェインはそれを受け取ると、葉巻をくわえ直して深く頷く。そして、ユウの外套の下、わずかに強張った腕の動きを隻眼で楽しげに追った。


「……血の気が多いねぇ。ここでボクを斬っても、地上へ出る前に蜂の巣になるだけだよぉ」


ヴェインは去りゆくユウの背中に向けて、楽しげに独り言のように呟いた。


その頃、アルトは商人街の三等地に位置する、入り組んだ路地の奥にひっそりと店を構える『ハクスター雑貨店』に辿り着いていた。

雨は未だ降り続いている。その店舗の裏手にある広い倉庫では、幾重にも防水布を被せた荷馬車の点検をしている初老の男がいた。アルトたちを、ファルケン村から王都まで荷馬車にて運んでくれた恩人であるサイラスだ。


「サイラスさん」


アルトがフードを取り、声をかけると、サイラスは手元のランタンの光を掲げ、目を丸くした。


「 お前さん、元気だったか! あの後、無事に仕事はみつかったのかい?」


サイラスは雨に濡れるのも構わず駆け寄り、アルトの肩を力強く掴んだ。人の良い商人の顔には、心からの安堵が浮かんでいた。


「サイラスさん、貴方のおかげで本当いい仕事が見つかった。それより、今は詳しい話をしている時間がないんだ。今から仕入れかい?」


「ああ。夜明けとともに西の都市、ローデリヒまで行く。あっちの方が、今は鉄や武具が高く売れるんでな。羽振りのいい兵士が多いんだよ」


「それは好都合だ⋯⋯」


アルトはサイラスの肩に手を置き、周囲を警戒しながら声を潜めた。


「サイラスさん。西のローデリヒへ向かう道中や向こうの街で噂を撒いてほしい。ルーヴェルのセリオス卿が王都に半旗を翻すかもしれないと。……色んな人たちの耳にも入るようにな」


「……随分と物騒な話だが。坊ちゃんがそこまで真剣な顔で言うなら、よっぽどのことなんだろうな」


サイラスは、アルトの悲壮な決意を秘めた眼差しを見て、静かに頷いた。


「分かった。道中の酒場やローデリヒの市場で、羽振りのいい商人を装って景気良く喋ってやろう。西の空にも、その噂の種を飛ばしてやるさ。……坊ちゃんも、どうか気をつけてな」


「助かる。ありがとう、サイラスさん」


アルトが深く頭を下げると、サイラスは無骨な手でアルトの背中を叩き、馬車の御者台へと登っていった


一方、王宮から隔離された位置にある離宮。

男たちが雨の街へ出ている間、リシェル王女の隠し部屋では、もう一つの、そして最も危険な「噂の経路」についての話し合いが行われていた。


「エリナ。貴女に、王宮の侍女として潜入してほしいのです」


リシェルの静かな言葉に、アルトの侍女であるエリナは微かに肩を震わせた。

王宮の中枢、ダリウスの息がかかった伏魔殿のど真ん中へ入り込む。それは、一歩間違えれば即座に命を落とす、あまりにも危険な任務だった。


「お待ちください、リシェル殿下!」


たまらず声を上げたのは、傍らに控えていたアルトの妹、セシリアだった。彼女はエリナを庇うように前に出る。


「エリナを危険な目に遭わせるわけにはいきません! 私がやります。私なら、誰にも疑われずに下働きとして入り込めます!」


「ダメです、セシリア様」


リシェルは、冷徹なまでの冷静さで首を横に振った。


「貴女はルーヴェル家の令嬢です。以前、王宮の貴族たちや高位の侍女にその顔を見られている可能性がある。万が一、誰かに『死んだはずのルーヴェル家の娘』だと気づかれれば、計画はすべて水泡に帰します」


「ですが……!」


「……セシリア様。リシェル殿下のおっしゃる通りです」


エリナが、セシリアの肩を優しく引き寄せ、静かに微笑んだ。その顔には、恐怖を押し殺した確かな覚悟が宿っていた。


「どうなるかは分かりませんが、私にやらせてください。……それに、ユウ様やアルト様があれほど危険を冒して戦っているのです。私だけが、ここで守られているわけにはいきません」


「エリナ……」


セシリアの目から涙がこぼれ落ちる。エリナはそれを指で拭い、リシェルに向かって深く頭を下げた。


「王宮内の使用人たちのネットワークは、驚くほど密です」


リシェルは、近衛騎士イリーナが密かに用意した地味な王宮侍女の制服をエリナへと手渡しながら言った。


「貴女は新入りの下働きとして厨房や洗濯場に入り込み、他の侍女たちとの世間話の中で囁くのです。『ダリウス様の警備が最近厳しい。東のセリオス卿が裏切ったという密書が届いたらしい』と。……噂は壁を伝い、必ず兄様の寝室まで届きます」


「承知いたしました」


エリナは制服を胸に抱きしめ、決意に満ちた瞳で頷いた。


夜が明けようとしていた。

雨は小降りになり、東の空が白み始めている。

王都のスラムの安宿の屋根で、雨に濡れながら街を見下ろすアルト、ユウ、カイン。

王宮の厨房で、冷たい水に手を浸しながら、他の侍女たちの会話に静かに耳を傾けるエリナ。

そして離宮の窓辺で、琥珀色の瞳を王宮の塔へ向けるリシェルと、祈るように手を組むセシリア。

彼らが手分けして一晩でバラ撒いた「餌」は、すでに数え切れないほどの人々の口から口へと伝わり、尾ヒレをつけ、得体の知れない巨大な怪物となって王都中を這い回り始めていた。


情報という名の致死の毒薬が、ダリウス王子の心臓に届くのは、もはや時間の問題だった。

それぞれの視線が、嵐の前の静けさに包まれた王都の朝焼けを見つめ、ただその「時」を待っていた。

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