偽報
王女と一部の血族にしか把握していない隠し部屋の机の上には、王宮の暗部から引きずり出された数枚の羊皮紙が散らばっている。ダリウス王子とセリオスの繋がりを示すそれらの文書は、確かに王国の腐敗を物語っていたが、西の重鎮・クロイツ公爵という巨大な武力を動かすための「決定打」としては、あまりにも脆弱だった。
突きつけられた現実の壁の高さに、誰もが言葉を失う中。
ふと、リシェルが広げられた地図の西側――巨大な山脈に守られたアーベント領へと視線を落とし、静かに口を開いた。
「……証拠が足りないのなら、残された道は一つしかありません」
リシェルは、机の上に広げられた不完全な報告書を見つめ、静かに、しかし断固とした口調で断言した。その指先は、王都の西側に位置するアーベント領を、まるでそこが唯一の希望の地であるかのように強く押さえている。
「どうすれば公爵は動くんだ?」
アルトが問いかけると、リシェルは顔を上げ、その瞳に王族としての強い意志の光を宿して彼を見つめ返した。
「王族である私自身が、公爵の面前へ赴くのです。私の口から直接、今の王宮がいかに腐敗し、ダリウス兄様がどのように国を私物化しているか。そして、セリオス卿という偽りの英雄が、いかにしてこの国を内側から食い破ろうとしているかを訴えかける。……本物の王家の血を引く者が、命を懸けて現状の打破を乞う。それこそが、誇り高き公爵に剣を抜かせるための、唯一にして最大の『大義名分』となります」
その言葉は、机上の空論ではなく、リシェル自身が己の命を天秤にかける覚悟を示していた。アルトは息を呑み、彼女の横顔に見惚れるように沈黙した。だが、その重々しい決意の空気を、窓の外から響く金属音が無慈悲に引き裂いた。
重厚な鉄の鎧が擦れる音が外から聞こえてくる。そして、雨に濡れた石畳を踏みしめる重い軍靴の足音。
「……ですが、殿下」
部屋の入り口で、ずっと沈黙を守っていたイリーナが、苦々しい声で口を開いた。彼女は隠し部屋の外へ鋭い視線を投げかけながら、腰の剣の柄に手を置く。
「それが不可能であることは、殿下ご自身が一番よくご存じのはずです。この離宮は、建前こそ殿下の静養の場ですが、実態はダリウス王子が設えた牢獄です。周囲は完全な包囲網が敷かれ、出入りする使用人一人ひとりの身元すら厳しく調べられている。殿下が王都を離れようと一歩でも外へ出れば、即座にダリウス王子の耳に入り、追っ手が放たれるでしょう。クロイツ公爵の領地に辿り着く前に、私たちは反逆者として首を落とされます」
イリーナの指摘は、あまりにも正確で、残酷な事実だった。
王都から西のアーベント領までは、馬を飛ばしても数日はかかる。その間、追撃を振り切りながら逃げ続けることなど、この少人数では不可能に近い。
部屋に再び、重苦しい沈黙が降りた。
アルトは拳を握りしめ、己の無力さを呪った。復讐の刃を研ぎ澄ませて地獄から這い上がってきたというのに、いざ王都の中枢に潜り込んでみれば、自分たちはただの無力な駒に過ぎないのか。
セシリアのすすり泣く声だけが、静寂の中で痛ましく響いていた。
「……だったらよ」
不意に、部屋の隅から、場違いなほどに軽い、しかし凶悪な気配を孕んだ声が上がった。
壁に背を預け、退屈そうに銀のナイフを空中に放り投げては受け取っていたカインだ。彼は顔に張り付いた濡れた前髪を無造作に掻き上げると、ニヤリと唇を歪めた。
「その目障りな奴等ごと、飼い主を遠くへ放り出しちまえばいいじゃねえか。家主が留守になれば、俺達はどこへでも逃げ放題だぜ?」
カインの突拍子もない言葉に、アルトは顔をしかめた。
「カイン、冗談を言っている場合じゃない。王宮にいるダリウスを、どうやって放り出すんだ? 奴は自分の命が惜しいからこそ、こうして王都の中心に留まっているんだよ」
「だからこそだよ。自分の手で外に走り出したくなるような、特大のエサを準備してやればいいだろ」
カインはナイフを鞘に収めると、顎でユウの方をしゃくった。
「なあ、ユウ? お前の得意分野だろ、そういう陰湿な嫌がらせはよ」
全員の視線が、部屋の暗がりに佇むユウへと集まった。
ユウはエリナの肩から静かに手を離し、ゆっくりと机の前へと歩み出た。その足取りは音もなく、まるで影そのものが実体を持ったかのようだった。蝋燭の光に照らし出されたユウの瞳は、一切の感情を排した無機質なガラス玉のように冷え切っていた。
「カインの言う通りだ。ダリウスが王都に引きこもっているのが問題なら、奴が王都から出ていってもらうしかない。それも、軍の精鋭を引き連れて、大慌てで東のルーヴェルへと向かわせる」
「そんなことが可能なのですか?」
リシェルが琥珀色の瞳を見開き、身を乗り出した。
「ダリウスは疑り深く、誰の進言も安易には信じません。セリオス卿をルーヴェルから呼び寄せることはあっても、自らが危険な外へ出るなど……」
「だからこそ、誰も『進言』はしない。奴の耳に直接、情報を流し込むんだ」
ユウは机の上の地図を指先でトントンと叩いた。その動きは、盤上のチェス駒をどう動かすかを思案するプレイヤーのようだった。
「人間ってのは、他人が持ってきた事実より、自分がふと耳にした噂の方を信じたくなる。特に、自分が一番恐れている事態に関してはな」
ユウはかつて、自分が生きていた現代日本という社会を思い返していた。
真実など誰にも分からない。ただ、声の大きな情報、恐怖を煽る情報、人々の不安に寄り添うように形を変える情報が、一瞬にして世界を飲み込み、現実を改変していく「情報の暴力」。
ポスト真実と呼ばれるその恐ろしいメカニズムを、ユウはこの中世の王都で再現しようとしていた。
「俺たちが流すのは、ただの噂じゃない。ダリウスの猜疑心を根底から破壊する『特大のデマ』だ」
ユウの言葉に、アルトが息を呑む。
「デマ……? 一体、どんな……」
「『セリオスが帝国と裏で密約を交わし、ルーヴェルを独立させてダリウスを背後から暗殺する準備を整えている』。……これだ」
ユウは淡々と、しかし確かな重みを持って告げた。
「なっ……!?」
イリーナが驚愕の声を上げた。
「そんな根も葉もない嘘を、あのダリウス王子が信じるとでも言うのか!? 確かにセリオス卿は裏切り者だが、王子もセリオス卿を頼りにしているはずだ!」
「違うな、イリーナ。頼りにしているからこそ、怖いんだ」
ユウは冷酷な笑みを浮かべ、ダリウスという人間の心理を解剖し始めた。
「ダリウスは、自分が王の器じゃないことを、心の底では自覚しているはずだ。自分の権力基盤が、セリオスという虚像に乗っているだけだとな。だからこそ、奴はセリオスを重用しつつも、いつかその刃が自分の首元に向くんじゃないかと恐れている。……俺たちがやるのは、そこに一本の小さな火種を仕込むだけだ」
ユウの説明に、エリナが不安げに手を胸の前で組んだ。
「ですが、ユウ様。証拠もないのに、どうやってその噂を真実だと信じさせるのですか?」
「証拠なんかいらない。必要なのは『数』と『経路』だ」
ユウはエリナに向かって、少しだけ声を和らげたが、その内容は依然として恐ろしいものだった。
「一つの立派な証拠文書は、偽造を疑われる。だが、街の薄暗い酒場で酔っ払いがこぼした愚痴、市場で野菜を売るおばさんの世間話、そして……王宮の奥深く、ダリウスの身の回りの世話をする侍女たちの潜めた声。王都のあらゆる階層、あらゆる場所から、同時に同じ噂が聞こえてきたらどうなる?」
「……人は、それを『隠しきれなくなった真実』だと錯覚する」
リシェルが、息を吐き出すように呟いた。彼女の表情には、ユウの提案する策の底知れぬ恐ろしさへの戦慄と、それがもたらすであろう絶大な効果への期待が入り交じっていた。
「その通りです、殿下」
ユウは深く頷いた。
「ダリウスは、自分の足元で火の手が上がっていると錯覚する。そして、自分が暗殺される前に、先手として自らの精鋭を引き連れてルーヴェルへと急行する。……奴が王都を空にしたその瞬間こそが、俺たちが西へ向かう唯一の扉が開く時だ」
部屋の中に、再び静寂が訪れた。
だが、それは先程までの絶望的な沈黙とは違っていた。ユウの提示した「偽報」という名の見えない刃が、彼らの前を塞いでいた分厚い壁に、確かな亀裂を入れたのだ。
「……恐ろしい策ですね、ユウ」
リシェルは、感嘆とも恐怖ともつかない息を漏らし、ゆっくりと立ち上がった。彼女は地図の上の「王都」と「ルーヴェル」を交互に見つめ、やがて力強く頷いた。
「ですが、これほど今の私たちの状況に適した策はありません。兄の疑心暗鬼を武器にする……皮肉なものですね。自らの手で国を腐らせてきた彼自身が滅ぶというのですから」
「問題は、どうやってその噂を王都中にバラ撒くかだ」
アルトが現実的な課題を口にする。
「僕たちは、この王都で表立って歩き回ることはできない」
「そこは俺とカインの仕事だ」
ユウは親指で背後のカインを指した。
「王都の地下……スラムや裏社会、酒場や娼館とか。そういう泥臭い場所に、俺たちのようなはぐれ者が一番入りやすい。金貨を数枚握らせて、尾ヒレのついた噂を流すだけでいい。下層の連中は、上に立つ権力者のスキャンダルが大好物だからな。火はあっという間に燃え広がる」
「へっ、任せな。王都のネズミを踊らせるくらい、朝飯前だぜ」
カインが下卑た笑いを浮かべてナイフの柄を叩いた。
「だが、下層の噂だけでは、王宮の奥深くにいるダリウスの耳には届きにくい」
ユウは視線を、リシェルとイリーナ、そしてエリナへと向けた。
「王宮の内部……侍女や下働き、貴族たちの取り巻きの間で噂を広める必要がある。そこは、あんたたちの領域だ」
「承知いたしました」
リシェルは即答した。
「私には、ダリウス兄様に不満を持つ者や、金で動く者たちのささやかなネットワークがあります。イリーナを通じて、彼らに『秘密の話』として噂を流し込みましょう。……王宮の壁には耳がある。一度流れた噂は、壁を伝って必ず兄様の寝室まで届きます」
「私も、やります!」
不意に、高く澄んだ声が響いた。
全員の視線が、床に座り込んでいたセシリアへと集まる。彼女は涙で赤く腫らした目をこすりながら、よろよろと立ち上がった。その細い足はまだ震えていたが、瞳の奥には、絶望の底から這い上がってきた者だけが持つ、小さな、しかし決して消えない怒りの炎が灯っていた。
「セシリア……ダメだ、お前はここで休んでいるんだ!」
アルトが慌てて駆け寄り、妹の肩を抱こうとしたが、セシリアは首を横に振ってそれを拒んだ。
「いいえ、兄様。私もルーヴェルの娘です。……レオニード兄様を殺し、お父様の領地を汚したセリオスを、私は……絶対に許さない」
セシリアの言葉には、かつての無邪気な響きは消え失せていた。そこにあるのは、血塗られた真実を受け入れ、自らも戦いの渦中に身を投じようとする強い決意だった。
「私なら、この離宮の下働きのふりをして、他の侍女たちに近づけます。……エリナと一緒に、噂を広めるお手伝いができます。どうか、私にも戦わせてください!」
セシリアの悲痛な、しかし力強い懇願に、アルトは言葉を失った。
守るべき無垢な妹のままでいてほしかった。だが、ユウが突きつけた現実が、彼女を否応なく変えてしまったのだ。アルトは自分の無力さに奥歯を噛み締めたが、同時に、立ち上がった妹の姿に、ルーヴェルの血の誇りを見た気がした。
「……分かりましたわ、セシリア様」
リシェルが静かに歩み寄り、セシリアの冷え切った両手を優しく、しかし力強く包み込んだ。
「あなたのその怒り、無駄にはいたしません。王宮の人間は、あなたのように無害で弱々しく見える少女の言葉ほど、何の疑いもなく信じ込むものです。……ですが、決して無理はしないでくださいね。危険を感じたら、すぐにエリナと共に身を隠すのです」
「はい……ありがとうございます、リシェル殿下」
セシリアは深く頭を下げた。
「よし、役割は決まったな」
ユウが手を叩き、全員の意識を再び作戦へと集中させた。
「明日から王都と王宮の両方から、噂を広げる。数日後には、王都中が『セリオスの裏切り』で持ちきりになるはずだ。ダリウスはそれに耐えきれず、軍を動かすことになるだろう。……ダリウスが王都を出発した日の夜に、この離宮を脱出して西へ向かおう」
「……分かりました。すぐに手配を始めましょう」
リシェルはイリーナに頷きかけ、イリーナもまた、騎士としての鋭い表情に戻って深く一礼した。
「アルト、カイン。俺たちは街へ出るぞ」
ユウが黒い外套を羽織りながら、アルトに声をかけた。
「ああ。分かった」
アルトはセシリアに向き直り、その両肩をしっかりと掴んだ。
「セシリア。……ごめんな、こんな辛い真実を背負わせてしまって。でも、必ず終わらせる。お前がもう一度、ルーヴェルの青空の下で笑えるようにしてみせる。だから……それまで、生き延びてくれ」
「兄様も……どうか、ご無事で。無茶はしないでください」
セシリアは、アルトの胸に顔を埋め、最後に一度だけ強く抱きしめた。
エリナもまた、ユウの前に進み出て、深く頭を下げた。
「ユウ様……どうか、アルト様をお願いいたします。そして、ユウ様ご自身も、必ずお戻りください」
「ああ。約束する」
ユウは短く答え、エリナの頭にポンと軽く手を置いた。その不器用な優しさに、エリナは少しだけ救われたような顔をして微笑んだ。
「案内します。ついてきてください」
イリーナが壁の向こうに隠された重厚な石扉を操作し、静かに開いた。
隙間から、外界の冷たい夜風と、湿った雨の匂いが一気に流れ込んでくる。王都の腐敗した空気の匂いだ。
「……アルト。あんたの兄貴の無念、王都中の噂にして、あの愚かな王子の耳まで届けてやりな。……あとの工作は、私と殿下で引き受けるわ」
イリーナはアルトの目を真っ直ぐに見据え、力強く言った。
「恩に着る、イリーナ。リシェル殿下のことも頼んだぞ」
アルトは深く頷き、再び外套のフードを目深に被って「亡霊」としての顔を作った。
ユウを先頭に、カイン、そしてアルトの三人が、暗い隠し通路へと足を踏み入れる。
背後で重い石扉が音を立てて閉まり、再び離宮の静寂が戻った。
窓の外では、王都の汚れを洗い流すかのような雨が、勢いを増して降り続いていた。それは、これから王都を飲み込むことになる、目に見えない情報の「嵐」を予感させる、不吉な、しかし確かな反撃の号砲であった。
英雄の化けの皮を剥ぎ、王子を王都から追放するための、最初の嘘という名の毒が王都へと放たれていく。




