虚像
離宮の隠し部屋。厚い石壁に囲まれたその空間は、外の世界の喧騒から切り離され、ただ重苦しい沈黙と、再会の熱だけが漂っていた。
アルトの腕の中で、セシリアは子供のように肩を震わせて泣き続けている。その背中をさするアルトの目からも、溢れる涙が止まらない。かつてルーヴェルの屋敷で共に過ごした穏やかな日々。それが戦火によって無残に引き裂かれたあの日から、アルトは一度も心安まる眠りについたことはなかった。
今、腕の中に感じる妹の体温。それは復讐の修羅として己を殺し続けていた彼にとって、救いであると同時に、これ以上ないほど重い「守るべき枷」でもあった。
「……よかった。本当によかった、セシリア……。生きていてくれた、それだけで十分だ」
アルトが何度も繰り返す言葉に、セシリアは少しだけ顔を上げ、涙に濡れた瞳で兄を見つめた。その瞳には、まだ何も知らないがゆえの、無邪気で切実な希望が灯っていた。
「兄様……。私、ずっと怖かったです。でも、信じていました。兄様なら、レオニード兄様なら、きっと迎えに来てくれるって。……セリオス兄様も、きっと喜んでくださいますよね? 今、セリオス兄様はルーヴェルで悪い帝国の人たちと戦って、みんなを、街を守っていらっしゃるのでしょう? 兄様がここで私を助けてくださったと知れば、きっとすぐに駆けつけて……」
セシリアの屈託のない言葉が、鋭い刃となってアルトの胸を刺した。
アルトの指先が、ぴくりと止まった。抱きしめていた腕から力が抜け、彼はセシリアの顔を見ることができずに視線を落とした。あまりに純粋な、家族への信頼。それがどれほど残酷な裏切りの上に成り立っているのかを、彼はどう伝えればよいのか分からず、喉の奥が熱く詰まった。
「セシリア。それは……」
本当のことを言えば、彼女の心は完全に壊れてしまうかもしれない。憧れの兄が、尊敬していた長兄レオニードを謀殺し、家を、領民を、家族を帝国に売り払った張本人だなんて。アルトは唇を血が出るほど噛み締め、言葉を飲み込もうとした。
だが、その背後に冷徹な、しかし現実を突きつける声が刺さった。
「アルト。そんな『嘘』で彼女を繋ぎ止めて、どうする。いつか奴と対面した時、彼女が笑って駆け寄って、そのまま刺されるのを許すつもりか?」
ユウだった。彼はエリナの肩を抱いたまま、感情を排した無機質な目でアルトを見ていた。その声には、一切の妥協を許さない現実主義が宿っている。
「ユウ、今は……! 彼女は今、やっと再会できたばかりなんだ。これ以上の衝撃に耐えられるわけがないだろう!」
「耐えられるかどうかじゃない。耐えなきゃ死ぬ」
ユウは一歩、二人に歩み寄った。その足音が、冷たく床を叩く。
「リシェル殿下のおっしゃる通り、ここは華やかなだけの鳥籠だ。外には奴の手先がうじゃうじゃいる。敵を味方だと勘違いしたまま、知らないうちに後ろから刺されたいのか?」
ユウの冷たい視線がセシリアへと向けられる。その瞳には冷たいが陰りがなく、偽りは告げている者の様子にはみえない。
「……セシリア。あんたが今も英雄だと思っているセリオスは、俺たちを逃がすために盾になったレオニードを、後ろから撃ち殺した男だ」
「……え……?」
セシリアの時間が、音を立てて止まった。涙で潤んだ瞳が、理解できない異物を突きつけられたようにユウを射抜く。
「ユウ! 言い方があるだろう!」
アルトが激昂し、ユウの胸ぐらを掴みかけようとする。だが、それを制したのは、窓辺に立つリシェルの静かな、しかし凛とした声だった。
「辞めなさい、アルト。……ユウの言い方は少々乱暴ですが、それは真実です」
リシェルは、琥珀色の瞳をセシリアへと向け、慈しむような、それでいて冷徹な響きを込めて告げた。
「この王宮という場所では、無知はそのまま死に直結します。セシリア、あなたがセリオス卿を信じていらっしゃる限り、彼からの甘い誘い文句一つで、私たちの計画も、あなた自身の命も……そして、目の前にいらっしゃるアルトの命までもが、簡単に霧散してしまいますわ。……それでよろしいのですか?」
アルトは、力の抜けた手でセシリアの両肩を掴んだ。視界が滲む。彼は自分自身の喉を切り裂くような痛みを感じながら、言葉を紡いだ。
「……セシリア、聞いてくれ。ルーヴェルで起きたことは、単なる不運な敗北じゃないんだ。……セリオスは、前線で戦うレオニード兄上たちに届くはずの食料や武器を、わざと止めた。兵たちが飢えて、武器も尽きて動けなくなったところを、奴が裏で手を引いた自由の盾に襲わせた」
「嘘……。そんなの、嘘ですわ。セリオス兄様が、そんなことなさるはずありません。だって、兄様はいつも私に優しくしてくださって、私が誕生日に欲しいと言ったリボンのことも、ずっと覚えていてくださって……」
「その優しさも、すべて計算だったんだ!」
アルトは、セシリアの肩を揺さぶった。
「兄上――レオニード兄上は、最期の瞬間までセリオスの裏切りを信じられずにいた。驚愕して、絶望して……それでも、僕たちを逃がすために、たった一人で帝国軍へ突撃していったんだ。セリオスは、兄上の死を確認してから、あたかも自分が軍を立て直したように見せかけて、王都へ偽りの報告を送った。……奴は、家族の命を代償にして、今の『東の英雄』という地位を手に入れた、血塗られた裏切り者だ!!」
アルトの叫びは、悲鳴のようだった。
セシリアの身体から、すべての力が抜けた。彼女は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。喉の奥から、嗚咽とも叫びともつかない、獣のような声が漏れる。
「……ぁ……あぁ……っ!!」
彼女の脳裏には、かつて優しく頭を撫でてくれたセリオスの手が、今は血に染まった怪物の爪のように映っていた。信じていた世界が音を立てて崩れ去り、足元に広がるのは底の見えない闇。彼女はただ、自分の細い肩を抱きしめて震えることしかできなかった。その絶望の深さは、隣で見守るエリナやイリーナでさえ、声をかけるのを躊躇うほどに痛々しいものだった。
「……悪い。再会の感動をぶち壊した。だが、これが現実だ」
ユウが、わずかに声音を和らげながらも、淡々とフォローを入れた。
「セシリア。あんたが信じていいのは、あんたを逃がすために死んだレオニードと、あんたを助けるために地獄から這い上がってきたアルトだけだ。……外の奴らがセリオスをどう褒めちぎろうが、それは全部作り話だ。あんたの兄貴は、ここにいるアルト一人だ」
セシリアは床に伏し、「レオニード、兄様……」と、亡き長兄の名を掠れた声で何度も呼び続けた。
だが、その指先は、敷き詰められた絨毯を白くなるほど強く握りしめていた。ただ悲しみに打ちひしがれているだけではない。かつてのルーヴェルの誇り高き娘としての血が、裏切り者への激しい「怒り」として、絶望の底で静かに灯り始めていた。
「……さて。厳しい現実をお教えしたところで、次は私たちがどのように動くべきか、具体的なお話をいたしましょう」
リシェルが空気を一変させるように、重厚な机の上に一束の地図を広げた。その優雅な動作には、無駄な感傷を一切排除した冷徹な決意が宿っていた。琥珀色の瞳は、すでに「次の一手」を鋭く見据えている。
「アルト。あなたが彼女をこの鳥籠から連れ出し、もう一度ルーヴェルの空の下で胸を張らせたいと願うのでしたら、単にここで隠れているだけでは叶いません。……偽りの英雄を玉座から引きずり下ろし、この王都の歪んだ均衡を壊さなければ」
リシェルは手に持っていた二つの封書を机のうえに置いた。そのうちの一つを広げると机上には地図がひろがる。そして、地図の中央、王都の西側に位置する、山脈に守られた広大な領地を指差した。
「今の王国で、この腐りきった現状を覆すだけの武力と声望を持ち、かつ中立を保っている唯一の存在。……西の公爵、クロイツ・アーベント辺境伯を味方につけなければなりません。公爵が率いる軍団。彼らの支持さえあれば、セリオスやダリウスも、安易にこちらへ手出しはできません」
「クロイツ公爵……。父上が、よくそのお名前を口にしていた。王国で最も信頼できる武臣で、唯一『ルーヴェルの盾』と並び称されるべき御方だと」
「ええ。ですが、公爵は長年、王宮の泥沼のような政争を嫌い、領地に引きこもっていらっしゃいます。頑固な公爵を動かすには、言葉だけでは足りません。……セリオス卿の裏切りを証明する、物理的な、そして揺るぎない『証拠』が必要です」
リシェルは机の上の別の、蝋封された報告書をアルトたちに示した。その封筒は、すでに開封された痕跡があり、中からは何枚かの羊皮紙が顔を覗かせていた。リシェルはその中の一枚を指先で引き抜き、滑らかな黒檀の机の中央へと滑らせた。
「これは、私の協力者たちが王宮の奥深く、あるいは文書庫の闇の中から命懸けで集めてきた情報です。ダリウス兄様とセリオス卿の間で交わされた私信の写し、そして、特定の商団を無検閲でルーヴェル領へ通すように命じた、関所の通行記録の束です」
アルトは身を乗り出し、その羊皮紙に目を落とした。そこには確かに、ダリウスの署名と、王家の印章の写しが記されている。
「この商団……『黄金の百足』か。聞いたことがある。表向きは異国の珍しい香辛料や絹を扱う手広く商いをしている連中だが、裏では帝国と太いパイプを持っているという噂の絶えない商会だ」
アルトが険しい顔で呟くと、リシェルは静かに頷いた。
「ええ。セリオス卿は、この商団を連絡役として使い、帝国との間で物資や資金、そして情報のやり取りを行っているのでしょう。兄様は、セリオス卿の功績を独占し、彼を自身の最強の剣として縛り付けるために、このような特権を与えてしまった。」
リシェルの声には深い悔しさが滲んでいた。
彼女は琥珀色の瞳を伏せ、微かに震える指先で羊皮紙の端をなぞった。
「これだけでは、セリオス卿が帝国と完全に内通し、ルーヴェルを売り渡したという『決定的な証拠』にはなりません。ダリウス兄様が便宜を図ったという事実は証明できても、それが反逆の証明には結びつかない。クロイツ公爵という、岩のように頑固で誇り高い武神を動かすには、ただの紙切れの束では弱すぎるのです」
リシェルはそう言い捨てると、悔しさを押し殺すように机に拳を置いた。その視線は、ただの書類の束ではなく、その裏で嘲笑っているであろう裏切り者たちの姿を射抜いているようだった。
重苦しい沈黙を破ったのは、低く、しかし殺気を孕んだアルトの声だった。
「……つまり、僕たちが掴まねばならないのは、奴らが決して言い逃れできない『実物』だということですね」
アルトの言葉に、リシェルは腰に帯びた剣の柄に無意識に手をかけ、強く握りしめた。
「ええ。武人として、背後からの謀略で家を潰されたあなたの無念は、察するに余りあります。……ですが、戦況をひっくり返すには、敵を逃がさぬ包囲が必要です。今は、この紙が私たちの唯一の武器。泥を啜ってでも、奴らの首を撥ねるための機を待つべきです」
隠し部屋に漂う空気は、先ほどまでの悲鳴のような絶望から、静まり返った陣中さながらの鋭い「闘志」へと変質していく。床に伏していたセシリアが、震える手で涙を拭い、ゆっくりと、だが力強く顔を上げた。その瞳に宿った光は、もはや庇護を待つだけの少女ではなく、亡き兄の誇りを守るために戦列に加わらんとする、一人の修羅の萌芽であった。




