真実
王宮の北側にひっそりと、しかし厳重に隔離された西の離宮。
窓を叩く雨脚は夜が深まるにつれて激しさを増し、石造りの壁を濡らすその音は、まるで外界との繋がりを断ち切っているようだ。室内に漂うのは、高価な香木と古い羊皮紙が混じり合った、停滞した空気。揺れる燭台の炎が、壁に長い影を落としては歪ませている。
その部屋の中央。アルトは重厚な黒檀の椅子に深く腰を下ろし、震える拳を膝の上で強く握りしめていた。
彼の指先は白く強張り、節々が浮き上がっている。かつての貴公子としての優雅さは、過酷な放浪と復讐の炎によって焼き尽くされていた。泥と血を啜って生き延びた者だけが持つ、昏く、鋭い光がその瞳に宿っている。
正面に座るのは、琥珀色の瞳をした王女リシェル。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、机に置いた手を一寸も動かさず、静かに、だが逃げ場のない視線でアルトを射抜いていた。
「……信じがたい話ですね」
リシェルは、手元にあった革装の書物をゆっくりと閉じ、机の上へと置いた。乾いた音が、張り詰めた静寂の中に不気味なほど大きく響く。
「東の英雄、ルーヴェルの守護者とまで称えられているセリオス卿が、実の兄を売ったというのですか?」
彼女の声は、極寒の湖の表面を滑るような冷静さを保っていた。しかし、その指先が書物の端を僅かに強く押さえているのを、アルトは見逃さなかった。彼女もまた、王都に溢れる「美しすぎる英雄譚」に、言葉にし難い違和感を抱き続けてきた一人なのだ。
「信じられないのも無理はない……。僕だって、そう思いたくはない」
アルトは重く口を開いた。言葉を発するたびに、脳裏にはあの日の光景――泥にまみれ、絶望の中で散っていった兵たちの断末魔が鮮明に蘇る。彼は一度、天を仰ぐように目を閉じ、こみ上げる嗚咽を飲み込んだ。
「父が亡くなった後、ルーヴェルを実質的に支えていたのは長兄レオニードでした。……紛争の最中、セリオスは一度も最前線には出なかった。奴の役割は、後方からの物資供給。都市の守護。……最前線の兵たちにとって、奴こそが生命線だったんだ。皆、血を分けた兄弟の背中を、預けるように信じていた」
アルトはそこで一度言葉を切り、机に広げられた地図の「ルーヴェル領」を、爪が食い込むほど強く指差した。
「だが、帝国軍の猛攻が最高潮に達したその瞬間、命綱は無慈悲に断ち切られた。食料が届かず、矢や剣も奪われた。飢えと疲労で動けなくなった僕たちの背後に現れたのは、自由の盾と、帝国軍だった」
リシェルが微かに息を呑み、胸元を掌で押さえた。背後に控えるイリーナの瞳には、武人としての深い戦慄と嫌悪が走り、彼女の手は無意識のうちに剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめている。
「奴は最初から帝国と野盗の群れと繋がっていた……。兄上は、絶望的な包囲網の中で、ただ僕の顔を見て、微笑んだんだ」
アルトの声が、憎しみと悲しみで掠れる。彼は視線を落とし、滴り落ちる自らの血が手の平を濡らすのをぼんやりと見つめた。
「僕を逃がすために、レオニード兄上はたった一人で帝国軍の中へと突撃した。……『お前が、次なる獅子となれ』。それが、兄上の最期の言葉だった。セリオスが今、この王都で英雄として持て囃されているのは、そうやって身内の命を売り飛ばしたからに過ぎない。……今のあいつの地位は、家族の死体の上に築かれているんだ」
部屋を支配したのは、重苦しい沈黙だった。
アルトが語った「兵站の遮断」という裏切りは、正面から戦って敗れることよりも、武人にとってはるかに卑劣で、許しがたい不名誉だった。
「……セリオス卿から王都へ届く戦報は、あまりに完璧すぎました」
リシェルが、自らの記憶を紐解くように静かに語り出した。彼女は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。外の世界を見つめるその背中は、王女という身分に押し込められた孤独を物語っている。
「崩壊しかけた前線を一人の若き将が立て直し、最小限の犠牲で食い止めた『奇跡』。兄や重臣たちは、それを福音としていましたが……私はその清潔すぎる功績に、言いようのない薄気味悪さを感じていたのです。戦場に必ずあるはずの『不測の事態』が、彼の報告には欠片も存在しなかった。……それは物語であって、現実ではなかった」
その言葉を受け、壁に背を預けていたカインが、皮肉げな笑みを浮かべて鼻で笑った。
「そりゃそうさ。自分で火を付けて、自分で消したんだからな。泥を啜ってきた俺たちからすりゃ、あいつの武勇伝なんてのは、ただの血塗られた商談の目録だぜ」
重苦しい沈黙が部屋を支配する中、ユウがゆっくりとリシェルへと歩み寄った。
「リシェル殿下。あんたは分かっているはずだ」
ユウの声は、低く、逃げ場を許さない鋭さを持っていた。彼はリシェルの背中に向けて、言葉の刃を突きつける。
「セリオスが王都に牙を向ける時、真っ先に食い殺されるのはあんたの兄――ダリウスだ。そして、ここにいるあんたも無事じゃない。奴が狙っているのは、英雄の座じゃない。この王国のすべてだ」
リシェルはゆっくりと振り返り、ユウの瞳を射抜いた。ユウはさらに一歩踏み込み、その琥珀色の瞳を見つめる。
「俺たちがここにいるのは、奴が築き上げたもの砕くためだ。……王女殿下、あんたの力を貸せ。このまま鳥籠の中で殺されるのを待つか、それとも俺たちと手を組んで生き延びるか。……選ぶのはあんただ」
リシェルは、琥珀色の瞳を閉じた。
自分が王宮内で「不浄な血」と疎まれ、この離宮という名の牢獄に押し込められ、ただ王国が内側から腐り落ちていくのを待つだけの日々。彼女はゆっくりと目を開け、そこに宿る激しい意志をユウに突きつけた。
「……貴方たちの言う通りですね。私は、ただ嵐が過ぎるのを待つだけではありません。……アルト・ルーヴェル・レイヴァルト。貴方が本当に真実を暴くつもりなら、私も協力しましょう」
リシェルは窓の外から視線を戻すと、琥珀色の瞳に慈しみのような、どこか物悲しい光を湛えてアルトを見つめた。
「さて⋯⋯、貴方たちがここまできた報酬を、差し上げなければなりませんね。……イリーナ、案内を」
その言葉に、部屋の隅で彫像のように控えていたイリーナが、静かに、しかし力強い足取りで一歩前に出た。彼女はリシェルに深く一礼すると、壁際に並ぶ巨大な書棚へと手をかける。
「……は。こちらへ。足元が暗いので、気をつけてください」
イリーナが特定の古い背表紙を引くと、重厚な書棚が地響きを立てることなく、滑らかに横へとスライドした。そこには、王宮の公式な図面には決して記されることのない、狭く暗い石造りの回廊が口を開けていた。
「イリーナ、これは……」
アルトが困惑を隠せずに問いかけると、イリーナは振り返らずに、ただ一言「来ればわかる」とだけ告げ、壁に備え付けられた燭台から火を移した松明を掲げた。
一行は、リシェルをその場に残し、隠し通路の奥へと足を踏み入れた。
回廊の空気はひんやりと湿り、外の激しい雨音が石壁を通して微かな振動として伝わってくる。松明の炎が揺れるたび、壁には巨大な怪物の影が踊り、アルトの不安を煽った。
アルトは自分の胸に手を当てた。早鐘を打つ鼓動が、静寂の中で耳障りなほど大きく響いている。あの日、ルーヴェルの燃え盛る炎の中で、すべてを失ったはずだった。守るべき者たちは皆、戦火の露と消えたのだと、そう自分に言い聞かせて心を殺してきた。そうでなければ、復讐という狂気の中で正気を保つことなどできなかったからだ。
(もし、見間違いだったら。もし、ただの残酷な夢だったら……)
そんな考えが頭をよぎり、アルトの足が僅かに竦む。
そんな彼の背中を、隣を歩くユウが黙って軽く叩いた。ユウの無表情な横顔は相変わらずだったが、その指先もまた、僅かに震えているのをアルトは見逃さなかった。
通路は迷路のように幾度も折れ曲がり、やがて突き当たりにある一枚の、古びたが手入れの行き届いた木製の扉の前で止まった。
イリーナは立ち止まり、扉に手をかけたまま、アルトを振り返った。その瞳には、先程までの騎士としての鋭さはなく、一人の人間としての温かな光が灯っていた。
「……アルト。お前たちの帰りを、ずっと待ち続けていた者たちがいる。扉を開ける心の準備はいいか?」
「……ああ。開けてくれ、イリーナ」
アルトが掠れた声で答えると、イリーナは静かに、ゆっくりと扉を押し開いた。
小さな蝶番の音が響く。
扉の向こう側から溢れ出してきたのは、回廊の冷気とは正反対の、ランプの柔らかな光と、温かな生活の匂いだった。
部屋は簡素ながらも、清潔なリネンと数冊の本、そして生けられたばかりの野花で整えられていた。その中央、寝台の脇に置かれた椅子に座り、一心に祈るように手を組んでいた女性が、扉の音に弾かれたように顔を上げた。
「……ア、ルト様……?」
震える声が静寂を破った。
水色の質素なドレスを纏い、しかしその凛とした佇まいは変わらない女性――エリナが、驚愕に目を見開いて立ち上がった。その拍子に、彼女が膝に置いていた編み物が床に滑り落ちる。
そして、エリナの陰に隠れるようにして座っていた少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……に、兄様……? 本当に、兄様なの……?」
鈴を転がすような、しかし涙に濡れて掠れたその声。
アルトの妹、セシリアだった。彼女の大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まり、頬を伝って零れ落ちる。
「セシリア! それに、エリナ……っ!」
アルトの声が裏返り、彼は膝の震えも忘れて、弾かれたように部屋の中へと駆け込んだ。
「兄様! ああ、兄様……っ!」
セシリアが、溜まっていた想いを爆発させるように椅子から飛び出し、アルトの胸へと飛び込んできた。
アルトはその小さな身体を、壊れそうなほどに、しかし決して二度と離さないという強い意志を込めて抱きしめた。腕の中に感じる妹の細い肩の震えと、確かな体温。それは、地獄から戻ってきたアルトが、初めて手にした本物の「現実」だった。
「ああ、セシリア……。ごめん、遅くなって……! 生きて、生きていてくれたんだね……!」
泣きじゃくる妹を抱きしめ、アルトの目からも熱いものが溢れ出した。復讐のために凍りつかせていた心が、その温もりによって溶かされ、激しい痛みを伴って拍動を始める。
その傍らで、エリナは震える唇を噛み締め、アルトの背後に立ち尽くしていた「彼」の姿を捉えていた。
「ユウ……様……っ!」
エリナは、堰を切ったようにユウの胸へと走り、しがみついた。
常に冷静沈着で、感情を盤上の駒のように扱うユウ。だが、自分を呼び、縋り付くエリナの温もりを感じた瞬間、その鉄仮面のような表情が脆くも崩れ去った。軍略を巡らすためにあったはずの手が、エリナの生存を確かめるように、震えながら彼女の背に回される。
「……エリナ。無事、だったか」
ユウの声は、いつになく低く、震えていた。彼は不器用ながらも、エリナの細い背中に手を回し、その肩に顔を埋める。
地獄のような戦場を生き抜く中での、唯一の救いがそこにあった。
「信じていました……。ユウ様なら、アルト様をお守りして、必ず戻ってきてくださると……ずっと、ずっと祈っていました……!」
エリナの嗚咽がユウの胸に染み込んでいく。ユウはその涙を拭うこともせず、ただ静かに彼女を抱き留め、自分の心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされているのを自覚していた。
入り口でその様子を静かに見守っていたイリーナは、そっと視線を外し、二人を邪魔しないように少しだけ距離を置いた。彼女の口元には、厳しい騎士の顔を脱ぎ捨てた、柔らかな微笑が浮かんでいた。
そっと部屋へと遅れて入ってきたリシェルはその光景を、慈しみを湛えて見守っていた。
「私の部下が密かに二人を救い、ここに匿ってきました。敵も行方が分からないのか二人も亡くなったと報告をしていましす」
リシェルが静かに、だが確固たる意志を持って告げる。
「アルト、そしてユウ。貴方たちが守るべきものは、もう過去の恨みだけではありません。……さあ、顔を上げなさい。ここからが本当の戦いです」
アルトはセシリアを、ユウはエリナを。それぞれが最も大切な存在をその腕に感じながら、リシェルを仰ぎ見た。
「リシェル殿下……。僕たちはこれから、どう動くべきでしょうか」
アルトの問いに、リシェルは再び地図の前へと戻り、表情を厳しくした。
「今の王国で、この腐敗を正せる唯一の存在……西の武神、クロイツ・アーベント公爵を味方につける必要があります。公爵が動けば、セリオスもダリウス様も手出しはできませんわ。……ですが」
リシェルは窓の外、等間隔で歩く近衛騎士たちの松明を指差した。
「私はこの離宮に囚われ、貴方たちは死人。……王都中をダリウス様の目が覆っている今、西へ向かうための扉はどこにもありません。……さて、この盤面、貴方ならどう動きますか?」
リシェルの視線が、エリナの肩を抱いたままのユウへと向けられた。
ユウは静かに目を細め、王宮の闇の向こう側を見据えた。再会という奇跡を糧にして、反逆の物語は、次なる狡猾な一歩――「情報の戦い」へと向かって加速し始めていた。




