鳥籠
王宮の搬入口は、早朝から怒号と家畜の鳴き声、そして荷車の軋む音が入り混じる混沌の中にあった。
その喧騒の中心で、マルセル・ガニエは顔を真っ赤にしながら、近衛騎士団の補給担当官に食ってかかっていた。
「ええい、話を聞けと言っているだろう! この最高級のワインは、ダリウス様が離宮のために特別に許可されたものだぞ! 万が一にも傷があれば、お前たちの首が飛ぶだけでは済まん。私の商会の名誉にかけて、一歩も引かんぞ!」
マルセルは、香油で整えられた自慢の顎髭を、千切れんばかりの勢いで何度も触りながら叫び続けていた。その目は泳ぎ、足元は微かに震えているが、小心ゆえの必死さが、図らずも真に迫った傲慢な商人の演技となっていた。
「分かった、分かったから静かにしろ、ガニエ! 検品は後回しだ、さっさと奥へ運べ!」
騎士が手を振ると、マルセルはわざとらしく鼻を鳴らし、御者台に飛び乗った。その馬車が倉庫の陰に入り、騎士たちの視線が外れた刹那。
「……今だ」
ユウの低い合図とともに、三つの影が荷台から飛び出した。
マルセルは一瞬だけ、顎髭をいじりながら震える視線を彼らに向けたが、すぐに「働くんだ、このノロマども!」と周囲に聞こえるように怒鳴り声を上げ、荷下ろし場の中央へと馬車を進めていった。
ユウ、アルト、カインは、積み上げられた木箱の間を縫うようにして、石造りの通路へと滑り込んだ。背後でマルセルが「弁償しろ! 傷がついている!」と再び騒ぎ始める声が聞こえた。彼なりの、命懸けの攪乱だった。
通路の奥には、陽の光の届かない、湿り気を帯びた石壁の迷路が続いていた。華やかな王宮の表舞台を支えるための、血管のような裏通路。
「……父上と何度か、ここへ来たことがあるが」
先を行くユウの背中を見ながら、アルトが押し殺した声で漏らした。周囲を見渡すアルトの瞳には、かつての記憶をなぞろうとする困惑の色がある。
「当時は、ただ広いだけの退屈な場所だと思っていた、こんな裏路地まで意識したことはなかった。記憶が、まるで役に立たないな」
「気にするな。昔の記憶が完璧だったら、今頃俺たちの出番はないからよ」
カインが音もなく歩みを進めながら、肩をすくめた。彼の耳は、常に前方の空気の振動を、鼻は近衛騎士たちの金属鎧特有の匂いを嗅ぎ取っている。
「ここから先は、俺の鼻と、ユウの頭を信じな。……おっと」
カインが素早く手を上げ、壁に身を寄せる。
数秒後、数メートル先の十字路を、金属音を響かせながら巡回の近衛騎士たちが通り過ぎていった。彼らの足取りには緊張感はなく、王都の平和を疑わない、弛緩した空気が漂っている。
「……歩数から計算して、次の角を右だ」
ユウが、クロウから渡された地図を脳内で展開し、冷徹に告げる。
「かつてここがどんな場所だったかは関係ない。今のここは、ただの敵陣だ。……アルト、油断するなよ」
「分かっているよ、ユウ。……大丈夫だ」
アルトは短く応じると、自身の腰にある剣の感触を確かめた。
地下の連絡路を抜け、三人は王宮の北側に位置する、隔離された一角へと辿り着いた。
周囲は高い石壁に囲まれ、その上には鋭い鉄柵が備え付けられている。庭園は手入れが行き届いているが、咲き誇る花々さえもが、囚われた者を監視しているかのような、不気味な静謐さを湛えていた。
「あれが、隔離されている離宮か。……入り口に騎士が二人。クロウが言っていた通りだな」
壁の陰から、カインが建物の入り口を見据える。そこに立っている二人の近衛騎士は、他の巡回とは違い、周囲を警戒する振りをしながらも、特定の方向へ視線を送ることはなかった。
ユウが懐から、クロウに渡された小さな銀のメダルを取り出し、一瞬だけ陽の光に反射させる。
それを見た騎士の一人が、小さく頷き、槍の石突きで地面を一度だけ叩いた。それが「通れ」という合図だった。
「潜入の『糸口』は、思ったより深く根を張っているようだな」
ユウが呟き、三人は堂々と、しかし迅速に騎士たちの脇を通り抜けた。騎士たちはまるで見えない亡霊でも通り過ぎたかのように、微動だにせず正面を見据えていた。
離宮の重厚な扉を開け、三人は内部へと足を踏み入れた。
そこは、王族の住居らしい豪華さはあるものの、どこか生命力に欠けた、冷たい静寂に支配された空間だった。
踏み込んだ先の部屋の奥。
腰まで届く水色の髪は一筋の乱れもなく整えられ、装飾を極限まで削ぎ落としたドレスは純白を纏っている。その佇まいは、彼女の気高さをごく自然と物語っている。
王族としての格式を背負いながらも、どこか世俗の虚飾を拒絶するような、芯の通った“静かな威厳”がそこにはある。
三人が一歩踏み出した、その瞬間だった。
音もなく、風が巻いた。女性の傍らから、藍色の影が弾かれたように飛び出してくる。
高い位置で結い上げられた漆黒の髪は、激しい動きの中でも揺らぐことなく、計算された静止を保っている。
纏うのは、深い藍色の軽装鎧。白銀のラインが走るその意匠は、実戦のための剛健さを備えていた。
細身ながら鋼のようなしなやかさを感じさせる体躯。抜き放たれた剣は、一切の装飾を排し、ただ“標的を屠る”という目的に研ぎ澄まされていた。
「――そこまでだ」
冷徹な声とともに、銀色の閃光がアルトの視界を横切る。
騎士の剣先は、アルトの喉元を寸分の狂いもなく制している。
騎士の瞳は鋭利だが、決して荒ぶることはない。ただ真っ直ぐに、守るべき主の安寧だけをその視界に捉えている。そこにあるのは、曇り一つもない絶対的な忠誠心だった。
「ダリウスの刺客か。……あるいは、セリオスか?」
騎士は剣を構えたまま、低い声で威嚇する。その殺気は、後方に控えるカインをして「こいつ、やりやがる」と舌を巻かせるほどに鋭かった。
「待ってくれ。僕たちは、刺客じゃない」
アルトは両手を広げ、武器に手をかける意思がないことを示した。しかし、騎士の警戒は続く。
「武器を持っていないからといって、敵ではない理由にはならない。……答えろ。貴様らは、何者だ」
騎士が一歩踏み出す。その殺意を、背後の女性が静かに制した。
「……落ち着きなさい、イリーナ」
その声に、騎士――イリーナと呼ばれた女性は一瞬躊躇したが、すぐに剣先を下げた。
椅子に座ってい女性が、ゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。
瞳は深い琥珀色。光を受けてもなお、感情を内に秘めたまま冷静に現実を射抜いている。
王の第二夫人の娘。王女でありながら、「正当ではない血」や「妾の子」と陰口を叩かれる存在。だが、彼女の視線には自嘲の文字はない。その目はただ、遠く、その先にある真実だけを捉えていた。
「彼らは、刺客ではなさそうです。……刺客の目はもっと濁り、恐怖に支配されています。彼らの瞳にあるのは、もっと暗く、そして熱いものに見えます」
琥珀色の瞳がアルトを見据える。その静かな威圧感に、アルトは自分が「値踏み」されていることを悟った。
「名乗りなさい。貴方たちは、何者ですか?」
女性――リシェル・アルセリア・レイヴァルト。
この閉ざされた離宮の主が、その凛とした声を響かせた。
アルトは深く息を吐き出し、自らの身分を誇りを込めて告げた。
「……僕は、アルト・ルーヴェル・レイヴァルト。ルーヴェル辺境伯家の三男だ」
その名を聞いた瞬間、イリーナの眉が微かに動いた。
「レイヴァルト……? ルーヴェルの一族は、セリオスを除いて亡くなったはずだ」
「ええ、全滅しました。かつての高貴なレイヴァルト家は、セリオスの裏切りによって潰えました」
アルトの声は、氷のように冷たく、しかし地熱のような熱を帯びていた。
「今ここにいるのは、闇の中から這い上がってきた亡霊です。……リシェル殿下。僕たちは、セリオスの『真実』を伝えに来ました」
アルトの傍らで、ユウが静かに、だが確信を持って琥珀色の瞳を見据える。
「王女殿下。あなたは、この鳥籠の中で朽ち果てるのか? それとも……俺たちと再び道を切り拓くか」
リシェル・アルセリア・レイヴァルトは、アルトの顔を、そしてユウの瞳をじっと見つめ返した。
彼女の脳裏に、かつて東から届いた「崩壊」という報告への違和感と、現在の王都を覆うセリオスという男の不気味な影が、一つの線となって繋がり始める。
「……イリーナ」
リシェルが短く呼ぶと、碧の騎士は静かに剣を鞘に納めた。
彼女にとって、主への忠誠とは誓うものではなく、呼吸と同じく「既に在る」もの。主の意志を汲み取り、彼女は一糸乱れぬ立ち姿でその背後に控える。
「分かりました。『亡霊』たちの話を聞きましょう」
リシェルはそう告げると、バルコニーの扉を閉めるよう、イリーナに命じた。
豪華な離宮。その一室で、かつて歴史から消されたはずの亡霊たちと、鳥籠に囚われた王女が、ついに一つの盤面で出会った。
「ただし。……もしその話が、私の心を動かすに足らなかった場合。……その時は、彼女の剣があなたたちの命をこの鳥籠の中に散ることになります。それを覚悟しなさい」
リシェルの言葉に、ユウは口角を僅かに上げた。
「良いだろう。……話は長くなる。まずは、ルーヴェルで起きたことから話そう⋯⋯」
王宮の籠の中で、反逆の物語がより深く凄惨に加速し始めた。




