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潜入


深夜の宿屋『片翼の燕亭』。

窓の外では、王都の静寂を切り裂くように湿った夜風が吹き抜けていた。

ユウの呼び出しに応じて、闇に紛れて現れた隠密部隊の男――クロウは、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。


「……お前の指示通り、王宮の物流を握り、かつ近衛騎士団と癒着している商人を洗ってみたところ、目星をつけたものがいる」


クロウの低い声が、ランプの微かな明かりの中で震える。


「名はマルセル・ガニエ。商人街に本部を構える『ガニエ商会』の主だ。先代が築いた王宮御用達の看板に、現在は近衛の補給担当官と結託している。王宮内へ運ばれる高級酒や食料の納入を一手に引き受けているが、裏では納品数を改ざんして、私腹を肥やしている」


ユウがその報告書を手に取り、無言で目を通す。そこには、マルセルがどの騎士にどれほどの賄賂を渡し、どの倉庫から中抜きを行っているかという、破滅的なまでの証拠が記されていた。


「性格はどうだ」


「自分より下の人間には徹底的に傲慢。だが、強い力を持つ者には腰が低い。それと、動揺すると顎髭を執拗に触る癖があるそうだ。……お前たちが扱うのにこんなに適切な者はいないだろう」


「顎髭をいじる小心者、か⋯⋯。分かりやすくて助かるな」


カインが壁に寄りかかり、短剣の柄を指先で叩きながら鼻を鳴らした。 


「宮殿の正門を抜けるには、奴の馬車と、奴が築いた近衛との『腐れ縁』が必要だ」


アルトが、机の上で拳を強く握りしめた。その瞳には、かつての貴族としての気品以上に、目的を果たすための鋭い戦士の光が宿っていた。


「ダリウスの息がかかった近衛騎士たちが警護を独占している今、正面から入るしかない。……まずは、このマルセルとかいう商人を、俺たちの忠実な『犬』に仕立て上げる」



翌朝、商人街の最高級立地に建つ『ガニエ商会』の本部。

その豪華な会主室には、マルセル・ガニエの鼻につく高い怒鳴り声が響き渡っていた。


「ええい、この無能めが! 何度言えば分かる! 近衛の旦那方に納めるワインの等級が違うと言っているだろう!」


マルセルは、ベルベットの豪華なガウンを羽織り、香油で整えられた顎髭を慈しむように指先で撫で回しながら、震える使用人を罵倒していた。


「お前のような出来損ないを雇っている私の慈悲を無駄にするな! さっさと失せろ、このドブネズミめ!」


使用人が泣きそうになりながら部屋を飛び出した直後、入れ替わるようにして三人の男たちが悠然と室内へ入ってきた。


「なんだ、貴様らは。予約もない者を通すなと教育したはずだが……」


マルセルが顎髭をいじりながら振り返る。しかし、三人の姿――粗末な荷運び人の服を纏ってはいるが、その瞳に宿る圧倒的な「気圧」に、彼の言葉は喉に張り付いた。


「よお、マルセル。朝から元気なこった。使用人をいじめてそんなに楽しいか?」


カインが皮肉げに笑いながら、大理石の床を土足で踏みしめて歩み寄る。マルセルは顔を真っ赤にし、顎髭をむしるように触りながら叫んだ。


「どこの馬の骨だ! 衛兵を呼ぶ前に、その薄汚い靴で私の最高級の絨毯を汚すのをやめろ! 乞食の施しなら他所へ行け!」


マルセルの傲慢な態度を、ユウは感情のない黒い瞳で見据え、一束の紙を彼のデスクに放り投げた。


「……なんだ、これは。苦情なら受け付けんぞ」


マルセルは面倒そうにその紙を手に取る。だが、中身を数行読んだ瞬間、彼の顔から急速に血の気が引き、顎髭を触る指が激しく震え始めた。


「な、なぜ……これを、貴様らが……」


そこには、彼が過去数年にわたり行ってきた横領、中抜き、改ざん、そして近衛騎士団への賄賂の、言い逃れのできない証拠が日付入りで記されていた。


「中抜きに賄賂、そして王室財産の窃盗。……王宮御用達の看板も、これで終わりだな」


ユウが冷淡に告げると、マルセルの喉からヒュッという掠れた音が出た。


「それとも、ダリウスに直接この帳簿を届けようか? 彼は今、裏切り者には人一倍厳しい。……お前の自慢のその髭も、首と一緒に切り落とされるだろうな」


「ま、待ってください、これは……何かの間違いです! 私は、私はただ……!」


「間違いなもんか。数字は嘘を吐かねえよ、ガニエの旦那」


カインが音もなくマルセルの背後に回り込み、耳元でナイフを弄んだ。鋭い刃が光を反射し、マルセルの首筋をかすめる。


「お前が死刑になるか、北の採掘場で一生泥水を啜るか。俺たちはどっちでもいいんだ。……だが、協力するなら話は別だぜ?」


マルセルは恐怖に震え、縋るような目でアルトを見た。アルトはフードを脱ぎ、その凛とした、それでいて底知れぬ怒りを湛えた瞳でマルセルを射抜いた。


「マルセル殿。僕たちはあなたの命が欲しいわけではありません。……あなたが今日行う予定の王宮への納品。それに僕たちを紛れ込ませてほしいのです。僕たち三人を『荷運び人』として、ヴァレリウス宮殿の奥まで連れて行ってほしい」


マルセルは、アルトの放つ圧倒的な威圧感に気圧された。普段媚びを売っている成金貴族とは根本的に違う、本物の「支配者の気位」。小心者の彼は、その恐怖に飲み込まれながらも、同時にどうしようもない敬服を抱いてしまった。自分より強い者には、徹底的に傅くのが彼の生き方だった。


「……ひ、ひぃっ! しょ、承知いたしました、旦那様方! このマルセル、何でもさせていただきます! どうか、どうか命だけは……!」


マルセルは椅子から転げ落ち、豪華な絨毯に額を擦り付けた。顎髭を触るのも忘れ、ただひたすらに平伏する。


「いい返事だ。……それじゃあ旦那様。最高の『演技』を期待してるぜ?」


カインが皮肉げに微笑み、三人は嵐のように去っていった。 翌朝、王宮ヴァレリウスの正門前。朝靄の中に、数台の荷馬車が列を作っていた。その最後尾に、『ガニエ商会』の重厚な馬車が停まっている。

荷台には最高級のワイン樽や食糧が積まれ、その隙間に、荷運び人に扮したユウ、アルト、カインが潜んでいた。


「……アルト、落ち着いているな」


ユウが低い声で尋ねる。


「ああ。こうして潜入するのも、かつての訓練を思い出すよ。……まさか王宮に、こうして裏口からくぐることになるとはね」


アルトの声には、静かな怒りが燃えていた。


「へへ、俺はこういうの、得意分野だ。……おい、マルセル。震えすぎだ。顎髭ばかり触ってると怪しまれるぞ」


カインが御者台のマルセルに釘を刺す。


「分かっております、分かっておりますが……騎士様の顔を見ると、胃が口から出そうになるのです……」


検問所が近づく。


「次、ガニエ商会! 前へ出ろ!」


近衛騎士の野太い声が響き、馬車がゆっくりと停止した。

騎士が二人、馬車に歩み寄ってくる。


「……またあんたか、ガニエ。今日は一段と荷が多いな」


マルセルは一瞬、顔を引きつらせたが、すぐに「傲慢な商人の仮面」を被った。彼は顎髭を優雅に撫で、鼻につく高い声で応じた。


「おやおや、騎士様。今夜は殿下が特別なお客様を迎えられるのでしょう? 最高級のヴィンテージを揃えるのは、私の義務ですからな。……ほら、これをお受け取りください。皆様の夜の『潤い』に」


マルセルは袖の下から、金貨の詰まった袋を騎士の手元へ滑り込ませた。騎士は袋の重さを確かめ、下卑た笑みを浮かべた。


「相変わらず気が利くな、ガニエ。……おい、後ろの荷運び人ども。さっさと荷を下ろせ。手間取らせるなよ」


 騎士の視線が、荷台の三人に向けられた。


「……待て。貴様、見ない顔だな」


 騎士が、重い木箱を担ごうとしていたアルトの前に立ちふさがった。緊迫した空気が流れる。カインが懐のナイフに手をかけようとしたその時、マルセルが声を張り上げた。


「これ! ぼさっとしてるんじゃない! 騎士様を待たせるなと教育したはずだぞ、この出来損ないめ!」


マルセルはわざとらしく顎髭をむしり、騎士に媚びるような笑みを向けた。


「申し訳ありません、騎士様。最近雇ったばかりの田舎者でして。力だけはあるのですが、頭の方はさっぱりで。あまりに不細工なようなら、私が自ら運びましょうか?」


その必死の自虐的な演技に、騎士たちは一斉に笑い出した。


「ハッ、お前の贅肉じゃ、箱一つ持てないだろうが。いい、さっさと行け! 殿下を待たせるなよ」


騎士が槍を引き、進路が開く。馬車がゆっくりと動き出し、重厚な鉄の正門をくぐり抜けた。背後で門が閉まる重い音が響く。三人は木箱の陰で、静かに息を吐き出した。 


「……あいつ、意外といい役者だな」


 カインが小さく笑いながら呟く。


「小心者だからこそ、極限状態では必死になれるのかもしれないね。……ともかく、第一関門は突破だ」


アルトが答える。宮殿の敷地内は、外の喧騒とは無縁の、美しくも残酷な静寂に包まれていた。ここには「東の悲劇」の影など微塵も感じられない。その事実が、アルトの胸に激しい怒りを再燃させた。


「ここからは別行動だ。マルセル、お前は荷下ろし場で騒ぎを起こせ。その隙に俺たちは地下通路へ入る」


ユウが低い声で指示を出す。


「……旦那様。どうか、ご無事で。……ああ、私の商会が、私の平穏な日々が……」


マルセルは顎髭をむしりながら震えていたが、もはや引き返す道はないことを理解していた。

馬車が食料庫の搬入口で停止する。三人は荷物を抱え、華やかな宮殿の裏側に広がる、不気味な闇の中へと深く潜り込んでいった。亡霊たちの逆襲が、今、ここから始まろうとしていた。


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