糸口
ユウは「ルーヴェルの亡霊」と名乗った後の相手の反応を待たずに、短く顎をしゃくって合図を送った。
「ここは不味い。もうすぐ衛兵の網がこの区画を完全に塞ぐ。話の続きは、俺たちのねぐらでしよう」
リシェル王女の隠密は、一瞬、フードの奥で鋭い瞳を細めた。
罠に嵌められた身として、相手の拠点へノコノコとついていくのは隠密として自殺行為に等しい。だが、目の前の若者たちが放つ、奇妙なほどに静かで、それでいて圧倒的な重みを持つ空気――そして「セシリア」と「エリナ」という、王都の最深部で秘匿されているはずの名前。その事実は、男の警戒心を上回るほどの衝撃を与えていた。
「……いいだろう。案内しろ」
男が短剣を鞘に収めるのを確認した後、ユウを先頭に四つの影はすぐさま動き出した。瓦礫の山を飛び越え、老朽化した石造りの建物の隙間を縫うようにして、彼らは下層街の喧騒へと溶け込んでいった。
王都の下層街、その隅にひっそりと佇む宿屋『片翼の燕亭』。
三階の突き当たりにあるユウたちの自室に滑り込むと、カインが手慣れた動作で窓のカーテンを隙間なく閉め、扉の鍵を閉めた。アルトは扉の前に背を預けて立ち、廊下の気配に耳を澄ませる。
狭い部屋の中央、粗末なテーブルの上に置かれたランプにユウが火を灯すと、仄暗いオレンジ色の光が四人の姿を浮き上がらせた。
「座ってくれ。ここなら安全だ」
ユウが促すと、男は警戒を解かぬままゆっくりと椅子に腰を下ろした。そして、意を決したように黒いローブのフードを背後へと払い落とす。
露わになったのは、二十代半ばほどの、彫りの深い無骨な男の顔だった。短く刈り込まれた漆黒の髪。そして何より目を引くのは、左の頬から顎にかけて斜めに走る、一筋の古い剣傷だ。
その傷跡が、彼が潜り抜けてきた修羅場の数々を無言で物語っていた。
鷹のように鋭い眼光は、ランプの光を反射して怪しく輝いている。
「……改めて名乗らせてもらおう。俺は第一王女リシェル殿下直属の隠密部隊、クロウだ」
低い、しかし芯の通った声だった。クロウはテーブルの上で両手を組み、正面に座るユウを射抜くように見つめた。
「お前たちが何者なのか、そしてなぜあの二人の名を知っているのか。……隠さず話してもらおう」
ユウはそれに応えず、ただ隣のアルトへと視線を送った。
アルト・ルーヴェル・レイヴァルト。ルーヴェル辺境伯家の三男であり、帝国軍の猛攻を受けていた東の守護者の血脈。そして、その傍らで常に盤面を支配し続けた知者であるユウと、彼らと共に地獄を這い上がってきたカイン。
彼らの素性と、あの凄惨な「裏切り」の日の出来事を、ユウは感情を排した淡々とした口調で説明した。
「……セリオスは、前線には出ていなかった」
アルトが、絞り出すような声で続けた。
「奴の役割は後方の都市ルーヴェルの守護と、前線への物資供給。だが、帝国軍の猛攻が始まった瞬間、奴は供給を止めた。食料も矢も届かなくなった兄上――レオニードの軍は混乱し、そこを前から帝国軍に、後ろからは『自由の盾』に挟撃された。兄上は僕を逃がすために、一人で敵陣へ突っ込んでいった……」
話し終えた後、部屋には重苦しい沈黙が流れた。
クロウの瞳には、隠しきれない驚愕が浮かんでいた。帝国によってレイヴァルト家はセリオスを除き全滅した――王都に流布していたその公式な記録を、目の前の存在が根底から覆したからだ。
「にわかには信じがたい……だが、先ほどの旧市街での立ち回りといい、その構えといい、ただの騙りでないことだけは理解した」
クロウはふぅと短く息を吐き出し、わずかに肩の力を抜いた。
「二人は……セシリア様とその使用人のエリナ殿は、王女様のお側におられる。王女殿下は、あの日の事変に不審な点があると考えられ、独自に二人を救出し、監視の届かない離宮の奥で保護されている。今は健康も害しておらず、安全だ。それだけは約束しよう」
その言葉に、アルトが目に見えて安堵の表情を浮かべた。張り詰めていた肩の力が抜け、拳の震えが止まる。
「そうか……無事だったんだね。……感謝します、クロウ」
アルトの心からの言葉に、クロウも僅かに敵意を和らげた。しかし、ユウの黒い瞳は、既に次の盤面を見据えていた。
「生存が分かった以上、話は早い。リシェル王女に会わせてくれ。俺たちには、殿下に直接伝えたいことがある」
クロウの顔から再び表情が消えた。彼は首を横に振る。
「……それは難しい。王女殿下は今、ダリウス王子の厳しい監視下に置かれている。ヴァレリウス宮の離宮に押し込められ、外部との接触は完全に断たれている状況だ。俺たちのような隠密ですら、接触の機会を作るのは至難の業だ」
「なぜ、そこまで厳重に隔離されている? 殿下からすれば、ダリウスは腹違いの兄にあたるはずだろう?」
カインが尋ねると、クロウは忌々しげに息をついた。
「ダリウス王子は正室の生まれ、正統な王位後継者だ。だが、その強引な手法に反発する貴族は多い。一方、リシェル殿下は妾の子でありながら、その聡明さで一部の勢力から絶大な支持を集めている。ダリウス王子からすれば、殿下は存在しているだけで己の玉座を脅かす厄介な存在なんだ。だからこそ、近衛騎士で周囲を固め、声を封じている」
「なら、その状況を突き崩せる『矛』を俺たちが提供しよう」
ユウが静かに告げた言葉に、クロウが眉をひそめる。
「セリオスは英雄などではない。帝国と内通している裏切り者だ。奴は今も王都には戻らずルーヴェルに留まっているが、それは帝国との密約を盤石にし、この国を内側から食い荒らす準備をしているからだ」
その瞬間、クロウの全身から凄まじい威圧感が溢れ出した。
「……正気か? それが事実なら、今の王都を支配しているダリウス王子の権威、その根拠となっている『東方の勝利』そのものが虚構だということになるぞ」
「事実だ。あの日、レオニード兄上の背後を突いた山賊どもの動きは、あまりに訓練されすぎていた。セリオスの手引きがなければ、絶対に不可能な挟撃だった」
アルトの瞳にある痛切な色が、それが嘘ではないことを証明していた。カインがナイフを弄りながら、吐き捨てるように付け加える。
「ダリウスは、ルーヴェルにいるセリオスの名声を利用して民を黙らせている。だが、その盾の裏側には帝国の毒が塗られてるんだぜ。……圧倒的な『武』を掌握しているあいつらを相手に、王女様の正義だけじゃ勝てねえ。牙が足りないんだ」
「だから、俺たちを使え。俺たちがセリオスの仮面を剥ぎ、王女殿下の道を切り拓く『剣』になる」
ユウの冷徹な分析に、クロウは黙考した。旧市街で自分を完封した知略。そしてアルトの執念。もし彼らが王女派の「剣」となるなら、これほど心強いものはない。
「……分かった。お前たちの毒を信じよう。だが、王宮へ潜入する術はどうする。正面から乗り込めば一瞬で首が飛ぶぞ」
「そこは、あんたがさっき命がけで奪ったその『裏帳簿』に答えがあるはずだ」
ユウは口角を僅かに上げ、クロウの懐にある帳簿を指差した。
「その帳簿、横領の記録だけじゃないだろう? 王宮に食料や高級酒を納入している御用商人と、近衛騎士の癒着の記録だ。……クロウ、その商人を特定しろ。そして、脅すんだ」
「脅す……?」
「『お前たちの横領はすべて掴んでいる。バラされたくなければ、次の納品の時、俺たち三人を【荷運び人】として紛れ込ませろ』とな。正義を振りかざして告発するより、よっぽど確実なパスポートになる」
カインがニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「へえ、なるほどな。いかにもお前が考えそうな手だ。悪党を盾にして、王様の喉元まで歩いていくってわけか」
クロウは初めて、わずかに口元を緩めた。
「……商人を脅迫して、正面からヴァレリウス宮殿に潜り込むというのか。出鱈目だが、今のこの腐った王都では、その狂気こそが唯一の希望かもしれん」
「必ずやり遂げるよ、クロウ。……レオニード兄上の誇りにかけて」
アルトの揺るぎない覚悟を前に、クロウは深く息を吐いた。
「いいだろう。商人の特定と、接触の段取りは俺が引き受ける。……納品の日取りが決まり次第、再び接触しよう。それまでは、この下層街の泥の中で息を潜めていろ」
クロウはそう言い残すと、ランプの火を吹き消し、音もなく窓から夜の闇へと消えていった。
再び静寂が訪れた部屋の中で、三人は互いの顔を見合わせた。
ついに、王都の最深部へと至る糸口を掴んだ。
彼らの戦いは、泥にまみれた下層街から、虚飾と陰謀の渦巻く王宮へと、その舞台を移そうとしていた。




