亡霊
王都レイヴァルトの西端に広がる旧市街地は、行政から見放され、老朽化した施設や半ば倒壊した空き家が密集するスラムとなっていた。
ヴェインの情報によれば、今夜この広場でダリウス派の役人が裏帳簿を取引するという。周囲は石造りの建物が隙間なく並び、その間を縫うように細い路地が張り巡らされている。瓦礫が散乱し、死角の多い入り組んだ地形だ。
舞台となる広場からの抜け出すルートは限られている。北は衛兵の巡回経路となっており、騒ぎになれば真っ先に塞がれる。東は崩壊した建物の残骸で行き止まり。となれば、隠密行動をとる者が逃走に使えるのは、屋根伝いに離脱するか、南へ伸びる路地を抜けるか、西に口を開ける細く暗い隙間に飛び込むかのいずれかしかない。
そして、西の隙間の先には高い石壁に囲まれた古い貯水施設跡――一度入り込めば容易には抜け出せない「袋小路」が待ち受けていた。
その一角、月明かりも届きにくい裏路地の奥で、三人は潜伏の準備を進めていた。ユウが地面に地図を描き、二人に配置を指示した直後、カインは怪訝そうに口を開いた。
「……なぁ、ユウ。作戦は分かったが、本当に『突っ立ってるだけ』でいいのか? 相手は王女の影を張るほどのプロだぞ。そんなに上手くいくもんかね」
カインは屋根の上を見上げ、自分が登るべき場所を確認しながら続けた。
「もし相手が死に物狂いでアルトを切り崩しに来たら? あるいは、俺の飛刀を無視して最短距離で逃げたら、そこで終わりだろ」
ユウは冷たい夜気に視線を投げ、静かに答えた。
「カイン、ネズミを捕まえるときに一番確実な方法は何だと思う? 網で追い回すことじゃない。唯一開いている穴が『安全な出口』だと思い込ませることだ」
ユウはアルトの腰にある剣に目を向けた。
「プロの密偵は、無駄な戦闘を最も嫌う。お前が屋根のルートを牽制し、南の路地にアルトが立てば、相手は突破に時間がかかるとすぐに理解するはずだ。そして、追われている人間は、迷ったときに『最も抵抗が少ない道』を無意識に選ぶ。俺たちがやるのは、密偵に選択肢を与えることではなく、彼自身にあの西の袋小路を選択させることだ」
アルトが剣の柄を握り、覚悟を決めたように頷いた。
「わかったよ。僕は『突破するには厄介な壁』と思わせればいいんだね。……カイン、ユウの策を信じよう。ここでその影と殺し合うわけにはいかない」
「……へいへい。知恵者様の先読みってやつか。まあ、信じてやってみるよ」
そう、いつものように軽く答えるとカインは肩をすくめて、軽快な動作で屋根の上へと消えていった。
三人はしばらく、その場に待機して、一刻ほどが過ぎた頃、路地の開けた広場に数人の男たちが現れた。
一人は身なりの良い役人風の男。もう一人は、裏社会の人間と思しき卑屈な笑みを浮かべる男だ。彼らの周囲には、四人の屈強な護衛が油断なく目を光らせている。
二人は広場の中央で立ち止まると、周囲を警戒するように見回し、ひそひそと声を潜めて何事か密談を交わし始めた。やがて役人風の男が懐から重そうな革の表紙の帳簿を取り出すと、裏社会の男が値踏みするように目を細めた。
「……よし、これが今月分の記録だ。綺麗に書き換えておけ。王女派の連中が嗅ぎ回っているからな」
役人風の男が帳簿を差し出した、その瞬間だった。
「――光よ」
虚空から短い詠唱が響くと同時に、上空で炸裂した強烈な閃光が広場を真っ白に塗りつぶした。
「なっ、目が!」
「敵襲だ! 旦那を守れ!」
護衛たちが一時的に視力を奪われ、手探りで剣を抜こうと混乱する。
その白い光の残滓を切り裂くように、黒いローブを纏い、深くフードを被った「影」が、隣接する建物の三階から音もなく舞い降りた。
その身のこなしは、重力を感じさせないほどに滑らかだった。着地と同時に、盲目となった護衛の一人の懐に潜り込み、手刀をその喉元へ叩き込む。
「がっ……!」
呻き声を上げて崩れ落ちる男。その肩を踏み台にし、影は流れるような動作で二人目の顔面を蹴り上げ、三人目の側頭部を短剣の柄で正確に強打した。
わずか数秒だが、屈強な護衛たちが手探りで剣を抜くことさえできずに地面へと沈んでいく。
アルトは路地の影からその光景を凝視し、戦慄した。
(一撃一撃が致命的だ。相手を殺さずに正確に無力化している……。騎士団の教官でも、ここまでの芸当はできない)
「ひぃっ! な、何をしている! 衛兵! 誰か衛兵を呼べぇっ!」
役人が腰を抜かして這いずる中、影は宙を舞う帳簿を鮮やかに掴み取った。背後から衛兵の呼び笛が近づく中、ローブを翻した影は、最短距離である路地へと迷いなく駆け出した。
石畳を蹴る、乾いた足音。
影が路地へ飛び込もうとしたその時、上空から鋭い風を切る音が届いた。カインが放った数本の投げナイフが、影の進路を遮るように石壁に突き刺さる。
影は即座に足をとめ、重心を低く落として屋根の上を睨み据えた。カインは追撃せず、ただ屋根の上を移動しながら、次の投擲を匂わせるようにあえて姿を晒す。
(伏兵? 素早いが、決定的な殺気はない。足止めか⋯⋯、あるいは誘導か⋯⋯)
影の思考は、プロとしての合理性に即して状況を分析した。彼はカインのいる屋根のルートを危険と判断して、わずかに迂回する形で、アルトのいる南の路地へと進路を修正した。
そこには新たな「壁」が待ち伏せをして、影の前へと立ちはだかる。
アルトは剣を抜かず、ただ鞘を左手に添えて中央に立っている。その構えは士官学校で磨かれた質実剛健なもので、死線を越えた者が持つ独特の威圧感を、若いながらも体から放っていた。
影の動きが、目に見えて鈍った。フードの奥で光る瞳が、アルトの構え、呼吸、重心の置き方を一瞬で走査する。
(隙がない⋯⋯。若いが一筋縄ではいくまい。まともに打ち合えば、突破するまでに時間が掛かる。背後からは屋根の上の伏兵、そして衛兵の増援……。ここで足をとめるのは致命的だ)
影の視線が、路地の脇に口を開けた、西の細く暗い隙間へと向けられた。
そこは崩落した壁の残骸が積み上がり、誰も守っていない「死角」のように見えた。その先には古い貯水施設の広場があり、そこを抜ければ複雑な迷路区画へ脱出できるはずだった。
(あそこに飛び込むしかない⋯!)
影は自らの判断に従い、迷わなかった。アルトの正面を避けるように、彼はその「唯一の安全な道」へと全力で跳び込んだ。
瓦礫を乗り越え、狭い隙間を全速で駆け抜けた先。
そこは、周囲を十メートル近い高い石壁に囲まれた、古い貯水施設の跡地だった。影が音もなく着地した、その瞬間。
(……静かすぎる)
フードの下で、影の顔が強張った。
月明かりが差し込む中庭の中央。武器すら持たず、退屈そうに石壁に寄りかかって立っている一人の若者の姿があった。
影は反射的に腰の短剣に手をかけ、即座に周囲の逃走経路を確認した。だが、彼が通ってきた唯一の入り口からは、先ほどいた二人が静かに姿を現して、退路を完全に塞いでいた。
両者は影を警戒しながらも、中央に立つ若者――ユウを守るようにその左右に並び立ち、三対一の包囲網を形成した。
「いい選択だ。急いでいるなら、そこが一番安全に逃げられるように見えただろう?」
ユウの静かな声が、石壁に反響して重く響く。
影は周囲を見渡した。逃げ道のようだった瓦礫は、実はあらかじめ崩され、足元を掬うように配置されていた。壁には登れるような足場もなく、ここは最初から、彼を閉じ込めるために用意された「檻」だった。
(……嵌められた。最初の一投から、路地の塞ぎ方まで……すべて俺の『思考』を読んだのか)
自分が選んだと想定していた道が、実は選ばされた道であったのだ。
影は短剣を抜き放ち、低い構えをとった。全身から、先ほどまでとは異なる、本物の殺気が立ち昇っている。
「その帳簿は持っていって構わない。俺たちは王都の番犬でも、セリオスの手の者でもない」
ユウは一歩も動かず、その殺気を正面から受け止めた。影の瞳に、激しい懐疑の光が宿る。
「……セシリアと、エリナを助けてくれたようだね。まずはそのお礼をさせてくれ」
捕らえた相手に対してアルトは感謝を述べた。
そして、その二人の名を口にした瞬間、影の構えが目に見えて揺らいだ。
それは、彼が所属する組織の最深部でしか共有されていないはずの、最重要機密だったからだ。
「……お前たちは、何者だ」
三人の男たちを睨み据え、低く、喉の奥を震わせるような声。
密偵が初めて口にした言葉には、隠しきれない困惑と驚愕が混じっていた。
「そうだな⋯⋯ルーヴェルの亡霊だよ」
ユウは薄く唇を歪め、冷徹な軍師の貌で告げた。
「会わせてくれ。王女派に属する『影』の君に頼みがある」
夜の静寂が、再び旧市街の廃墟を支配した。
力ではなく知恵によって密偵を完封した瞬間。王都の闇の中で、新たな協力の糸が、かつてない強固さで結ばれようとしていた。




