看破
地下賭場『黒曜の杯』の最奥。
重厚な黒檀の扉をくぐった先に広がっていたのは、外の泥水のような喧騒や安酒の饐えた匂いとは完全に無縁の、異質な静寂だった。
分厚く柔らかな絨毯が足音を吸い込み、壁を彩る金糸の装飾が、仄かに揺れる蝋燭の光を反射している。部屋の空気を満たすのは、貴族たちが好むような高価な香木の香り。
王都の最下層にありながら、この部屋だけは別の世界のように、主の絶対的な権力と財力を無言で証明していた。
「座りなよぉ。……まあ、紅茶でも淹れようかぁ」
部屋の中央に置かれた豪奢な革張りのソファ。
そこに深く腰を下ろし、紫色の髪を持つ青年。
――ヴェインは、長い足を組みながら柔らかく微笑んだ。
透き通るような白い肌と、感情の底を見せない深いアメジストの瞳。そして、母音を奇妙に引き伸ばす独特の話し方は、相手の緊張感を和らげるどころか、逆に綿で首を絞められるような不気味さを醸し出している。
ユウは無言でカインとアルトに目配せをして、ヴェインの対面に位置するソファへと腰を下ろした。アルトとカインは座らずに、警戒を解かぬままユウの左右に立つようにして控える。
「さて」
ヴェインはテーブルの上に置かれた銀のティーポットには手を触れず、細められた紫色の瞳で三人――とりわけ、深くフードを被ったアルトの姿をじっくりと値踏みするように見つめた。
「ボクの店で随分と派手に稼いでくれたみたいだけどぉ……キミたち、ただの博打打ちじゃないねぇ。その立ち振る舞い、剣指先の様子。そして何より、その隠しきれない高貴な匂い……」
ヴェインはそこで言葉を区切り、楽しげに喉の奥で笑った。
「キミたちのことは、だいたい予測がついてるよぉ……。最近、東の戦場から逃げ出してきた者たちがいると聞いているよぉ……」
その言葉に、カインの肩が僅かに強張った。アルトも微動だにしないが、空気が一瞬にして張り詰めるのをユウは肌で感じていた。
ヴェインの視線は、獲物を嬲るようにゆっくりとアルトの腰の剣から、そのフードの奥へと這い上がっていく。
「世間じゃ、ルーヴェルのレイヴァルト家は次男以外は帝国によって殺害されたと聞いていたんだけどねぇ……」
ヴェインはゆっくりと息を吐き出し、まるで舞台役者のような仰々しさで一拍のタメを作った。
部屋の中の沈黙が、重く、痛いほどに引き伸ばされる。蝋燭の炎が微かに揺れ、ヴェインの紫の瞳に怪しい光を灯した。
「さては、キミたち、東のルーヴェルから逃げてきた亡霊だねぇ……?」
決定的な一言が落ちた瞬間、アルトの右手が弾かれたように腰の剣の柄に走る。親指が鯉口を切り、僅かに抜けた刀身から冷たく鋭い金属音が部屋に響き渡る。アルトの殺気が、部屋の空気を氷点下まで凍らせる。
だが、ユウが静かに右手を挙げ、アルトの動きを制止した。
「……血の気が多いねぇ。ここでボクを斬っても、地上へ出る前に蜂の巣になるだけだよぉ」
ヴェインは自身の首元に向けられた殺気に対し、全く動じる様子もなく薄く唇を歪めた。
「手荒な真似をするつもりはない」
ユウは静かに口を開き、懐から先ほどカインが勝ち取ったチップの詰まった重い革袋を取り出した。それをテーブルの上に無造作に置く。
「俺たちがルーヴェルの人間かどうかは、本題じゃない。あんたが言った『別のゲーム』……取引をしよう。このチップはすべて返す」
「ほう?」
「代わりに、第一王女リシェル・アルセリア・レイヴァルトと接触する方法を教えろ」
ユウの直截的な要求に対し、ヴェインの表情から笑みがスッと消え去った。
紫色の瞳が、氷のように冷たい光を帯びてユウを射抜く。それは、裏社会を束ねる者としての本性にみえる。
「……変わってるねぇ。ボクがダリウス王子の犬だったら、今すぐキミたちの首を刎ねて恩賞をもらっているところだよ」
ヴェインはテーブルの上の革袋を指先で軽く弾いた。
「それに、これっぽっちの端金で王女への道を?……情報の対価にしては、安すぎるねぇ」
「金だけじゃない。あんたが興味を持つ『情報』を足そう」
ユウは一切の感情を顔に出さず、ヴェインの冷たい目を見据え返した。
「あんたはダリウスの犬じゃない。この賭場のシステムを見ればわかる。あんたは王都の現状……力任せな統治にも、偽りの平和にも退屈している。だから、こんな地下で俺たちのような『異端者』が来るのを待っていたんじゃないのか?」
ヴェインの片眉が僅かに上がった。
「なら、この情報はあんたにとって価値があるはずだ。……今、王都で英雄として祭り上げられているセリオス・レイヴァルトは、帝国と通じている裏切り者だ」
その言葉に、部屋の空気が一変した。
セリオスの裏切り。それはルーヴェルを崩壊させた最大の要因であり、同時に、この王都の権力図を根底から覆す、あまりにも危険な猛毒だ。
ヴェインはしばらくの間、沈黙した。
紫の瞳の奥で、膨大な思考と計算が凄まじい速度で渦巻いているのがユウにはわかった。やがて、ヴェインは再び喉の奥で低く笑い声を漏らした。
「……面白い。とびきりの毒じゃないかぁ⋯⋯」
ヴェインはソファの背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「セリオスが帝国の犬……。なるほど、それなら東の戦線があれほど不可解な終焉を迎えたのも頷ける。キミたちがルーヴェルの亡霊だというのも、見事に辻褄が合うねぇ」
ヴェインは視線をユウに戻した。その目には、新しい玩具を見つけて楽しむ子供のような無邪気さが宿っていた。
「ボクはねぇ、この腐りきった盤面が、もう一度ひっくり返るのが見たいんだよ。キミたちがそのための劇薬になるというのなら……いいだろう。取引成立だ」
ヴェインはテーブルの上の革袋を自分の方へ引き寄せると、少し声を潜めた。
「まず前提として、リシェル王女に直接会うのは不可能だ。彼女は今、ダリウス派の厳しい監視下に置かれていて、宮殿の奥から一歩も出られない。実質的な軟禁状態さ」
「軟禁……」
アルトが悔しそうに呟く。兄ダリウスの強権が、ついに王女派をそこまで追い詰めているのだ。
「だが、王女の手足となって王都の暗部を嗅ぎ回り、極秘裏に王女派の勢力を繋ぎ止めている連中がいる。その筆頭が、『影』と呼ばれる密偵さ。腕の立つプロフェッショナルだよ」
ヴェインはそこで言葉を区切り、アルトを意味深に見つめた。
「その影は優秀でねぇ。つい先日も、東の戦火を潜り抜け、ルーヴェルから価値ある人間をこっそり保護して、王都へと、連れ帰ったらしい」
「……価値ある人間?」
「ああ。貴族の娘と、その使用人だそうだ。王女派にとって、ダリウスやセリオスに対抗するための重要な手札になるかもしれないからねぇ」
その言葉が持つ意味を理解した瞬間、アルトの全身に電流のような衝撃が走った。
貴族の娘と、使用人。それは間違いなく、妹のセシリアと、ユウの恋人であるエリナのことだ。
「それは本当か……!?」
アルトが思わず身を乗り出し、ヴェインに詰め寄るように声を荒げた。冷静さを保っていたユウでさえ、瞳を大きく見開き、ソファの肘掛けを握る手に思わず力が入っていた。
「その二人は……怪我はないのか? 今どこにいる!」
ユウもまた、鋭い声でヴェインを問い質した。王都に来てから彼がこれほど感情を露わにしたのは初めてのことだった。
「落ち着きなよぉ。怪我はないらしいけど、どこにいるかまではボクも知らない。影は優秀だからね」
ヴェインは三人の必死な反応を面白がるように肩をすくめた。
「でも、これでキミたちも、何が何でもその影に会いたくなっただろう?」
「……ああ。接触のルートを教えろ」
ユウは深呼吸をして無理やりに感情を押し殺し、再び冷徹な軍師の顔を取り戻した。
「焦らないでよぉ」
ヴェインはくすくすと笑った。
「影は文字通り影だ。普段はどこにいるかもわからない。だが、明日の夜、ヤツが確実に現れる場所は、……旧市街の跡地だよぉ」
ヴェインの説明によれば、明日の夜、旧市街跡でダリウス派の末端の役人が、ある「裏帳簿」を裏社会の偽造業者に引き渡す取引を行うという。
ダリウス王子が課した重税の裏で、役人たちは徴収した税の一部をこっそり中抜きし、私腹を肥やしている。その横領の証拠が記された帳簿を偽造し、王女派の追及を逃れようとしているのだ。
「影は、ダリウス派の不正の決定的な証拠として、必ずその裏帳簿を奪いに来る」
ヴェインは紫の瞳を細め、ユウを試すように見つめた。
「取引の現場に乱入して、その影を捕まえてみなよ。キミたちがただの口先だけじゃないってことを、ボクに証明しておくれよぉ」
それはヴェインからの、彼らの実力を測るための「テスト」であった。
「……わかった。その案に乗ろう」
そう伝えるとユウは静かに頷き、席を立ち上がった。アルトとカインもそれに続いていく。
「期待しているよぉ、東の亡霊さんたち」
背後からかけられたヴェインの飄々とした声を後に、三人は特別室を後にした。
深夜の下層街。
冷たい夜風が吹き抜ける中、『片翼の燕亭』への帰路につく三人の足取りは、行きよりもずっと重く、しかし確かな目的意識に満ちていた。
「……セシリア。それにエリナも」
アルトが、夜空を見上げながら、張り詰めていた糸が切れたように呟いた。
「無事だったんだ⋯⋯。少なくとも帝国に連れ去られてないことだけが救いだったね」
「ああ。最悪の事態は避けられた」
ユウも短く応じた。エリナが生きている。その事実だけで、胸の奥底に淀んでいた冷たい恐怖が溶けていくのを感じた。しかし、彼の頭の中はすでに安堵を通り越し、明日の「影捕獲作戦」に向けた思考の海へと沈んでいた。
「だが、あのヴェインって野郎、食えねえ奴だったな」
カインが頭の後ろで腕を組みながら苦笑する。
「背筋が寒くなったぜ。でも、ユウ。お前、あいつが話に乗ってくるって最初から考えていたのか?」
「確証はない。だが、あの賭場のシステムを見た時、胴元がただの強欲な小悪党ではないことはわかっていた。効率的で、秩序立っていた。……ああいう雰囲気を作るヤツは、必ず異分子に興味を持つ」
ユウの答えに、カインは呆れたように肩をすくめた。
「お前の頭の中、どうなってんだよ全く」
「ところで⋯⋯カイン。明日は、お前の索敵能力が頼りだ」
ユウは立ち止まり、二人の顔を真剣な面持ちで見つめた。
「相手は、セシリアたちを東の戦火から連れ出すほどのヤツだ。正面からぶつかれば逃げられるか、最悪、同士討ちになる。……確実に相手を逃がさず、情報を引きだすためにも、こちらから仕掛けるぞ」
王都の夜空には、厚い雲の隙間から月明かりが差し込んでいた。
王女の影と不正の帳簿。そして、紫眼の情報屋が引いた糸。
王都での戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。




