食卓
硬質な木が軽く叩かれる音で、淀んでいた意識が現実へと引き上げられた。
深い眠りに落ちきれないまま浅い微睡みの中を漂っていたせいか、自分が本当に眠っていたのかどうかの境界すら曖昧だった。
「……ユウ様、失礼いたします」
分厚い扉越しに届いたのは、波立ちのない落ち着いた声。侍女のエリナだ。
「起きてる」
淀みなく短く返すと、扉が音を立てずに静かに開かれた。
時間はすでに夕暮れから夜へと完全に移行している。薄暗い廊下に灯された魔石ランプの光を背に受けた彼女のシルエットは、昼間の冷徹な姿よりもわずかに輪郭が柔らかく見えた。
「お休みのところ、申し訳ありません。これから夕食の時間となります」
エリナは完璧な所作で一礼し、淡々と告げる。
「アルト様のご意向で、ユウ様にも同席いただきたいとのことです」
その言葉に、ユウはわずかに眉を寄せた。
「……いいのか?」
ここは公爵家だ。権力者たる貴族の身内が集まる食事の席に、素性も知れない流れ者の部外者が気安く混ざっていいはずがない。だが、エリナは一切の迷いを見せずに答えた。
「アルト様のご判断です」
それ以上の理由は語らない。語る必要もない。主の決定が全てであり、使用人である彼女はそれを執行するだけだ。ユウは小さく息を吐き、ベッドから立ち上がった。
「分かった。行こう」
「ありがとうございます」
再び浅く頭を下げ、エリナは廊下へと向き直って歩き出す。
夜の帳が下りた屋敷は、昼間とはまた異なる質の静寂に包まれていた。すれ違う使用人たちの姿はあるが、その足音や衣擦れの音は極限まで遠慮がちに抑え込まれている。
(……完全に『家』として機能しているな)
当たり前のことを、ユウは改めて実感する。広大で冷たい軍事施設のような造りでありながら、ここは間違いなくレイヴァルトという一族の生活の場なのだ。
エリナの隙のない背中を追いながら、ユウはふと口を開いた。
「毎日、家族全員で食べているのか?」
前を歩くエリナの肩が、わずかに反応を示す。
「基本的には、そのように定められております。ですが最近は皆様ご多忙ですので、全員がお揃いになることの方が珍しいかと存じます」
「……今日は?」
「皆様、お揃いになる予定でございます」
廊下をいくつか曲がり、一際重厚な装飾が施された両開きの扉の前でエリナの足が止まった。分厚い木材越しにも、内側に人が集まっている気配と、低く抑えられた話し声が伝わってくる。
エリナが静かにノックをする。
「失礼いたします」
中から短い入室の許可が下り、両開きの扉が静かに開かれた。
視界が開ける。室内の中央には、十数人は座れそうな長大なテーブルが鎮座していた。丹念に磨き上げられた硬質な木の表面が、天井から下がるシャンデリアの光を柔らかく反射している。壁面には歴史を感じさせる絵画や武具の装飾が控えめに配置されているが、成金趣味のような過度な豪華さは一切ない。
すでに数人が定位置と思われる席に着いていた。
アルト、そしてその右斜め前にはセシリア。
そしてアルトの向かい側には、ユウが初めて見る男が背もたれに深く腰掛けていた。
年齢はアルトより上、二十代の前半といったところか。兄弟共通の特徴である金髪だが、アルトのそれよりもやや色合いが濃い。目つきは一見すると穏やかだが、その奥には常に周囲の隙を窺うような、油断のない冷たい光が宿っている。
(……こいつが)
直感で理解した。アルトの兄だ。成り立ちだけでは、長兄か次兄かは判断できない。
入口に立つユウに気づいたアルトが、自身の隣の空席を視線と手で示す。
「来たね」
「遅くなった」
ユウは短く返し、室内へと足を踏み入れた。エリナは一歩下がり、気配を消して壁際へと控える。
部屋中の視線が歩みを進めるユウへと集まる中、特に強い刺を伴っていたのは――やはり、あの男だった。手に入れた新しい玩具を観察するような、じっとりとした視線。やがて、男の口元が面白そうにわずかに緩んだ。
「へえ。君が、アルトの拾ってきた客人か」
ひどく軽い声。その一言に含まれた好奇と値踏みの色は、全く隠されていない。
指定された席に到着したユウは足を止め、正面からその男の視線を受け止めた。
「……そうなります」
あえて感情を乗せずに曖昧に返す。男は喉の奥でくすりと笑った。
「警戒心が強いね。まあ、悪くない判断だよ」
思考の裏側を撫でられたような、薄ら寒い感覚。男はテーブルに肘をつき、手で口元を覆いながら楽しそうに続ける。見かねたアルトが軽く咳払いをした。
「……兄上」
たしなめるような弟の声に、男は軽く肩をすくめた。
「分かってるさ。ただの挨拶じゃないか」
男は姿勢を正して、改めてユウの目を真っ直ぐに見た。
「セリオス・レイヴァルトだ。この家の次男だ」
名乗りは簡潔だが、その立ち振る舞いには染み付いた絶対的な余裕がある。武を重んじるアルトの生真面目さとは違う、計算高く洗練された“貴族らしさ”だ。
ユウは一瞬だけ間を置く。
「……ユウです」
余計な装飾を削ぎ落とした返答。セリオスの片眉がわずかに持ち上がる。
「名字は?」
「キサラギといいます」
淀みない即答。短い沈黙が落ちた後、セリオスは小さく笑った。
「キサラギ……ふーむ。聞いたことのない珍しい響きだね」
セリオスはそれを疑うでもなく、そういうものとして受け入れる柔軟さを見せた。
「アルトから少し話は聞いたよ。どうも、森で拾ったんだって?」
「……そんな感じです」
表情を崩さずに答えるユウとは裏腹に、隣のアルトが困ったように苦笑を漏らす。
「言い方が雑すぎますよ、兄上」
「事実じゃないか」
セリオスはあっさりと弟の抗議を切り捨て、再びユウへと視線を戻す。その瞳から、先程までの軽い色がスッと抜け落ちた。
「ただ、それだけじゃないはずさ……ただの迷子を公爵家に招き入れるほど、うちの弟はお人好しじゃない。……きっと何か裏があるんだろう?」
その場を完全にリードする流れるような会話術。声に強い圧はないが、言葉の端々に冷たい刃が混じっている。ユウは数秒だけ沈黙し、相手の意図を測った。
「……さあな」
肯定も否定もせず、ただそれだけを返す。
セリオスはその反応を見て、満足そうにゆっくりと笑みを深めた。
「いいねえ。簡単に口を割らないタイプは嫌いじゃないよ」
そう言って背もたれに体を預ける。一旦引いたのだ。深追いはしないが、興味を完全に手放したわけでもない。アルトの純粋さとは違い、呼吸をするように自然とマウントを取り、相手の力量を測る男。
(……厄介だな)
ユウは内心でそう切り捨てる。アルトよりも遥かに現実的で、盤面の損得を計算して動くタイプだ。
その時、沈黙を守っていたセシリアが静かに口を開いた。
「お兄様。まだお食事が始まっておりませんよ」
礼儀を重んじるやんわりとした注意。セリオスは軽く肩をすくめる。
「そうだったね。兄上はまだかな」
“兄上”――つまり、この家の長兄。
ユウはその言葉に、わずかに意識のピントを合わせる。
(……まだ一筋縄でいかない奴が残っているのか)
セリオスの言葉を合図にしたように、部屋の空気が少しだけ引き締まった。誰もが自然と、絶対的な存在を“待つ側”の姿勢に回っている。この空間の中心は、まだ現れていないのだ。
食器が微かに触れ合う音。控える使用人たちの押し殺した呼吸。静寂が場を支配する。
やがて、分厚い扉の向こうから、一定のリズムを刻む足音が近づいてきた。
迷いのない、重く硬い足取り。グレイの手によって扉が大きく開かれる。
着席していた兄弟たちがとっさに立ち上がり、ユウも少しだけ遅れてそれに倣った。
重厚な靴音が、ゆっくりと食卓の最上座へと向かってくる。
歩行の動作に一切の無駄がない。ことさら急ぐわけでもなく、ことさら威圧しようとするわけでもない。ただそこに存在するだけで自然と「場を完全に支配する」歩き方。
一人の男が、照明の下へと姿を現した。
背は高い。鍛え抜かれたアルトよりもさらに頭一つ分は明確に上だ。肩幅も広く、衣服の上からでもその下にある鋼のような筋肉の鎧がはっきりと見て取れる。濃い金色の髪は後ろへ無造作に流されているが、乱れはない。顔立ちは兄弟共通で整っているものの、そこにはアルトの若さもセリオスの柔らかさも存在しなかった。
ただひたすらに鋭い眼光。彼が部屋に入ったという物理的な事実だけで、空間の密度が一段階引き上げられたように錯覚する。
(……この男が)
ユウは無意識のうちに、迎撃態勢をとるように背筋を伸ばしていた。
「遅れてしまったようだな」
腹の底に響くような、低く落ち着いた声。この場の主導権が誰の手にあるのかが、その一言で完全に確定する。
「兄上」
アルトが短く呼ぶ。長兄は軽く顎を引いて頷き、氷のような視線をテーブル全体へと流した。
そして、その視線が最後にユウの顔でぴたりと止まる。
数秒の重い沈黙。男は何も言わない。ただ視線を合わせているだけで、魂の質量まで測られているような錯覚に陥る。
「……そちらは?」
問いではなく、事実の確認。アルトが即座に応じる。
「はい。本日の巡回中に保護しました。名はユウといいます」
ユウは無言で軽く頭を下げる。男は歩みを進め、ユウの正面でピタリと足を止めた。
「レオニード・レイヴァルトだ」
一切の装飾を排した、簡潔な名乗り。ユウも視線を逸らさずに真っ向から応じる。
「……ユウです」
再びの一瞬の沈黙。レオニードは視線を外さぬまま、小さく頷いた。
「皆、座ってくれ」
短い命令。全員が音を立てずに再び席に着く。
壁際に控えていたエリナが静かに合図を送り、使用人たちが一斉に動き出した。前菜から順に料理が運ばれ、形式的な食事が始まる。
銀のナイフとフォークが陶器の皿に触れる硬質な音。香草とともに煮込まれたスープの匂い、厚く切られた肉から立ち昇る香ばしい熱気。だが、ここにあるのは家族の“団欒”などという生温いものではない。徹底した規律と、洗練された緊張感。それがこの公爵家にとっては“日常”なのだ。
しばらく誰も口を開かずに食事を進めていたが、その静寂を破ったのはやはりセリオスだった。
「そういえば、アルト……」
声のトーンは軽いが、その視線はしっかりと弟の顔を捉えている。
「聞いているよ。今日の巡回中、山賊と接敵したみたいだね」
アルトは食事の手を止め、姿勢を正して頷いた。
「はい」
「よく対処したね。被害は出てしまったと聞いたが、それでも隊を崩さずに帰還したことは覆いに評価できるよ」
アルトの表情は動かない。兄からの評価を、ただ事実として受け取っている。
「ありがとうございます」
その事務的なやり取りを、レオニードは静かに聞き流していた。
「……当然だ」
唐突に、レオニードが短く言い切る。視線は手元の皿に落としたままだ。
「レイヴァルト家の指揮官としては、それが最低限のラインだ」
冷酷なわけではない。ただ、一切の甘えを許さない。それが彼ら一族の背負う“絶対の基準”であると示す、揺るぎない言葉だった。セリオスがやれやれといった風に肩をすくめる。
「兄上は相変わらず厳しいですね」
軽く笑いながら長兄へ伝えた直後、セリオスは目元の笑みを消し、表情を引き締め直した。
「……それにしても、最近の山賊どもの動きが目障りです」
手に持っていたナイフを静かに皿の縁へ置く。
「ここ数ヶ月で、明らかに数が増えています。しかも、以前のような烏合の衆ではない。より組織的で厄介な動きを見せています」
アルトが視線を上げる。次兄の言葉に同意するように。
「やはり、兄上もそう感じますか」
「違うよ、アルト。 『感じる』 じゃない。事実だよ」
セリオスが冷たく言い放つ。
「単なる飢えた連中が集まっているわけじゃない。裏で誰かが糸を引いて、まとめているのかもしれない」
そこで、レオニードが咀嚼を終え、静かに口を開いた。
「……“自由の盾”」
その名が落ちた瞬間、食卓の空気がわずかに鋭利なものへと変わった。ユウはその機微を見逃さない。
(……やはり、この国における重要なファクターか)
セリオスが重々しく続ける。
「仰るとおりです。 奴らを中心に、周辺の野盗や山賊が吸収され、まとまりつつあります」
「だからこそ……」
レオニードが淡々と、しかし決定事項として言葉を引き継ぐ。
「人員を増やすために士官学校の動員を早める。今後は見習いであっても、より積極的に討伐へ参加してもらうことにした」
それは相談や提案ではない。軍の上層部としての通達だった。アルトは一瞬だけ間を置き、フレッジの死という現実を飲み込むように小さく息を吸った。
「……承知しました」
迷いのない、はっきりとした返答。セリオスが呆れたように小さく息を吐き出す。
「やれやれ……どこも人手不足ですね」
「それについては否定しない。だが、敵の成長を待つ余裕もない」
それだけで、軍議のような会話は完全に終了した。
再び、食器が触れ合う音だけが室内に響き始める。ユウはその一連のやり取りを、黙々と肉を切り分けながら観察していた。
(……家族、か)
ユウの知る一般的なそれとは、根本的に構造が違う。根底に血の繋がりによる情は確かにあるが、最優先されるのは常に領主としての責務だ。会話は最小限で、決断は恐ろしいほどに速い。それぞれが盤面における自分の駒の役割を完全に理解し、それに徹している。
(……悪くない)
むしろ、極めて合理的だ。感情論で無駄な血を流す組織より、遥かに生存確率が高い。
そんなことを冷静に分析しながら、ユウはゆっくりと食事を口に運んだ。高価な食材なのだろうが、緊張のせいか味はよく分からない。それでも、この冷徹な食卓の空気に、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
やがて、食事の時間が静かに終わりへと向かう。
空になった食器が使用人たちの手によって手際よく下げられ、場を支配していた極度の緊張もわずかに弛緩する。レオニードが音を立てずに立ち上がった。
「以上だ」
それだけを言い残し、背を向ける。誰も引き止めない。長兄はそのまま、己の役目を終えたとばかりに静かに食堂を後にした。
閉ざされた扉の向こうへ遠ざかる足音を聞きながら、セリオスが小さく笑う。
「兄上は相変わらずだろ?」
誰に宛てるでもなく呟いた兄に、アルトはわずかに苦笑した。
「ええ、それが兄上の良さですから」
短く答える弟の横で、セシリアは行儀よく静かに視線を落としている。
ユウは椅子の背もたれに深く体を預け、天井の豪奢な装飾を見上げた。
(……ひどく面倒な盤面だ)
内心でそう毒づく。それと同時に。
(……退屈だけはしなさそうだ)
胸の奥で燻る、そんな確かな予感もあった。
こうして、見えない刃が交錯するような静かな食事は幕を閉じる。
このレイヴァルトという家、この国、そしてこの異世界における過酷な“現実”の輪郭が、ユウの中で少しずつ、だが確実に形を持ち始めていた。




