王国
アルトの私室は、屋敷の威容から受ける印象と同じく、極めて整然とした空間だった。
扉をくぐった瞬間に肌を打つのは、一切の無駄が削ぎ落とされた空気だ。広さは十分に確保されているものの、貴族の息子の自室にしては装飾が少ない。壁際には堅牢な本棚が規則正しく並び、軍学や地理、歴史書らしき分厚い本が隙間なく収められている。反対側の壁には、手入れの行き届いた剣と、鈍い光を放つ革張りの軽装鎧が掛けられていた。生活の場でありながら常に戦いへ備える場。それがこの部屋の正体だった。
「適当に座ってくれ」
アルトはそう言いながら上着を脱ぎ、無造作に椅子の背に掛けた。先ほどまでの張り詰めた指揮官としての顔から、幾分か緊張の解けた年相応の少年に戻っている。ユウは軽く室内を見回し、窓際に設えられた長椅子へ腰を下ろした。沈みすぎない硬質なクッションは、長時間座って思考を練ることを前提とした造りだ。
(……ようやく気が抜けるな)
肺の底に溜まっていた息を少しだけ吐き出す。アルトは机の上の水差しから硝子のコップに水を注ぎ、ユウへ差し出した。
「水だ。よかったら」
「……ああ」
受け取って、一口含む。冷たいが、ひどく硬い味がした。舌に残る微かな鉱物のえぐみが、この世界がユウの知る現実の延長線上にないことを、嫌でも突きつけてくる。向かいの椅子へと腰を下ろしたアルトが、短く息を吐いて腕を組んだ。
「さてと……お互いに、聞きたいことは山ほどあるはずだ。まずは、僕から説明しよう」
まっすぐな視線が向けられ、ユウは無言で頷く。
アルトは少しだけ言葉を選び、理路整然とした口調で語り始めた。
「改めて……ここはレイヴァルト王国。僕たちがいるのは、王国東部の『ルーヴェル』という街だ。王都からはやや離れているが、交通の要所として機能している」
淡々としているが、発音は明瞭で聞き取りやすい。
他者に状況を説明することに長けた、あるいは高度な教育を施された者特有の話し方だった。
「……王国の現状についても、簡単に触れておこう。この国は、僕が生まれる前まで、隣国の帝国と長く戦争をしていた」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が目に見えて重さを増した。
「結果として、戦争は終結したが、明確な勝敗は存在しない。両国ともに国力を削り合い、疲弊しきった末の停戦だった」
ユウは視線をわずかに細める。
「……痛み分けか」
「ただ、実態としては僕たちの方が消耗は激しかった」
アルトは静かに事実を連ねていく。
「王国は自国領内での防衛戦が多く、動員された兵の数も膨大だった。領地を守るためという名目で、農民や下級民までもが兵として徴用されたんだ」
その言葉の裏にある凄惨な犠牲の数は、歴史の定石を知るユウには容易に想像がついた。
「そして戦後、最も深刻な問題が残った」
アルトの声が、わずかに低く沈む。
「生き残って復員した兵士たちへ、十分な恩賞が与えられなかったんだ。……戦は終わったけど、彼らの生活は戻らない。耕す土地、就く仕事、帰る場所すらない者たちが街や街道に溢れた。結果として、治安は急速に悪化して、生きるために山賊や盗賊へと身を落とす者が爆発的に増えたんだ」
「……なるほどな」
歴史の必然とも言える惨状に、ユウは短く同意を示す。
「最初は個々に活動していた。統率もなく、その日を生きるための小規模な略奪が主だった……」
アルトはそこで一度言葉を切り、鋭い視線を投げかけた。
「だが最近になって、明確な変化が見られ始めている。奴らが『集団』で動くようになったんだ」
「組織化、か」
「その通りだよ」
アルトが深く頷く。
「中には、正規軍のような戦術的な動きを見せる集団も確認されている。隊列の維持、連携攻撃、不利な状況での撤退判断。いずれも素人のそれではない」
ユウは、数時間前の森での戦闘を思い起こす。
(……さっきの奴らは、確かに統率は甘かった)
だが、魔法を行使する個体が紛れ込んでいたことに強い引っかかりを覚える。
「さっきの連中は?」
ユウの問いに、アルトは少し考え込んだ。
「おそらく……違うと思う。現在、騎士団が追っているのは、より高度な統率が取れた集団だ。彼らは自分たちを『自由の盾』と名乗って活動している。今回の相手は、そこまでの練度には達していなかった。だけど――」
アルトの瞳に、指揮官としての警戒の色が濃く浮かぶ。
「魔道士がいた。これは決して無視できる事実じゃない」
「中途半端に混ざって、組織の規模を膨らませてるのかもな」
「その可能性は高い。もしくは、本命とは別系統の動きかもしれない」
そこで会話が一度途切れる。ユウは長椅子の背もたれへ深く身体を預けた。
「……だいたい分かった。じゃあ次に、お前のことを聞きたい」
アルトはわずかに眉を上げたが、すぐに姿勢を正した。
「承知した。僕はアルト・レイヴァルト。見ての通り、この屋敷を構える貴族の息子だ。父はレオンハルト・レイヴァルト。公爵の位にあり、この東部一帯の防衛と統治を担っている。もっとも、父上は重い病に倒れており……実権は兄上たちが握っている状況だけどね」
簡潔な自己紹介。
「兄がいるのか」
「ああ。長兄のレオニードと、次兄のセリオスだ。どちらもすでに家の中核を担い、政務と軍務を取り仕切っている」
アルトの口調に卑屈さはなく、三男という自らの立ち位置を当然の義務として受け入れているようだった。
「僕は、いずれ騎士となるために士官学校に所属している。形式上は学生という身分だが、実態は軍に組み込まれた見習い騎士といったところだよ」
「……実戦もこなすんだな」
「ああ」
短い返答だったが、それ以上の詳細は語られなかった。だが、その言葉の奥に、今日命を落としたフレッジという少年の死が重くのしかかっていることは火を見るより明らかだった。数秒の沈黙の後、今度はアルトが問いを投げ返す。
「では、今度はこちらの番かな。……君は、どこから来たんだい?」
逃げ場のないまっすぐな問い。ユウは一拍だけ間をおいて、事実を告げる。
「日本だ」
端的な回答に、アルトの眉がわずかに寄る。
「ニホン……王国の周辺図でも聞いたことがない国名だ」
「だろうな。この世界の国じゃなさそうだ」
アルトの動きが、完全に静止した。
「……別の、世界?」
「そうだ」
ユウは自らの生い立ちや、元の世界の在り方について、理解できる範囲で簡潔に説明した。剣や魔法の代わりに技術が発達していること、戦争の規模や形態が根本から異なること。全てを詳細に語るわけではないが、嘘は一切混ぜない。語り終えた後、アルトは未知の情報を脳内で咀嚼するように、長い間黙り込んだ。御伽話のような突飛な内容だ。しかし、目の前に座る男の瞳には、狂気や虚言の兆候は微塵も存在しない。
やがて、アルトはゆっくりと口を開いた。
「……にわかには、信じ難いね」
「だろうな。俺も逆の立場なら間違いなくそう思う」
ユウもあっさりとその疑念を肯定する。互いに完全に信用しきっていない、その奇妙に冷えた距離感が、今の二人にはむしろ自然で心地よかった。
そのとき、部屋の重厚な扉が控えめに叩かれた。
「――お兄様、よろしいでしょうか」
「構わないよ」
静かに扉が開き、セシリアが姿を現した。室内に足を踏み入れると、彼女はまずユウへ向けて優雅に一礼する。その洗練された仕草には貴族の令嬢としての気品が備わっており、血生臭い話に沈んでいた場の空気を一瞬で整えるだけの力があった。
「お邪魔……でしたか?」
「いや、ちょうど話が一区切りしたところだよ」
アルトの応えを聞き、セシリアは小さく頷いたものの、その表情はわずかに曇っていた。
「……先ほど、グレイから報告を耳にしました」
声音には、必死に抑え込もうとする不安が滲んでいる。
「……巡回中に被害が、出たようですね」
部屋の空気が再び重さを増し、アルトは目を伏せて短く答えた。
「……ああ」
それ以上の言葉は不要だった。セシリアは悲痛な面持ちでドレスの布地を握りしめ、その指先は白く変色するほど力が入っていた。
「どうして……どうして、彼らは山賊などになるのでしょうか」
誰を責めるでもない、虚空へ向けられた問い。ユウが視線を向けると、セシリアの顔には現実の泥水を知らないがゆえの、純粋な疑問が浮かんでいた。略奪者を断罪するわけではない。ただ、悲劇の連鎖を生み出す世界の構造そのものが理解できないという、無垢でまっすぐな表情。
「人から奪うことでしか、生きられないのでしょうか」
その言葉は、どこまでも澄み切っていた。ユウは一瞬だけ、その眩しさに視線を逸らす。
(……知らないのか)
いや、違う。この巨大な屋敷で守護される公爵家の令嬢として、最底辺の泥をすするような現実を知る必要がなかっただけだ。アルトが静かに口を開く。
「セシリア、それは――」
「いいえ、お兄様」
アルトの気遣いをやんわりと遮り、セシリアは気丈に顔を上げた。その瞳に迷いは存在しない。
「事情があることは、分かっています。……それでも」
一歩、踏み出す。
「だからといって、他者から命や財を奪うことが許されるとは思えません。どれほど苦しくとも、人として決して選んではいけない道はあります」
静かだが強い意志を持った声音に、部屋の空気が高く張り詰める。ユウはその言葉を正面から受け止め、ゆっくりと口を開いた。
「……理屈としては合っている。だが、現実はそう単純じゃない」
冷徹なまでの事実の提示。セシリアの視線がユウへと向き、ユウは背もたれに肩を預けたまま言葉を続ける。
「持たざる者は、そもそも選択肢が少ないんだ。極限まで飢えと絶望に追い詰められれば、まともな倫理的判断など機能しなくなる。今日を生き延びるか死ぬかの盤面に、高尚な道徳は存在しない」
感情を一切挟まない、残酷な盤面の解説。セシリアはそれを黙って聞き遂げた。否定の言葉を挟むことはないが、自らの主張を取り下げる気配もない。
「……それでも」
彼女は静かに、だが確固たる響きで言う。
「だからこそ、その現実を変えなければならないのではありませんか。そのような状況に人を追い込まない国に。誰もが、人として正しく生きられるように」
あまりにも美しく、あまりにも遠い理想論。だが、彼女の瞳には一切の濁りがなかった。ユウは小さく息を吐き出す。
(……眩しいな)
泥に塗れた底辺の現実を知っているからこそ、その綺麗事を真っ向から否定したくなる。だが同時に、その理想を信じ抜こうとする彼女の強固な芯を、完全には否定しきれない自分がいた。二人の極端な思想の対立を見て、アルトがわずかに苦笑を漏らす。
「……難しい話だね」
場を和らげるように言い添え、セシリアへ諭すように視線を向ける。
「ですが、理想を掲げること自体は決して間違いではありません。ただ、ユウが言うように、冷酷な現実から目を逸らさないことも、同じくらい重要です」
セシリアは唇を引き結び、静かに肯いた。ユウはそれ以上は何も語らず、ただ視線を窓の外の夕景へと逸らした。
三人の間に落ちた沈黙がひとつの区切りを迎えた頃、再び控えめに扉をノックする音が鳴った。
「失礼いたします」
扉の向こうから、波立ちのない落ち着いた声が響く。
「どうぞ」
ゆっくりと重い扉が開かれ、現れたのは侍女のエリナだった。美しく整えられた金色の髪が、室内に差し込む西日を柔らかく反射している。無駄を完全に削ぎ落とした動作で一歩踏み込み、静かに一礼する。その姿は、メイド服を纏っているだけで、本質的には厳しい訓練を積んだ兵士のように隙がない。だが同時に、過度な威圧感を与えない柔らかな空気を羽織っている。絶妙な均衡状態だった。
「お話中、失礼いたします。客室の準備が整いました」
簡潔な報告に、アルトは頷く。
「ありがとう、エリナ」
そのままユウへと視線を移す。
「ということだ。まずは、長旅と戦闘の疲れを癒してくれ」
「……そうさせてもらう」
ユウは短く答えて立ち上がる。一度深く腰を下ろしたことで、肉体の疲労が思っていた以上に蓄積していることに気づかされた。未知の世界の法則に対応し続けた精神への負荷はなおさらだ。立ち上がるユウに対し、セシリアが一歩前に出る。
「ご不便があれば、どうか遠慮なくおっしゃってくださいね」
柔らかく微笑む。だがその奥に、先ほどの議論の熱がまだ燻っているのをユウは確かに感じ取っていた。ユウは言葉を返さず、ただ軽く顎を引いて応えるだけに留めた。
「では、ご案内いたします」
エリナが静かに告げる。その声には一切の抑揚がない。冷酷なわけではないが、常に絶対的な距離感を保ち続ける鉄の意志を感じる。ユウは部屋の兄妹へ軽く視線を送り、そのままエリナの背中へと続く。
扉が閉じられ、廊下に出ると、分厚い石の壁に守られた屋敷の静寂がよりはっきりと鼓膜を打った。二人の靴音だけが、磨かれた石床に控えめなリズムを刻む。
「こちらでございます」
エリナは一度も振り返ることなく、一定の歩調で先を導く。その歩き方には一切の迷いや淀みがなく、巨大な屋敷の複雑な構造を完全に掌握している者の動きだった。しばらく歩いた後、ユウが沈黙を破る。
「……広いな」
素直な感想だった。薄暗い回廊は果てしなく長く、同じ意匠の扉が軍の兵舎のように規則的に並んでいる。
「それと、この屋敷には複数の使用人が常駐しております。日常の管理から夜間の警備まで、それぞれの役割は細かく分担されております」
「警備もしているのか」
「はい。公爵家ですので」
簡潔にして過不足のない説明。ユウは軽く鼻を鳴らした。
(……そりゃそうか。あれだけ敵を作りそうな立ち位置ならな)
再び沈黙が落ちるが、そこに気まずさは微塵もない。必要な情報だけを簡潔にやり取りするビジネスライクな空気が、ユウにとってはひどく心地よかった。やがて、ユウがふと問いを投げる。
「お前は、いつからここにいるんだ」
前を歩くエリナの肩が、わずかに揺れた。歩みは止まらないが、確実に何らかの心理的反応があった。
「……幼い頃より、こちらに仕えております」
前を向いたまま答える。声のトーンに変化はない。
「生まれも、この街か?」
「いえ」
短い否定。
「別の地方で生まれております」
それ以上の詳細は語られなかったが、ユウはためらわずにもう一歩踏み込む。
「……なるほどな、出稼ぎか?」
エリナの足が、ほんのわずかに止まりかける。だが、すぐに元の正確な歩調へと復帰した。
「……似たようなものです」
淡々とした返答に、感情の色は一切乗っていない。ただ事実としての過去を切り売りしているだけだ。ユウは少しだけ目を細め、彼女の後ろ姿を見つめる。
「……そうか、なんというか」
それ以上詮索することはやめたが、最後に一言だけ付け加えた。
「大変だったな」
作為のない、自然に出た言葉だった。上からの同情ではない。ただ、過酷な盤面を己の力で生き抜いてきた者に対する、事実の確認に近い響き。その言葉を受けた瞬間、エリナの足が今度は完全な停止を見せた。ゆっくりと振り返り、氷のように冷たく青い瞳が、まっすぐユウを射抜く。
「……そのように考えたことはありませんでした」
静かな声。同情への拒絶ではないが、迎合でもない。
「与えられた役割を果たしていく。ただ、それだけでございます」
徹底して事務的な回答だった。それでも、感情を排した言葉の奥に、彼女がこの屋敷で生き抜くために鍛え上げた鋼のような芯が、わずかに覗いた気がした。
「そういうもんか」
「はい」
短い応酬の後、エリナは再び前を向いて歩き出す。だが、歩みを進めながら、彼女は不意に静かな声で告げた。
「――それと、先ほどの話ですが」
「聞いていたのか」
ユウがわずかに眉を寄せる。エリナは振り返らず、歩調の乱れも一切見せずに述べる。
「理想を語ることは、決して無駄ではありません」
それは先ほどの部屋での、セシリアの言葉をなぞるような響きだった。
「ですが」
わずかな間の後、温度のない言葉が続く。
「現実を見誤ってしまうと、いずれ足元をすくわれてしまいます」
誰の感情も交えない冷徹な事実。それが『誰』に向けられた忠告なのか、ユウには明白だった。ユウは小さく息を吐き出す。
「……同意だな。優しいだけじゃ、誰も守れない」
エリナは肯定も否定もしない。だが、ほんのわずかに――ユウからは見えない角度で、彼女の張り詰めた口元が緩んだようにも見えた。
やがて、彼女は回廊の奥にある一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらでございます」
扉を開けると、そこはアルトの私室に比べれば装飾を抑えた簡素な造りだった。それでも、客室としては十分すぎるほどの品格と清潔さが保たれている。広々とした天蓋のないベッド、皺ひとつない真っ白なシーツ。西向きの窓からは、夕暮れの赤黒い光が斜めに差し込んでいた。
「必要なものは、一通り揃えているつもりです」
エリナが室内を示しながら説明する。
「何かご入り用がございましたら、近くの者へお申し付けください」
ユウは部屋の中をぐるりと見渡し、不備がないことを確認する。
「……十分だ」
軽く頷くと、エリナは貴族に仕える者としての完璧な所作で一礼した。
「それでは、ごゆっくりお休みください」
背を向け、扉の方へと向かう。その途中で、彼女はほんの一瞬だけ足を止めた。振り返ることはない。
「……無理は、なさらないように」
極めて小さく、ただその一言だけを空間に置き去りにした。それが客に対する使用人としての形式的な配慮なのか、それ以外の意味を含んでいるのか。ユウがその真意を判断する前に、分厚い扉は音もなく静かに閉じられた。
部屋に、完全な静寂が満ちる。ユウはしばらく扉の前に立ちつくしていたが、やがて重い足取りで進み、そのままベッドへと倒れ込んだ。上質なマットレスが柔らかく身体の重みを受け止めるが――。
(……落ち着かない)
腕を額に乗せ、見知らぬ石造りの天井を見上げる。知らない家、知らない街、次元の違う世界。山賊の跳梁、公爵家の内情、戦争が残した深い爪痕、そして常識を覆す魔法の存在。手に入れた情報を整理しようにも、現状の手札では全容を把握するには到底至らない。
だが、それらの事実以上にユウの脳裏に焼き付いているのは、この屋敷で出会った人間たちの顔だった。己の責務に苦悩するアルト、無垢な理想を掲げるセシリア、死の淵で眼光を放つレオンハルト、そして冷徹な仮面の奥に芯を隠すエリナ。それぞれが異なる立ち位置で盤面に立ち、異なる未来を見据えている。理想と現実。その間に引かれた、ひどく曖昧で残酷な境界線。
(……面倒な盤面だ)
小さく息を吐き、重い瞼を閉じる。肉体は泥のように疲弊しきっているはずなのに、意識の底が沈んでいかない。極限の緊張状態を維持したまま、戦術を練る思考だけがやけに冴え渡っている。それでも、今は強制的にでも休むしかない。明日は確実に、今日とは違う新たなターンが始まるのだから。そう無理やり思考を打ち切り、ユウは暗闇の中へ意識を沈めていった。
窓の外では、異世界での長い一日が完全に終わりを告げ、深い夜が屋敷を包み込もうとしていた。




