雌伏
絶望的な戦場から逃れ、ルーヴェル領を抜け出してから、すでに十日の月日が流れていた。
帝国の追手や、セリオスが放ったかもしれない討伐隊の目を掻い潜りながらの逃避行。それは決して容易な道程ではなかった。
見つかる危険の高い整備された主要街道や関所は避け、薄暗い獣道や、寂れた峠道を越えなければならない日々。初日の夜から降り続いた冷たい雨は彼らの体温を奪い、身分を隠すために手に入れた粗末なローブは、泥と埃ですっかり元の色がわからなくなっていた。
だが、軍人として厳しい修練を積んできたアルトにとって、この程度の強行軍は決して耐えられないものではなかった。腐ってもレイヴァルト家の血を引く武の徒である。足に疲労は溜まっていたが、歩みが鈍ることはない。また、幼い頃から野駆けや狩りに慣れ親しんでいるカインに至っては、息一つ乱していなかった。
この十日間の旅で、肉体的に最も割を食ったのはユウである。
異世界からやってきた現代日本の学生である彼にとって、舗装されていない悪路を何日も歩き続けるなど未知の苦行でしかない。足の裏にはいくつも水ぶくれができ、それが潰れては痛みを伴った。強大な魔法を素手で相殺した右腕にも、まだ微かに痺れのような疲労が残っている。
それでも、ユウは一度たりとも弱音を吐かなかった。「ちょっと休憩しようぜ」とカインが気遣って声をかけても、ユウは淡々と「まだ歩ける。日が出ているうちに距離を稼ぐべきだ」と返し、持ち前の異常なまでの意志の強さと冷静さで、二人にしっかりと食らいついてきた。
そして十日目の夕刻。
彼らはついに、王国の中枢――王都レイヴァルトへの玄関口にあたる宿場村『ファルケン』へと辿り着いた。
小規模な村だが、東部や西部から王都へ向かう主要街道の合流点に位置しているため、意外なほど人の往来が多い。荷馬車を牽く行商人、護衛の傭兵たち、巡礼の僧侶などが行き交い、夕闇が迫る村には宿と温かい飯を求める旅人たちの喧騒が満ちていた。
十日ぶりに見る「平和な人間の営み」は、血生臭い戦場をくぐり抜けてきたアルトたちにとって、ひどく現実離れしたものに感じられた。
村の端にある、古びた宿屋の一階。
酒場を兼ねたその薄暗い食堂の片隅で、アルトとユウは目立たないように深くローブのフードを被り、息を潜めて座っていた。店内には安酒の饐えた匂いと、獣肉を焼く脂の香りが立ち込めている。
テーブルの上には、固い黒パンと薄い塩味のスープが置かれていた。久方ぶりの温かい食事である。アルトが木のスプーンでスープを口に運ぶと、温かな液体が空っぽの胃の腑に染み渡り、強張っていた内臓が安堵するような感覚を覚えた。
だが、アルトは二口目を飲む前に、スプーンを持ったままピタリと動きを止めた。少し離れた席でエールをあおっている商人たちの会話が、否応なしに耳に飛び込んできたからだ。
「――聞いたか? 東部のルーヴェルで、悲報が続いたそうだ」
「ああ、王都の広場でも触れ回っていたな。少し前に、領主レオンハルト様が重い病で亡くなられたばかりだってのに。後を継いだ長兄のレオニード様まで……国境付近での帝国軍の奇襲に遭い、討ち死にされたと」
商人たちの無責任な言葉を聞き、アルトはフードの下で目を伏せた。
(父上が病に倒れ、帰らぬ人となったのは事実だ……。だが、兄上が不運な奇襲で討ち死にだと?)
「じゃあ、東の守りの要であるルーヴェルはどうなるんだ? 帝国に破られたら、王都まで一気に攻め込まれるぞ」
「いや、そこは次兄のセリオス様が上手く立ち回ったらしい。当主と長男を立て続けに失って混乱する陣営をまとめ上げ、見事に帝国軍の進軍を食い止めたそうだ。今は実質的な次期領主として、ルーヴェルを立て直しているという噂だぜ」
「ほう、あの若さで大したもんだ。レオンハルト様もレオニード様も立派な武人だったが、これからのルーヴェルはセリオス様の双肩にかかっているわけか」
アルトは無意識のうちに自身の拳で、テーブルを強く叩いていた。その衝撃にお皿の中のスープがわずかに跳ねる。
「……っ、セリオス……!」
怒りで立ち上がりそうになるアルトの腕を、向かいに座るユウがローブの下から素早く掴み、無言で制止した。
ユウの冷ややかな視線が「目立つな、抑えろ」と告げている。アルトは奥歯を噛み締め、再び深くフードを被って俯いた。血の滲んだ拳が、小刻みに震えている。
「推測通りだな。いや、予想以上に手回しが早い」
ユウが周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。
「親父さんの病死も利用し、帝国と組んで邪魔な兄を罠に嵌めて潰した。そして自分は『国を守った英雄』として振る舞いながら、ルーヴェルの実権を完全に握る。……完璧な筋書きだ」
血を分けた実の次兄による、あまりにも冷酷な支配。アルトは無理やり黒パンを千切り、スープで流し込んだ。味がしない。ただ、兄レオニードと老将シグルドの命を犠牲にして手に入れた地位でふんぞり返っているセリオスへの憎悪だけが、腹の底でドロドロと煮えたぎっていた。
そこへ、店主のマスターが空いたジョッキを下げるために通りかかった。ユウは自然な動作でフードをわずかに持ち上げ、愛想のいい笑みを浮かべてマスターに声をかけた。
「親父さん。俺たち、田舎から王都に出稼ぎに向かう途中なんだが……王都は今、随分と物々しい空気らしいな。さっきから商人たちが妙にピリピリしてる」
「おや、兄ちゃんたち、何も知らずに王都へ行くのかい?」
マスターは布巾でテーブルを拭きながら、周囲を気にしつつ声をひそめて答えた。
「今、王都は一触即発さ。国王陛下が病で倒れられてから、後継者争いで真っ二つになってる。武闘派の連中や軍の将校たちは、こぞってダリウス王子を推してる。ダリウス様は『力こそ国をまとめる絶対の法だ』って息巻いてるらしい。一方で、歴史ある貴族や文官どもは、聡明なリシェル王女を支持して名乗りを上げてる状況だ」
「なるほど。武のダリウス王子派と、政のリシェル王女派の真っ向勝負か」
「ああ。本来なら、東のルーヴェルを治めていたレオンハルト公爵と、西の巨大都市ローデリヒを治めるクロイツ公爵様……この二大巨頭がどちらの派閥につくかで決まるはずだったんだがな。お二人とも、ずっと沈黙を守って中立を貫いておられた」
(西の都市ローデリヒ、クロイツ・アーベント公爵……)
その名を聞いた瞬間、アルトの脳裏に、幼い頃に一度だけ父に連れられて会ったある老将の姿がフラッシュバックした。
分厚い鋼の鎧に身を包んだ、白髪の巨漢。顔には縦に走る深い傷跡があり、ただ座っているだけで周囲の空気が凍りつくほどの圧倒的な武威を放っていた。幼かったアルトは、その眼光に見据えられただけで息ができなくなり、思わず父レオンハルトの背中に隠れてしまったほどだ。
『西の軍神』と呼ばれるその男こそが、クロイツ公爵だった。あの男が動けば、王国の戦局など一瞬でひっくり返る。
マスターはそこで大きなため息をつき、布巾を肩に掛けた。
「だが、その均衡も崩れるだろうよ。レオンハルト様が亡くなられた今、新しくルーヴェルを仕切るセリオス様が、王子と王女、どちらの陣営に付くか……それでこの国の運命が決まっちまうかもしれねぇ。俺たち平民にとっちゃ、自国内部での紛争なんてまっぴらごめんだがな」
「……貴重な話をありがとう、親父さん」
ユウが懐から銅貨を一枚余分に出して渡すと、マスターは「気をつけてな」と嬉しそうに頷いて厨房へと戻っていった。
ユウは右腕を軽く回しながら、冷徹な目で状況を分析し始める。
「セリオスが王子派と繋がっているのはほぼ確実だ。奴がルーヴェル領主として正式に『ダリウス王子への支持』を表明すれば、リシェル王女派は圧倒的に不利になる。……王女が、俺たちの持っている情報に食いつく理由が、さらに強固になったな」
その時、酒場の木扉がギィと開き、雨水で濡れたローブを羽織った男が入ってきた。
その人物は周囲を鋭く見渡した後、足早にアルトとユウのテーブルにやってきて、空いている席に腰を下ろした。
「……どうだった、カイン」
アルトが小声で尋ねる。
カインはローブのフードを乱暴に脱ぎ捨て、ニヤリと笑った。
「安心しろ、追手の気配はねぇ。村の出入り口を見張ってる兵士はいたが、どうやら俺たちが、こんな辺境の村まで逃げ延びてるとは夢にも思ってないらしいな」
カインはテーブルの上の黒パンをふったくり、行儀悪く大きく齧り付きながら言葉を続けた。
「それに、王都までの足も確保したぜ。明日の朝一に出る、商人たちの乗合馬車に交渉して席を三つ確保してきた。ユウのなけなしの銀貨が飛んだけどな。身分証も、関所の兵士に袖の下を握らせる手筈を整えた。明日の昼過ぎには、王都の城門をくぐれるはずだ」
「よくやった。助かる」
ユウが短く労うと、カインは硬いパンを喉に詰まらせそうになりながら肩をすくめた。
「ったく、十日間もコソコソ隠れながら歩き通しだったからな。今日はようやく、まともな屋根の下で、しかもベッドで寝られるんだぜ。……腹に詰め込んだら今日はもう何も考えずに休もうぜ。明日からが本番なんだからよ」
カインの言葉に、アルトもようやく強張っていた肩の力を抜いた。
泥にまみれ、獣のように怯えながら逃げ続けた十日間。幾度となく折れそうになった心は、兄から託された命と、謎の集団に攫われたセシリアやエリナたち幼馴染を救うという執念だけで繋ぎ止められていた。
「……ああ。明日の王都入りに備えて、休もう」
その後、三人は宿の二階にある、カビ臭い小さな部屋へと通された。
ベッドは二つしかなく、座るだけで軋むような代物だったが、冷たい泥の地面に比べれば天国だった。カインは床に毛布を敷き、剣を抱き抱えるようにしてすぐに高いびきをかき始めた。ユウも壁際に寄りかかり、静かに目を閉じている。
アルトは一人、雨の打ち付ける窓枠に寄りかかり、漆黒の夜空の向こう――見えない王都の方向をじっと見つめていた。
つかの間の休息。だが、彼らが明日向かう先は、怪物のような帝国軍すら可愛く思えるほどの、人間の欲望と陰謀がドロドロに渦巻く「伏魔殿」である。
(待っていてくれ、セシリア、エリナ……)
(そして……、兄上の無念は僕が必ず晴らす……!!)
三人の逃亡者たちは、嵐の前の静けさの中で、決戦に向けて静かに牙を研いでいた。




