落日
降り止まない雨が、森の木々を激しく揺らしていた。
彼らの眼前には、ただ果てしなく続く灰色の豪雨があるだけだった。
アルト、ユウ、カインの三人は、深く暗い森の奥深く、巨木の根元に身を寄せていた。頭上の枝葉が雨脚をいくらか遮ってはいるものの、全身はずぶ濡れで、泥と血にまみれた衣服は彼らの体温を容赦なく奪い続けている。
しかし、彼らを震わせているのは雨の冷たさではなかった。
「……」
アルトは泥の中に両膝をつき、力なく項垂れたまま、自分たちが逃げてきた戦場の方角を虚ろな瞳で見つめていた。
耳の奥で、まだあの地を震わせる咆哮が鳴り響いている。戦場の喧騒をかき消し、天と地を繋ぐように放たれた、レオニードの声。それは絶望に抗う獅子の猛りだったのか、それとも最期の輝きだったのか。
「……誰もこねぇな」
カインが、巨木の幹に背を預けたまま呟いた。
その声はかすれ、恐怖と疲労でわずかに震えている。
カインの視線の先にある森の入り口からは、雨のカーテンが揺れるだけで、誰の姿も現れない。
追いついてくると言っていた兵士たちも。巨大な斧を持つ帝国将の前に立ち塞がった老将シグルドも。そして、あの咆哮の主であるレオニードも。待てども、待てども、現れない。追手の帝国兵すら、来ない。
「……まさか、全滅したのかよ……」
カインが両手で顔を覆った。指の隙間から、泥に混じって温かい涙が流れ落ちている。自分たちを逃がすために、あの絶望的な戦力差の中に飛び込んでいった仲間たち。彼らがどうなったかなど、想像したくはなかった。
「……シグルド様……兄上……ッ!」
アルトが泥まみれの両手で地面を掴み、ふらつく足で立ち上がった。その瞳には、焦燥と錯乱の色が濃く浮かんでいる。
「戻る……! 僕が戻らないと! シグルド様が、まだ戦っているかもしれない! 兄上が、怪我をして動けないだけかもしれないんだッ!」
アルトが戦場の方角へ走り出そうとした瞬間。
暗闇の中から伸びた腕が、アルトの肩を強く掴み、力任せに泥の中へ引き戻した。
「ぐはっ……! な、何をするんだユウッ!」
泥を啜ったアルトが顔を上げると、そこには氷のように冷たく、しかし底知れぬ重圧を宿した瞳で見下ろすユウの姿があった。
ユウの右腕は、先ほど魔法を素手で粉砕した反動で力なく垂れ下がっている。それでも、彼の左手はアルトの肩を強く掴んで離さなかった。
「……行けば死ぬ。それがわからないほど、お前は愚かだったか」
ユウの声は低く、冷徹だった。
「離せ! あの二人が、あの軍勢の中にいるんだぞ! 僕のせいで……僕を逃がすためにッ!」
「だからこそ行くべきじゃない」
ユウは短く切り捨てた。普段の冷静さを保ってはいるが、その声の底には押し殺したような震えがあった。
「……追ってこないのが答えだ。帝国軍すら追ってこないのは、あの二人が、そして兵士たちが、帝国の足を完全に止めたからだ。生死はわからないが、あの二人が、俺たちを追わせないために『残った』のは事実だ」
ユウはアルトの肩から手を離し、自らの右腕を左手で押さえた。痛みをこらえ、感情を制御する仕草だった。
「今お前が戻って、大軍の中に身を投げ出せばどうなる? あの二人の決死の覚悟は、文字通り無意味な犬死にになる。お前は、あの人たちの命を捨てる気か」
ユウの言葉は、鋭い刃となってアルトの胸を抉った。
図星だった。戻ったところで、今の自分に何ができるというのか。ただ、兄やシグルドの生死が「わからない」という恐怖に耐えきれず、戦場という狂気の中に身を投げ出そうとしただけなのだ。
「……ああ……あぁぁぁ……ッ!」
アルトは両手で泥を掻き毟り、声を上げて泣き崩れた。
泥水に塗れ、嗚咽を漏らしながら、彼はただ地面に額を擦りつけるしかなかった。カインは何も言わず、俯いて肩を震わせている。ユウは小さく息を吐き、巨木の根元に深く腰を下ろした。
森の中には、アルトの悲痛な泣き声と、無慈悲な雨音だけが響いていた。
それからしばらくして。
感覚が麻痺するほどの寒さと静寂の中、ようやく涙を枯らしたアルトが、ゆっくりと顔を上げた。
「……ユウ。これから、僕たちはどうなるんだ?」
掠れた声で問うアルトに、ユウは雨空を見上げたまま口を開いた。
「最悪だ。俺たちは今、物理的にも社会的にも『死』の淵に立たされている」
「物理的ってのはわかる。帝国の追手から逃げ切れなきゃ終わりだ。でも、社会的ってどういうことだよ?」
カインが顔を上げる。
「クラウスが最後に残した言葉を覚えているか? 『セリオス様が、ルーヴェルを制圧した』と」
ユウは冷徹に事実を整理していく。
「今回の帝国軍の動きは、あまりにも用意周到すぎた。水路の封鎖、補給線の切断、そしてこの挟み撃ち。……これらがすべて、セリオスの手引きによるものだとしたら?」
「兄上……セリオスが、帝国と手を組んで僕たちを罠にはめたって言うのか!?」
アルトの驚愕の声に、ユウは静かに頷いた。
「おそらく、セリオスはルーヴェル領の支配権と引き換えに、帝国にレオニードを差し出したんだろう。……もし俺がセリオスなら『レオニードは帝国へと王国の軍を売った』と報告する。はずさ」
「なっ……! ふざけんな! レオニード様が反逆者だなんて、そんな嘘が通るわけねぇだろうが!」
カインが激高して叫ぶが、ユウの瞳は冷ややかだった。
「通るさ。ルーヴェルという巨大な領地を握った者がそう証言すればな。俺たちは今、帰る故郷を奪われただけじゃない。……この王国全土から『国家反逆者』として追われる身になったかもしれないんだ」
その言葉は、三人から残されたわずかな気力さえも奪い去った。帰る家はない。守ってくれる大人もいない。王国軍すら、自分たちを敵と見なすかもしれない。
もはや、逃げる気力すら湧いてこない。このまま冷たい雨に打たれて死を待つのが、一番楽な道なのではないか。
そんな甘い誘惑が、三人の心に忍び込もうとした、その時だった。
「……王都へ、行こう」
泥だらけのアルトが、静かに、だが確かな声で言った。
ユウとカインが、驚いてアルトを見る。
アルトはふらつく足で立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの錯乱は消え去っていた。
「兄上は……あの咆哮の直前、確かに僕に『生きろ』と言ったんだ」
幻聴だったかもしれない。だが、アルトの魂には、あの力強い言葉が深く刻み込まれていた。
「ここで死ねば、兄上たちの覚悟は本当に無駄になる。……僕は、王都へ行く。国王陛下は病に伏せられていると聞く。ならば、王家の方へとお会いし、この地で起きた真実を伝える」
アルトは、強く拳を握りしめた。
「セリオスの裏切りも、帝国の侵攻も、兄上たちがどれほどの誇りを持って戦ったかも……僕が、直接伝えるんだ!」
アルトの言葉は、震えてはいなかった。
それは、兄に守られてばかりだった気弱な少年が、レイヴァルトという名と、それに殉じた者たちの「想い」を背負い、一人 の「領主」として立ち上がった瞬間であった。
「……第一王女、リシェル・アルセリア・レイヴァルトに、会うか」
ユウは巨木の根元に腰を下ろしたまま、アルトの言葉を反芻するように呟いた。その冷徹な瞳の奥で、彼の知略が再び高速で回転し始めているのがわかる。
「王都の政治状況を考えれば、それが唯一の活路かもしれない」
「ユウ、どういうことだ? リシェル殿下って……」
カインが怪訝な顔で尋ねる。
「現在、王都は病床にある国王に代わり、後継者を巡って激しい派閥争いが起きている。穏健派をまとめるリシェル殿下と、武断派を率いる王子派だ。……厄介なのは、お前たちレイヴァルト本家が血縁関係にあるのは『王子派』の方だということだ」
「どうしてリシェル殿下なんだ? 血縁の王子派を頼った方が話が早いんじゃないのか?」
アルトが戸惑うと、ユウは短く息を吐き、首を振った。
「逆だ、アルト。セリオスがレオニード閣下を裏切り、ルーヴェルを掌握できたのはなぜだ? ただの分家当主が、あそこまで鮮やかに本家を出し抜き、帝国軍を誘い込めるはずがない。その後ろ盾として、中央の『王子派』も絡んでいる可能性が高い。もし今、俺たちが王子派に泣きつけば、口封じのためにそのまま『反逆者』として首を刎ねられて終わりだ」
ユウはそこで言葉を区切り、アルトを真っ直ぐに見据えた。
「……だが、対立するリシェル殿下なら違う。セリオスと王子派の不正、そして帝国の侵攻を俺たちが証明できれば、それは彼女にとって最大の政敵を打ち倒す強力な武器になる。あえて敵対派閥の利益を利用する。だからこそ、リシェル殿下が俺たちの訴えに耳を貸す唯一の存在になり得るんだ」
王家の血みどろの派閥争い。ユウの突きつける現実は、あまりにも過酷で複雑だった。しかも王都までは、馬を駆っても数日はかかる距離がある。
「……金もない、馬もない、ろくな武器もない。あるのは『国家反逆者』という最悪の肩書きだけだ。王都への道のりは、地獄の逃避行になるぞ」
ユウの冷たい宣告に対し、しかしアルトの瞳は揺らがなかった。
「……わかっている。それでも、行くんだ。僕には、レイヴァルトの名に懸けて、兄上の汚名を雪ぐ義務がある」
その力強い言葉を聞いた瞬間、カインが弾かれたように顔を上げた。
「ちょっと待てよ! じゃあ、攫われたセシリアやエリナはどうすんだ!? あいつらを見捨てるってのかよ!」
カインの悲痛な叫びが森に響く。大切な幼馴染たちを謎の集団に奪われた悔しさが、泥だらけの顔に滲み出ていた。
アルトが唇を噛みしめるより早く、ユウが静かに口を開いた。
「カイン、冷静になれ。あいつらを見捨てるなんて、誰も一言も言ってない」
「だったら――!」
「攫ったのは誰だ? セリオスの手下か? いや、それなら俺たちごと殺すか、その場で捕らえているはずだ。あえて『彼女たちだけ』を、しかもあの混乱の中で鮮やかに連れ去った手口……帝国軍か、あるいは背後にいる王子派の暗部か」
ユウは冷徹に推論を立てる。それがのちに、彼自身の計算すら超えた「裏」を持っていたことに、この時の三人は知る由もなかった。
「いずれにせよ、奴らにとってあいつらは、俺たちをおびき出すため、あるいは今後の交渉を有利に進めるための重要な『人質』だ。用済みになるまでは、手荒な真似はされないはずだ」
「だからって、このまま指をくわえて見てろってのかよ!」
「今の俺たち三人だけで闇雲に動いても、返り討ちに遭って犬死にするだけだ。二人を無事に取り戻すためにも、俺たちには『力』が要る。リシェル殿下という、後ろ盾がな。殿下の力を借りて、王子派や帝国に揺さぶりをかけるんだ」
ユウの理路整然とした言葉に、カインは強く拳を握りしめ、ギリッと歯を食いしばった。頭では理解できても、感情がすぐには追いつかない。
アルトは、そんなカインの肩にそっと手を置いた。
「……カイン。僕だって、今すぐ助けに行きたい。でも、ユウの言う通りだ。兄上の汚名を雪ぎ、ルーヴェルを取り戻し、セシリアとエリナを救い出す。……そのすべてを成し遂げるための、王都行きなんだ」
アルトの瞳には、かつての気弱な少年の面影はなかった。そこにあるのは、大切な者たちを救い出すという強固な決意を宿した、一人の男の顔だった。
カインは、アルトのその顔を見て、小さく息を吐いた。そして、泥だらけの顔を歪めて、ニヤリと笑った。
「……やれやれ。お坊ちゃんのお守りは、もうこりごりだと思ってたんだけどな」
カインは木から背を離し、腰の剣帯を締め直した。
「でもまぁ、死んだレオニード様やシグルド様、それに攫われたあいつらに顔向けできねぇ。地獄の底まで、道を開いてやるよ。……全員まとめて取り戻すまで、しぶとく生きてやろうぜ」
「カイン……」
アルトの目がわずかに潤む。しかし、カインは照れ隠しのように鼻の頭を擦り、ユウの方を顎でしゃくった。
「で? お前はどうするんだ、ユウ。こんなお先真っ暗な人質救出と汚名返上の旅は、お断りか?」
ユウはしばらく黙っていた。
垂れ下がった右腕の痛みは引かず、体力の消耗も激しい。計算上、彼らが王都に辿り着ける確率は、限りなくゼロに近い。合理的に考えれば、ここで二人と別れ、一人でどこかへ身を隠すのが「正解」だろう。
だが、ユウはゆっくりと立ち上がった。
そして、濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、呆れたようなため息をつく。
「……お前と一緒にいると、計算外のことばかり起きるな」
ユウは、不敵な笑みを浮かべた。
「右も左もわからないこの世界に放り出された俺を、お前は拾ってくれた。……その借りを、まだ返しきっていないからな。それに、セリオスが王子派や帝国と組んで俺たちを嵌めたのだとしたら、奴らの思い通りに盤面が進むのは、どうにも俺の性に合わない」
「ユウ……ありがとう」
アルトが深く頭を下げる。
身分も、世界という出自も、性格も全く違う三人。だが、この極限の状況において、彼らを繋ぐ「絆」は、どんな血の繋がりや誓いの言葉よりも強固なものになっていた。
「よし。方針は決まった。まずはこの森を抜け、身を隠しながら王都へ向かおう」
ユウの指示に、アルトとカインが力強く頷く。
長かった雨が、ようやく小降りになっていた。
厚く垂れ込めていた雲の切れ間から、夜明け前の白み始めた空がわずかに顔を覗かせている。その薄明かりが、泥にまみれた三人の横顔を静かに照らし出していた。
アルトは、最後に一度だけ振り返った。
戦場のある方角。そこにはもう、煙も、怒号も聞こえない。ただ、冷たい風が木々を揺らす音だけが響いている。
(……行ってきます。兄上、シグルド様)
アルトは心の中で短く別れを告げ、前を向いた。
もはや、彼らの背中には迷いはない。
すべてを失った「落日」の地から、三人の逃亡者は、遥か彼方にある「希望」の地、王都を目指して歩き始めた。
足を踏み出すごとに、泥が跳ね、傷が痛む。それでも彼らは止まらない。
背負った命の重さと、託された獅子の誇りを胸に抱きながら。
濁流のような運命の果てに、何が待ち受けているのかは、まだ誰も知らない。ただ、今は歩き続けるしかなかった。




