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咆哮


その日は早朝から、天の底が抜けたかのような激しい雨が地上を叩きつけ続けていた。

乾ききった大地を穿つ雨音は、恵みというにはあまりに無慈悲で、戦場の至るところに底なしの泥濘を作り出し、鉄錆と血、そして死臭が混じり合った濃密な死臭を立ち昇らせていた。


そして時間は流れて時刻は夕刻。

夜の帳が降りる直前、灰色の世界はより一層その暗さを増していた。早朝から始まった王国軍と帝国軍の激突は、断続的に、そして凄惨に続いていた。当初は整然と並んでいた戦列も今や崩れ去り、戦場は敵味方が入り乱れる巨大な攪拌機と化している。


王国軍の本陣。かつては威容を誇ったレイヴァルトの陣旗も、今は雨を吸って重く垂れ下がり、無数の矢に射抜かれて無惨に引き裂かれている。

その中心、泥にまみれた大地に踏み止まるのは、わずか二百名の兵たち。数千の帝国軍という巨大な鉄の波に洗われ、削り取られ、それでもなお「獅子」の誇りを捨てなかった者たちであった。


レオニード・レイヴァルトは、亡き父より受け継いだ長剣を杖代わりに、泥の中に膝を突かぬよう辛うじて立っていた。全身の鎧は傷だらけで、隙間からは雨水と共に薄まった血が絶え間なく流れ落ちている。


ふと、レオニードの周囲を囲む帝国軍の動きが止まった。

数時間の猛攻の末、帝国側にも隠しきれない疲弊が見え始めたのか。あるいは、この死に体の少数を包囲し続けることに意味を見失ったのか。わずかに、だが確実に包囲の圧が緩んだ。

レオニードはその静寂を見逃さなかった。彼は重い瞼を上げ、周囲に寄り添うように立つ二百の兵たちを見渡した。


「……残ったのは、わずかこれだけか」


掠れた声。だが、その響きには深い慈愛が含まれていた。


「だが、これほど美しく、気高く、恐れを知らぬ者たちを、俺は他に知らぬ」


兵士たちは、泥と返り血に汚れた顔を上げた。絶望に沈んでいるはずの彼らの瞳には、不思議なほど澄んだ、静かな熱が宿っている。彼らは皆、悟っていた。自分たちがこの場所から生きて帰ることはない。しかし、自分たちの命を燃やし尽くすことで、別の場所で「火」が灯ることを。


レオニードはゆっくりと、折れんばかりの力を込めて剣を構え直した。雨水が頬を伝い、口の中に鉄の味が広がる。


「亡き父が⋯⋯そして、今まさに森を駆けているアルトたちが、俺の背を見ている。……これより我らは、ギデオンの首を獲りに行く。地獄への供は俺一人で十分だが……共に来たいという狂者はおるか!」


その言葉が二百の喉を震わせた。一人の兵士が、震える手で剣を突き上げた。続いて二人、三人。その熱は一瞬にして伝播し、豪雨を切り裂く地響きのような雄叫びへと変わる。


「地獄の果てまで、お供いたしますぞ、閣下!」


「レイヴァルトの盾は、最後の一枚まで砕けはしない!」


「獅子の誇りを、帝国の連中に刻みつけてやりましょう!」


二百の絶叫。それは死を待つ者の悲鳴ではない。運命に抗い、最期に一矢報いんとする戦士たちの咆哮であった。


「よかろう! これぞレイヴァルトの魂なり! ……推して参るッ!!」


レオニードを先頭に、二百のくさびが動き出した。

その圧力は、ここにきて一層激しく、鋭利になっていく。帝国軍の包囲を強引に突き破り、レオニードたちは敵の本陣――ギデオン皇子が座す場所を目指して、泥を蹴り立て、肉を斬らせて骨を断つ特攻を開始した。


だが、その猛進を遮るように、一際巨大な影が立ち塞がった。

地を裂くような足音と共に現れたのは、帝国の剛将ゾッド。人の背丈ほどもある巨大な斧を軽々と操り、一振りでレオニードの前衛兵たちを数名まとめて跳ね飛ばした。


「ひさしぶりじゃな。レオニード卿……」


ゾッドの低く濁った声が、雨音を貫いて届く。レオニードは肩で激しく息をしながら、目の前の巨漢を睨みつけた。


「帝国の将、ゾッドだな。その巨躯……俺の進路を塞ぐには、いささか邪魔だ。どけ、さもなくば斬る」


レオニードの言葉に、ゾッドは顔を歪めて笑った。その表情には、強者特有の残酷な愉悦が浮かんでいる。


「はっ! 吠えるな、獅子の紛い物が! その首、我が斧の錆にしてくれる!」


戦場に再び轟音が響いた。ゾッドの巨斧が空気を引き裂いて振り下ろされ、レオニードはそれを剣の腹で辛うじて受け止める。凄まじい衝撃。レオニードの膝が泥の中に数寸沈み込み、鎧の継ぎ目が悲鳴を上げた。


「ぐっ……重い。だが、俺が背負う家の重みに比べれば、羽毛も同然よ!」


レオニードは全身の筋肉を軋ませ、ゾッドの重圧を押し返した。死地にある男の筋力は、理屈を超えた爆発を見せる。剣を弾き返し、流れるような動作でゾッドの喉元を狙う一撃を放つ。再び剣と斧が正面から激突し、雨飛沫が火花と共に蒸発した。


「この男……いったいどこにこれほどの力を隠していた……!?」


ゾッドの瞳に、初めて驚愕の色が浮かぶ。圧倒的な体格差、そして疲労の蓄積。にもかかわらず、目の前のレオニードからは、底知れぬ圧力が放たれていた。

その激闘を少し離れた高台から見つめる、二人の男がいた。

王国軍師ヴィクトルと、帝国皇子の懐刀、ヴェラスコである。


「ヴィクトル・エルフェルト。君の計算は完璧だった。……私が君に与えた『前提条件』を、君が疑わない限りはね。実に惜しい男だ」


ヴェラスコは、すべてを掌の上で転がしているような、冷徹で優雅な笑みを浮かべていた。ヴィクトルは濡れて曇った眼鏡を外し、絶望を隠すようにその瞳を細めた。眼鏡を拭う気力も、今はもう残っていない。


「……ヴェラスコ。貴様の毒に気づけなかったこと、私の生涯における一生の不覚だ。だが、それは私の敗北であり、主君の敗北ではない」


「滑稽だ。君の主の命運は、今まさにゾッドの手によって終わろうとしている。貴殿らの勝率は、今やゼロになのだよ。君の愛する計算式が、そう告げているはずだ」


ヴェラスコが突きつけた現実は、ヴィクトルの知性にとって最も残酷な「正解」であった。だが、ヴィクトルはわずかに口角を上げ、静かに笑った。


「……フッ。数字は嘘をつかないが、人間は時として数字を超える。……俺の主が、それを今、貴様のその傲慢な瞳に焼き付けてやるはずだ。軍師として、私は最後まであの方を信じ抜く」


ヴィクトルの言葉に応えるかのように、戦場から新たな怒号が上がった。体力を使い果たしつつあるレオニードの頭上に、ゾッドの巨斧が、死の一撃として振り下ろされた瞬間――。


「若き獅子の道、容易く塞げると思うなッ!!」


雷鳴よりも鋭い一喝が響き、銀色の閃光がゾッドの斧を真正面から跳ね返した。泥を巻き上げて現れたのは、シグルド。

アルトたちを逃がした後、主君の危機を察して血路を逆走してきた老将であった。その姿は、長年の戦いの中で鍛え上げられた鋼の意志そのものであった。


「……老いぼれめ。どこから湧いて出た」


ゾッドが舌打ちをし、大斧を構え直す。


「久しいな小童……。どれ、一つ手合わせをしてやろうか。まだ『鉄槌』の重みを忘れてはおるまい?」


「(口角を吊り上げる)……王国軍の『鉄槌』シグルド。その剛力、衰えてはおらぬようだな。貴様の首なら、ギデオン殿下も喜ぶだろう」


ゾッドの言葉に、シグルドは不敵に笑った。


「貴公のような赤子の相手は、この老骨が相応しい。……閣下! ここは私がお引き受けします。……前だけを、あの傲慢なる皇子の首だけを見据えなされ!」


レオニードは一瞬、シグルドの背中を見つめた。その背は、幼い頃に見た父の背中のように大きく、頼もしかった。


「シグルド……! 恩に着る!」


「行かせるか!」


ゾッドがレオニードを追おうとするが、シグルドの「鉄槌」がそれを許さない。


「相手は私だと言ったはずだ。覚悟しなされ、帝国軍。お主のその不遜、このシグルドが叩き潰してくれよう!」


老将シグルドが帝国の剛将ゾッドを釘付けにし、その背後で立ち塞がる敵軍の壁を強引に引き裂いたその瞬間、レオニードの視界には一点の「光」が差し込んだ。

それは希望の光ではない。帝国の本陣を照らす、不気味なほどに整然とした魔導灯の冷たい輝きと、そこに座す絶望の象徴――帝国皇子ギデオンの姿であった。


レオニードは走った。もはや馬はいない。足元の泥は、一歩踏み出すごとに彼の体力を奪い、傷口を汚し、命を削り取っていく。それでも、彼の魂は折れていない。切り裂かれた紅のマントを雨の中にたなびかせ、彼は周囲から突き出される槍の森を、ただ一振りの剣でなぎ払いながら突き進む。


「道を、空けろォッ!!」


その咆哮は、もはや人間のそれではない。喉から血を噴き出しながら放たれる意志の塊であった。あまりの気迫に、訓練された帝国兵ですら一瞬の怯みを見せる。その刹那の空白を、レオニードは命を前借しにするような踏み込みで突破していった。

ついに、彼は辿り着いた。


豪華な装飾が施された、帝国本陣の天幕の前。そこには、激しい戦火の中にあって、一滴の泥さえも寄せ付けないような傲岸不遜な佇まいで、一人の男が椅子に腰掛けていた。

帝国の「死神」とも、あるいは「美しき略奪者」とも称される皇子、ギデオンである。


ギデオンは、目の前に現れた血塗れの「獅子」を見つめ、退屈そうに頬杖をついていた手を離した。彼はゆっくりと立ち上がり、腰に帯びた細身の、しかし凄まじい魔力を孕んだ名剣を抜き放つ。


「ようやく来たか。泥に塗れた獅子よ。その絶望に染まった姿、実に美しい。予の期待を裏切らぬ、無様な輝きだ」


ギデオンの声は、雨音を透き通るように通り抜け、レオニードの耳に届いた。レオニードは荒い呼吸を整えようともせず、泥に塗れた剣を正眼に構えた。


「待たせたな、ギデオン。……俺の首が欲しいのだろう? 直接奪いに来い。王国の獅子は、檻の中でも牙を研ぐのを忘れぬぞ。その喉元、食い破ってくれるわ」


レオニードの言葉に、ギデオンは唇を歪めて笑った。それは、最高級の玩具を手に入れた子供のような、純粋で残酷な笑みであった。


「無謀な獅子よ。その首、我がコレクションに加え、王国の腐敗を象徴する宝として飾ってやろう。安心せよ、その美しさは永遠に保ってやる。……来い、レイヴァルト。予に最期の愉悦を捧げよ」


「俺の首は高いぞ、帝国の皇子よ! 王国の意地、その身に刻んで去れッ!!」


刹那、二人の影が激突した。

一撃。レオニードの渾身の振り下ろしが、ギデオンの細剣によって受け止められる。凄まじい衝撃波が周囲の雨を吹き飛ばし、泥が円状に爆ぜた。

二撃、三撃。レオニードは力で圧し折ろうとし、ギデオンは流麗な動作でそれを受け流し、隙を突いてレオニードの肉を切り裂いていく。


「……ぐっ……あぁぁッ!!」


レオニードの身体を、ギデオンの剣が次々と深々と切り裂いていく。右肩から脇腹にかけて、そして左の太腿。溢れ出る鮮血が雨に洗われ、足元の泥を赤く染めていく。それでも、レオニードの足は止まらない。一歩退けば、そこで全てが終わることを彼は知っていた。


「どうした? それが獅子の力か。予を愉しませるには、いささか命の輝きが足りぬな」


ギデオンの冷徹な一刺しが、レオニードの胸当てを貫き、肺のすぐ近くをかすめた。口の端から鮮血が溢れる。視界が急速に白んでいく。腕は鉛のように重く、心臓は爆ぜんばかりに激しく鼓動を打っている。


(……まだだ。まだ、あいつらが逃げ切るまでは……俺がここで止まるわけにはいかない……!)


レオニードの脳裏に、幼い頃の記憶が走馬灯のように駆け巡った。

亡き父の背中。厳しいが優しかった母の微笑み。そして、いつも自分の後ろを追いかけてきた、出来の悪い、だが愛すべき弟、アルトの顔。


『兄上! 僕も、兄上のような立派な騎士になれますか?』


あの無垢な問いに、自分は何と答えただろうか。


(なれるさ、アルト。お前は俺よりもずっと、強く、優しくなれる……)


レオニードは残された全生命力を、その一点の想いへと集約させた。彼の身体から、陽炎のような、凄まじい「熱」が立ち昇り始める。


「おおおぉぉぉぉぉッ!!!」


死に瀕した獅子の、最後の一撃。

レオニードは防御を一切捨て、ギデオンの剣をその身に受けながら、最大の一振りを叩き込んだ。

ギデオンの瞳に、初めて微かな驚愕の色が走る。彼は細剣を盾にするように構えたが、レイヴァルト家の家門を背負ったその重みは、帝国の誇る天才の防御を強引に圧し潰した。


「……っ……やるな、獅子よ!」


ギデオンの身体が数歩、泥の中に後退した。その麗しい顔に、レオニードの放った一撃による掠り傷が刻まれ、一筋の血が流れる。しかし、それが限界であった。

レオニードの周囲を、数百、数千の帝国兵が槍を構えて包囲していた。ギデオンはわずかに肩を揺らし、流れる血を指で拭うと、冷酷な命令を下した。


「……飽きたな。殺せ」


無慈悲な宣告。四方八方から、容赦のない槍の穂先が、満身創痍のレオニードへと向けられた。一斉に放たれる突き。レオニードの身体に、無数の鋼の冷たさが突き刺さる。


「……が……ぁ……」


膝が泥に折れる。視界が真っ赤に染まり、降り注ぐ雨の音さえも遠のいていく。だが、レオニードは笑っていた。

彼の指先は、今も尚、剣の柄を離してはいなかった。

彼は、自分を貫く槍の森を見渡し、その瞳に最後の、そして最強の光を宿した。


「……これしきの槍で、獅子の魂まで貫けると思うな」


彼は、一人の兄として、一人の領主として、そして一人の人間として、己の「生」のすべてを叫びに変えた。

それはもはや声ではない。魂そのものを削り、大気を、大地を、そして理さえも震わせる、天上の雷鳴であった。


「……アルト、生きろ」


レオニードは、肺に残された最期の空気をすべて吸い込み、天を仰いだ。降り注ぐ激しい雨を飲み込むように、大きく、深く。そして、それは解き放たれた。


「オオオオオオオオオオオッ!!!」


その叫びは、衝撃波となって周囲の帝国兵を吹き飛ばし、降りしきる雨を瞬時に霧散させた。それは、凄まじい「獅子の咆哮ほうこう」であった。

その声は、泥濘の中を血路を求めて彷徨う兵士たちの足を止めさせた。

その声は、本陣で絶望に沈んでいたヴィクトルの背筋を伸ばさせた。

その声は、剛将ゾッドに「真の勇者」の姿を刻みつけた。


そして――。


遥か遠く、深い森の闇の中を、仲間の犠牲を背負い、泥にまみれて走り続けていた三人の耳に、その声は届いた。


「……っ!」


先頭を走っていたアルトが、糸を切られた人形のように立ち止まった。その震える肩。雨に混じって流れる熱い涙。


「兄、上……?」


カインとユウもまた、足を止め、背後を振り返った。

暗い森の向こう、自分たちが逃げてきた戦場の方角から、大地を震わせるような、あの懐かしく、そして何よりも力強い兄の叫びが聞こえてくる。

それは、自分たちを逃がすための「別れ」の声であり。

自分たちに未来を託すための「誓い」の声であり。

そして、レイヴァルトの誇りはここに死なずと宣言する、王国の獅子の最後の咆哮であった。


「……レオニード……」


ユウが低く、その名を呼んだ。

アルトはその場に膝を突き、雨に打たれながら、背後の空を睨みつけた。


「死なせない……。兄上が守ってくれたこの命、絶対に死なせないぞッ!!」


アルトの絶叫が、森の木々を揺らす。

兄の咆哮は、いつまでも、いつまでも彼らの心の中に響き続けていた。

雨が、すべてを洗い流すかのように、ただ激しさを増していった。

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