決別
真夏の熱気を、低く垂れ込めた灰色の雲が強引に押し潰した。
その日は朝から、激しい雨が降り注いでいた。乾ききった大地を無慈避に叩く雨音は、恵みというにはあまりに暴力的で、戦場の至るところに泥濘を作り出し、鉄錆と血の臭いを濃密に立ち昇らせた。
王国軍の陣地――
レオニード・レイヴァルトが陣頭指揮を執る本陣は、すでに瓦解の予兆に包まれていた。
雨に打たれた陣幕は重く垂れ下がり、排水の追いつかない足元は、足首まで浸かるほどだ。兵士たちは、滑る足元を踏ん張りながら、絶え間なく降り注ぐ矢の雨と、霧の向こうから聞こえる帝国の軍靴の音に怯えている。
「……前衛、崩れるな! 泥に足を取られるな! 盾を合わせろ、隙間を作るな! 我らはこの地の主、レオニード・レイヴァルトの剣であることを忘れるな!」
前線にいる指揮官たちの怒号が、重い雨音を切り裂いて響く。しかし、その声には焦燥と、死の恐怖が混じっていた。前方、深い霧の向こうから、三千を超える帝国軍の鉄軍が、黒い波となって押し寄せてきていた。
約一ヶ月の『凪』を経て解き放たれたその圧力は、一打一打が王国の防衛線を確実に、そして冷酷に削り取っていく。帝国が放つ、地を這うような進軍ラッパの音が、雨音を切り裂いて鼓膜を震わせる。それは、追い詰められた獲物を狙う捕食者の咆哮であった。
レオニードは、雨漏りのする本陣の天幕の中で、泥に汚れた地図を睨みつけていた。天幕を支える支柱が、強風と振動で悲鳴を上げている。傍らでは、軍師ヴィクトルが、濡れて曇った眼鏡を拭うことも忘れて、震える指で戦況図の駒を動かしていた。その指先は、微かに制御しきれない絶望に震えている。
「……おかしい。敵の展開速度、兵の配置、その全てが最適解すぎる。まるで、我々の手の内を最初から熟知していたかのような……。いや、それどころではない。この場所そのものが、我々を包囲し、圧殺するために選ばれた処刑場だ」
ヴィクトルの呟きは、理論という盾が砕け散る音だった。彼の脳裏には、自ら算出した九十二パーセントの勝利という数字が浮かんでいた。あの数字は、自分たちをこの死地へと釘付けにするための、甘美な毒薬だったのだ。さらなる絶望は、「背後」から駆け込んできた。
「報告! 後方、補給街道側より未確認の武装集団が出現! その数、およそ一千! 旗は『自由の盾』……! 彼らは我々の後備部隊を背後から蹂躙しつつ、この本陣へ迫っています!」
「なんだと!? あの賊共がなぜこれほどの規模で、しかもこのタイミングで現れる!」
レオニードが声を荒らげる。亡き父の遺志を引き継ぎ、常に堂々たる「若き獅子」として振る舞ってきた彼の顔に、初めて拭いきれない動揺の色が走る。
前方から三千、後方から一千。合計四千の敵兵に対して、王国軍は今や疲弊しきった状態となり、三千を切っている。さらに、後方からの攻撃は、自分たちが唯一信じていた「ルーヴェルへの退路」が完全に遮断されたことを意味していた。
「挟撃……。それも、これほどまでに完璧なタイミング」
ユウが絞り出すような声で言った。雨に濡れた髪が顔に張り付き、その瞳は冷徹な現実を映し出している。
「やられた。……これほどまでに見事な包囲網、単なる賊や帝国の独断とは思えん。内側に、糸を引いている奴がいる」
そう吐き捨てた後、前線からシグルドが一時退いて本陣へ戻ってきた。全身に返り血を浴び、雨に洗われながらも滲む赤が、老練な騎士の執念を感じさせる。しかし、その瞳にも、抗いようのない「終焉」の色が宿っている。さらにそこへ、陣地の柵を突き破るようにして、一頭の軍馬が転がり込んできた。
「……ぁ……」
馬から落ちたのは、もはや人間というよりは、泥と血を捏ね上げた無惨な塊のようであった。右肩には深々と矢が突き刺さり、愛馬は本陣に辿り着くと同時に絶命し、泡を吹いて横たわった。
「クラウス!?」
アルトが叫び、泥まみれの男に駆け寄る。数日前にルーヴェルへと発った、クラウス・ハルトマン。かつては家門の再興という野心に固執していた彼が、見る影もない姿でアルトの腕に縋り付いていた。何事かと察したその場にいた全員がその男の元へと集まる。
「……アルト様……。報告を……」
クラウスは、痛みに顔を歪めながらも、アルトの手を力強く振り払おうとした。その瞳には、死に瀕した者とは思えぬ、激しい意志の炎が宿っている。彼は胸を抑え、喉からせり上がる血を飲み下しながら、レオニードとユウを真っ直ぐに見据えた。
「……セリオス様が⋯⋯裏切った⋯⋯。ルーヴェルは……すでに⋯⋯制圧された。 補給も、援軍も⋯⋯来ない」
天幕の中に、凍りつくような沈黙が流れた。降りしきる雨音だけが、耳障りなほどに高く響く。王国の心臓部であり、彼らの本拠であるルーヴェルが、セリオスの裏切りによって陥落した。その事実は、今この場で戦っている兵士たちが、帰る場所を失った「孤立無援の棄て駒」になったことを意味していた。
「そんな、嘘だ!? 兄上が……兄上がそんなことをするはずがない! クラウス、何かの間違いだ!! 兄上は、負傷してルーヴェルで療養していたはずだ!」
アルトの絶叫が、虚しく雨音に溶けていく。しかし、クラウスは最期の力を振り絞るようにして、傍らに立つユウの襟首を掴み、その耳元で掠れた声を絞り出した。
「……ユウ、きみの疑念は正しかった……。あの男は、わたしの執着を利用して、きみたちを監視させていた。……地位も、誇りも、全部餌だ。……だが、私はもう嘘はつかん。……あとは、託す。……アルト様を……守れ……」
それだけを言い残すと、クラウスは糸が切れたように意識を失った。すぐさま、兵士達が駆け寄りクラウスは医療陣地へと運ばれていく。
ユウはその場に立ち尽くし、雨に打たれるクラウスの蒼白な顔を見つめた。自分の予感が、最悪の形で証明された。そして、その「嘘」を見抜けなかった報いを、今、数千の命で支払わされようとしている。
「閣下。……もはや、軍としての再編は不可能です。補給路は絶たれ、後方も塞がれた。ルーヴェルが敵の手にある以上、我々に退く場所はありません」
ヴィクトルの声は、冷たい雨よりもさらに乾いていた。
「降伏しましょう。ギデオン皇子、あるいは……セリオス卿へ。ここで全滅するのは、王国にとって、そしてこのレイヴァルト家にとって、最大の損失でしかありません。……屈辱は承知の上です。軍師である私が全ての責を負い、交渉の矢面に立ちます。私の首一つで、兵たちの命が救えるなら安いものです」
ヴィクトルは、自身の眼鏡を外し、絶望を隠すように顔を覆った。しかし、ユウはさらに一歩踏出し、レオニードの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「生存を優先すべきだ、レオニード。あんたが生き残れば、まだ再起の目はある。ここで死んでは、セリオスの思う壺だ。アイツはあんたがここで無様に散ることを、あるいは帝国への手土産になることを望んでいる。死んでしまえば、真実を暴くことすら叶わない」
レオニードはゆっくりと立ち上がった。天幕の隙間から吹き込む冷たい風が、彼の髪を乱す。しかし、彼の瞳には、かつての若者の面影はなかった。そこにあるのは、すべてを悟った男の深淵のような静寂だった。
「……降伏して、どうする?」
その問いは、軍師たちの提案を、根底から突き崩す重みを持っていた。レオニードの問いは、雨音を切り裂く雷鳴のように天幕の中へ突き刺さった。
降伏――それは最善の選択肢に見えるが、この場にいる者たちの誰もが、それが「生」に直結しないことを本能で悟っていた。
「ギデオンという男を、俺は知っている。奴にとって戦いは神聖な遊戯で、敗者に与えるのは慈悲ではなく、完全なる家畜化だ。そして、我が弟、セリオス……」
レオニードは腰の剣をゆっくりと引き抜く。抜き放たれた白刃が、天幕に漏れる微かな光を反射して冷たく煌めく。
「奴がこの盤面を描き、長い時間をかけて俺たちをこの処刑場へ誘い込んだ。そこに、俺を生かしておくような『抜け穴』など用意しているはずがない」
レオニードは目を閉じ、その場にいるもの全員を説き伏せるように続ける。その語気は決して強くないが、その胸にある誇りは保たれたままだ。
「降伏したとて、俺はレイヴァルト家の誇りを剥ぎ取られ、セリオスの新秩序を正当化するための、無様な見せしめとして処刑されるだけだ。ならば、ここで剣を握ったまま果てるのと何が違う? 亡き父が、そして我が家系が守り抜いてきた名誉を、奴らに売り渡すことなどできぬ」
そういい切った指揮官へ、言葉を返したのは意外な人物であった。
「それでも⋯⋯!!」
いつも冷静に物事を数値として判断する男。ただ、事実だけを見てその場の最適解を模索するヴィクトル・エルフェルト。
「一縷の望みがあるなら賭けるのが軍師の役目です! 死んでしまえば誇りも何もない!」
いつもとは異なる魂の叫び、レオニードの裾を掴もうと一歩踏み出した。しかし、レオニードはその手を力強く、しかし静かに制した。その手の甲には青筋が浮かび、抑えきれない怒りと、それを上回る覚悟が滲んでいた。
「ヴィクトル。誇りは、時として命より重い」
レオニードは自身への苦境に立ってもなお、忠義を尽くす者の肩を叩いた。その発言と行動で全てを悟ったヴィクトルは、その場へと膝を落とした。若き獅子は一拍置き、優しく弟へと語りかける。
「……アルト」
レオニードは、泥にまみれて呆然と立ち尽くす弟の方を向いた。その瞳は、厳しい領主のものではなく、かつて幼い弟と遊んでやった時のような、一人の兄としての慈愛に満ちていた。
「アルト。俺が死んでも、レイヴァルト家の誇りを絶やすな。お前が、次なる獅子となれ」
「兄上……何を、言っているんですか。一緒に帰りましょう! ルーヴェルがダメなら、王都へ向かいましょう! 僕も、ここで一緒に戦います! 兄上を置いて逃げるなんて、そんなこと……そんなことできるわけがないッ!!」
アルトの声は涙で掠れ、激しい雨音に掻き消されそうになる。
彼はレオニードの肩を掴み、必死にその体を引き寄せようとした。
「ならぬッ!!!」
レオニードの一喝に、天幕が揺れた。アルトはその覇気に、射すくめられたように動きを止める。
「お前は、ユウやカインと共に、この戦場から逃げろ。これは当主としての、そして兄としての命令だ。……二人とも、アルトを頼む。こいつを死なせるな。いつか来るときのために、お前たちのその知恵と牙を、今は温存しろ」
自分の強さ、思い、誇り、それら全てをここにいる若者たちに託すように、レオニードは言葉を続ける。
「お前たちは『負け戦の犠牲』ではない。この地の、王国の『再起の種』だ。ここで死ねば、誰がセリオスの、帝国の非道を正す? 誰が、拐われた者たちを救い出すのだ?」
レオニードの言葉に、カインは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、ゆっくりと、重々しく頷いた。彼はアルトの肩を背後から掴み、その場に繋ぎ止める。
「……分かった。貴族様の理屈は分からんが、ここで全滅するのが一番の無駄だってことくらい、俺にも分かる。……アルト、行くぞ。これ以上ここにいても、レオニード様の足手まといになるだけだ」
「離せ、カイン! 兄上を見捨てて行けるか! 離せよ!」
暴れるアルトを、カインが力ずくで抑え込む。その様子を見届けたレオニードは、静かに傷だらけのシグルドへと振り返る。老将は、すでに覚悟を決めた顔で、主の次の言葉を待っていた。
「シグルド。……済まぬが、老体に鞭を打ってもらう。学生たちが包囲網を突破し、戦場から外れるまでの間、彼らの支援を頼めるか? 背後の『自由の盾』を切り裂き、退路を確保してほしい。お前の武勇があれば、奴らの囲いなど紙同然だ」
シグルドは、深く、重い溜息を吐き、それから満足げに微笑んだ。その表情には、長年仕えた家門の終焉を悟った男特有の、晴れやかで悲痛な覚悟が宿っていた。
「……学生どもの子守ですか。柄ではありませんが、いいでしょう。しかし、殿は私が務めます。閣下こそ、彼らと共に森へ消えなさい。レイヴァルトの家名は、貴方が背負うべきだ」
「言ったはずだ。俺は、獅子の息子だと。父上がこの地を守るために戦い抜いたように、俺もまた、この地で果てるべきだ」
レオニードは不敵に笑った。その顔は、一ヶ月前の若き指揮官ではなく、死地を自らの終焉の地と定めた、誇り高き領主の顔であった。
「前線は俺が支え、が先頭に立つ。ギデオンの首を狙う構えを見せれば、敵の注目は全て俺に集まる。その隙に、お前たちは南の森を抜けて王都を目指せ。……シグルド、これでも獅子の息子だぞ。無様に背中を見せて死ぬような真似はせん。……これほど面白い戦場、他にはなかろう?」
「……閣下の御意志、確かに。このシグルド、命に代えて学生たちを逃がしてみせましょう。……そして、私もまた、務めを果たした後は閣下の傍らで果てる栄誉を頂戴したく存じます。一人で逝かせるには、貴方はまだ若すぎる。地獄への道連れに、一人の老兵くらいはお連れください」
シグルドは膝を突き、その分厚い掌でレオニードの足元に忠誠を捧げた。その誓いは、雨音よりも重く天幕に響いた。
「フッ、欲張りな老人だ。……ヴィクトル。兵たちを集めろ。全軍に、予の最後の言葉を伝える。残りたい者だけを、予の傍らに」
ヴィクトルは、溢れそうになる涙を堪え、震える手で眼鏡を掛け直した。
「……閣下。私は、常に数字で世界を測ってまいりました。感情など、演算を狂わせる異物だと考えていた。ですが……私は、数字では決して測れない、あなたのその愚直なまでの一本気な人柄を……傲慢でありながら、誰よりも民を、兵を思うその心を……心から慕っておりました。あなたの軍師であったことを、誇りに思います」
「ヴィクトル。お前の計算はいつも正しかった。間違えたのは俺だ。……だが、最後に一度だけ、俺のわがままに付き合え」
雨の中、残存する全兵士が本陣前に集められた。降りしきる冷たい雨が、彼らの顔から生気を奪い、泥が肌を覆っている。レオニードは高い演壇に立ち、絶望に沈む兵たちを見渡した。
「兵士諸君! よく聞け! ……我々は裏切られた。帰る場所は、ルーヴェルは、反逆者の手に落ちた。前には帝国の三千、後ろには叛徒の一千。我々は、死の罠の中にいる。もはや援軍はない。補給もない。我々は、この地に捨てられたのだ!」
兵士たちの間に、波紋のように動揺と嗚咽が広がる。しかし、レオニードの声は一際高く、力強く、そして透き通るような響きを持って雨空を貫いた。
「だが、俺はここで逃げることも、降伏することもしない! この地の領主として、レイヴァルト家の当主として、最期の一兵まで戦う! 誇りを抱いたまま、獅子の牙を帝国に突き立て、奴らの記憶に我らの意地を刻み込んでやるつもりだ!」
レオニードは一息つき、さらに声を張り上げた。
「……だが、無理強いはせぬ! 生きて家族の元へ帰りたい者は、今この場で武器を置け! 俺はそれを逃亡とは呼ばん。生きて、いつか来る再起の日のために牙を研ぐことも、また王国のための戦いだ! ……だが、もし俺と共に、レイヴァルトの最後を、獅子の誇りを見せたいという者がいるならば――地獄の果てまで共に歩むことを約束しよう! 俺の命は、今日、諸君らと共に捧げるものとする!」
沈黙が流れた。叩きつける激しい雨の音だけが響く中、一人の兵士が、震える手で、しかし力強く剣を突き上げた。続いて二人、三人。
「レオニード閣下と共に!」
「獅子の意地を見せろ!」
「レイヴァルト、万歳!」
絶望は、一瞬にして狂熱へと変貌した。死を覚悟した人間の放つ、最後にして最大の輝きが、暗雲の下で激しく燃え上がる。アルトは、兄のその姿を、目に焼き付けようと見開いた瞳から、雨に混じって流れる涙を止めることができなかった。
「誇りを忘れるな」
その言葉が、自らの血肉となって染み渡っていくのを感じた。それはあまりに重く、呪いにも似た、しかしこの上なく気高い継承であった。
「さぁ、行け。アルト。ユウ、カイン。……振り返るな。俺の戦いを見届けようなどと思うな。前だけを見て、生きる道を探せ。……いつか、この地を、王国を取り戻せ」
レオニードが、泥に汚れ、雨に濡れた深紅のマントを翻して前線へと歩き出した。その背中は、かつてないほど大きく、そして美しく、孤独であった。
「……決別。……行こう。この死を無駄にしないために」
ユウが、低く、しかし冷徹なまでの決意を込めて呟いた。ユウたちは、絶叫し、何度も兄の名を呼ぶアルトを左右から抱えるようにして、泥濘の中を、レオニードとは逆の方向へと走り出した。
シグルドは、学生たちを導くように先頭で剣を振るい、後方から迫る「自由の盾」の戦列に、凄まじい咆哮と共に突っ込んでいく。背後からは、王国軍の最期の突撃を告げる、獅子の咆哮のような角笛の音が、雨空を突き抜けて響き渡っていた。
帝国の軍勢と正面から衝突する凄まじい金属音、そして男たちの最期の雄叫び。
それは、一つの時代の残酷な終わりと、血塗られた逃避行の始まりを告げる音であった。降りしきる灰色の雨は、すべてを飲み込むように、ただ激しさを増していった。




