灰雨
真夏の茹だるような熱気を、重く垂れ込めた灰色の雲が強引に押し潰していた。
その日は珍しく、朝から激しい雨が降り注いでいた。
乾ききった大地を叩く雨音は、恵みというには暴力的な激しさで、ルーヴェルの街を覆う不吉な空気を塗り潰すかのように轟いている。
ルーヴェル地の深く、湿った岩肌が剥き出しになった監獄は、地上の雨水を吸い上げて不気味な冷気を放っていた。
壁を伝う水の滴りが、静寂の中で一定の刻みを打っている。
カリナ・エルフェルトは、冷え切った石床に腰を下ろし、鉄格子の向こう側の暗闇を見つめていた。
手首を縛る無機質な鉄鎖が、彼女が動くたびに耳障りな音を立てる。
彼女は、街のすべてが崩壊し始めた「昨日」の出来事を、痛みを伴う鮮明さで振り返った。
昨日の朝までは、すべてがいつも通りだった。
事務官として政庁に赴いたカリナは、前線から送られてきた戦況報告を整理して、会議の準備をしていた。会議には後方で戦場を支援しているセリオスや補給物資の調達をしている内政官達が参加している。
前線からの帝国軍の攻勢が弱まっているという吉報に、会議室にはわずかながらの希望さえ漂っていたのだ。しかし、その安寧は静寂を切り裂く重苦しい軍靴の音によって唐突に終わりを告げる。
「……何事ですか、会議の最中ですよ」
そう咎めようとしたカリナの視界に飛び込んだのは、儀礼用ではない、実戦装備に身を固めた兵士たち。さらに異様なのは、その後に続いて部屋に入ってきた一部の貴族が、憎悪に顔を歪ませて剣や槍といった武器を手にしていた。
「これは一体……!?」
カリナの問いに、誰も答えなかった。
その時、セリオスが無機質な視線を窓の外へ向け、指を差した。そこには、地獄のような光景が広がっていた。
街のあちこちで「自由の盾」の紋章を掲げた兵士たちが暴走し、それに扇動された民衆が、破壊の渦に呑み込まれている。
暴動が起きたのであった――。
「な……! これはどういうことですか!?」
その言葉に不敵な笑みを浮かべながら、うっすらと答えるセリオス。
「全て予定通りだ。カリナ」
セリオスの声には、長年聞き慣れた優しさの欠片もなかった。
「予定通り……!? 仰っている意味が分かりません」
会議室の入り口にだけ数人の兵を配し、乱入者たちは吸い寄せられるようにセリオスの背後へと集まっていく。その光景は、彼が最初からこの惨劇の「中心」であったことを示していた。
「セ、セリオス様……!?」
「これより、我々は民の味方となる」
セリオスが淡々と宣言したその瞬間、会議に参加していた一人の貴族が椅子を蹴って立ち上がった。
「血迷ったか!! セリオス!!」
怒声が響く。だが、セリオスが微かに顎を動かすと、一人の兵士が音もなくその男へ近づいた。冷徹な銀閃が走り、発言者は言葉を失ったまま床に切り捨てられる。机の下に敷かれている絨毯が急速に赤黒く染まっていく。
「な、なぜこんなことを! 正気ですか! セリオス!!」
目の前の惨状に、カリナは叫んだ。しかし、返ってきたのは氷のように冷たい言葉だった。
「狂っているのは王国の方だ、カリナ」
それが、セリオスが彼女に向けた最後の言葉だった。その後、現れた者たちによって反発するものは斬り伏せられ、しなかったものは拘束され、この地下へと監禁された。以降、彼女はこの地下の監獄へ放り込まれ、一睡もできぬまま雨音を聞き続けている。
(兄上……あなたは、その正しすぎる頭脳ゆえに、悪意という名の毒を飲み干してしまう。嘘を嘘と見抜く術を持たないほどに、あなたは『事実』を信じすぎている……)
カリナの兄であるヴィクトルは、完璧な理論と数値を積み上げ、最善の策を練っている。しかし、その土台が反逆者の手によって腐らされていることに気づかなければ、積み上げた勝率は、そのまま死の淵へのカウントダウンとなる。
「……誰か、兄上を……そして、セリオスを止めて……」
密かに想いを寄せていた男の冷徹なまでに美しい横顔を思い出し、カリナは声を震わせた。彼がこれ以上、取り返しのつかない深淵へ落ちてしまわぬよう、届かぬ祈りを捧げるしかなかった。
ルーヴェル政庁の最上階。
かつては王国の安寧を議論した広壮な執務室で、セリオス・ルーヴェル・レイヴァルトは、雨に煙るルーヴェルの街並みを窓越しに見下ろしていた。
雨に打たれる街の様子は、一晩で一変した。
「無能なレオニードを討て!」「兵を飢えさせる貴族を吊るせ!」という狂乱じみた怒号が地響きのように街を揺らし、暴徒と化した市民たちが広場を埋め尽くしている。王国に対する義賊「自由の盾」が煽った不信の炎は、今や市民自らがレオニードの首を望むほどの巨大な憎悪へと成長している。
「……ユウ。お前が仕掛けた火攻めは、実に見事だった」
セリオスは独り言のように呟き、薄い唇を吊り上げた。
帝国軍の補給路を焼き払ったあの策は、戦術的には王国軍の勝利だった。しかし、セリオスはその「事実」に巧妙に毒を混ぜ、民衆に「自分たちの食料が前線の贅沢を維持するために焼き払われた」と信じ込ませたのだ。
「管理され、整理された数字ほど、民を騙すのに適した武器はない。クラウス、お前の真面目さも、この暴動の最高の燃料になった」
混沌を極める街を見つめながら、セリオスはふと、懐から古びた家紋入りのペンダントを取り出した。それはかつて、まだ幼かったアルトが、兄である自分を慕って贈ってくれたものだった。
セリオスの指先が、微かに震えている。レオニードの堂々とした背中。アルトの屈託のない笑顔。血を分けた兄弟を、自らの策で死地へと突き落とすという事実に、胸の奥で鋭い痛みが走る。
かつて共に過ごした温かな日々の記憶が、今の自分を裁くように蘇る。
「……兄上。⋯⋯アルト」
掠れた声が、無人の室内に消える。彼はその痛みを無理やり押し殺すように、ペンダントを握りしめた。
「だが、お前たちのやり方では、この国は救えん。……泥を被り、血を流すのは、『オレ』の役目でいい」
一瞬だけ瞳に滲んだ悲しみを、彼は冷酷な仮面の下に封じ込めた。窓に映る自分の顔を、セリオスは満足げに見つめた。
そこにいるのは、かつての忠義の臣ではない。王国の腐った幹を切り倒し、その上に自らの座を築こうとする、冷徹な簒奪者の顔だった。
「……ッ、動け……! 止まるなッ!」
灰色の雨が降り注ぐ街道を、クラウス・ハルトマンは泥にまみれながら疾走している。愛馬の蹄が跳ね上げる泥が、彼の顔を容赦なく汚していくが、今の彼にそれを気にする余裕など一欠片もなかった。クラウスの脳裏には、数ヶ月前にセリオスから受けた密命が、忌まわしい記憶としてこびりついていた。
『アルトとユウを監視しろ。あの得体の知れない少年が、余計な知恵を絞らぬようにな。任務を全うすれば、ハルトマン家の地位を復活させてやろう』
かつてのクラウスは、その言葉にすがりついた。
家門の没落に怯え、己の環境に絶望していた自分にとって、それは救いの手に見えたのだ。だが、今ならわかる。セリオスは単に、追い詰められて利用しやすい自分を選んだに過ぎなかったのだ。
「俺は……ただの駒だったのか……ッ!」
政庁で捕らえられそうになった際、セリオスが自分に向けたあの冷ややかな眼差し。そこには功臣を労う色など微塵もなく、使い古された道具を捨てるような無関心しかなかった。
背中に受けた矢傷が、冷たい雨に打たれて熱く、そして鈍く疼く。意識が朦朧とする中で、彼の脳裏を去来するのは、前線に置いてきた「戦友」たちの顔だった。
カインに託した、補給の管理。アルトに告げた、物流のプロとしての自負。そして、ユウに教えられた、「嘘をつかない」という決意。
「レオニード閣下も、アルト様も……騙されている! あの数字は、全部奴が仕組んだ罠だ!」
かつての彼は、自分の地位と、机上の数字だけが世界のすべてだった。しかし、あの「西の谷」での戦いを経て、彼は知ったのだ。数字の裏側には、泥にまみれて戦う人間たちの血と、託された想いがあることを。
今の彼を突き動かしているのは、地位の復活などという浅ましい欲望ではなく、信じて背中を預けてくれた仲間を救いたいという、剥き出しの意志だった。
(ユウ……お前の言った通りだ。沈黙は、最大の嘘だった!)
一ヶ月の停滞。
それは、セリオスがルーヴェルの掌握を完了させるために、帝国が与えた「空白」だったのだ。前線の陣地まで、あと数里。
しかし、雨のカーテンの向こう側――。
最前線の空気が、明らかに震えていた。一ヶ月の沈黙を破り、ついにその牙を剥いた帝国軍が、地平線を埋め尽くす黒い波となって、無防備な王国軍の前線へと雪崩れ込んでいる。
「間に合え……間に合ってくれ……ッ!」
クラウスの絶叫は、降りしきる激しい雨の音と地を這うような帝国の進軍ラッパの轟音に、無残にも掻き消されていった。




