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西の谷を焼き尽くしたあの鮮烈な紅蓮の炎から、一ヶ月が流れていた。

かつて補給路を執拗に脅かしていた帝国の遊撃部隊は、あの日を境に霧が晴れるように姿を消した。

街道には王国軍の重厚な軍靴の音が絶えず響き、物資は滞りなく前線へと流れ続ける。

ユウたちが仕掛けた「情報」は、帝国の手足を完璧に縛り付けたかのように見えた。


本陣を包む空気は、一ヶ月前の悲壮感が嘘であったかのように様変わりしている。

アルトたち士官学生が後方の煩雑な実務を肩代わりしたことで、支援作業に忙殺されていた熟練兵たちは、次々と最前線の戦闘部隊へと配置換えすることもできた。

兵の厚みを増した王国軍は、失地回復を掲げた「総攻勢」の準備を、隠しきれない高揚感と共に進めていた。


「……状況は極めて良好と言わざるを得ません」


最前線の作戦天幕。

ヴィクトルは、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、卓上に広げられた緻密な集計表を指し示した。

彼の指が示す数字は、残酷なまでに明確な「勝利」を予言していた。


「直近一ヶ月の帝国軍の活動効率は以前と比較して六十八パーセント低下。対して、我々の前線配置兵力は配置換えにより四十二パーセント増加。補給路の安定により、武器弾薬の充足率は九十五パーセントを超えています。これら全ての数値を演算に組み込んだ結果、現時点での正面突破による勝利確率は、控えめに見積もっても九十二パーセントを超過しました。今こそ、一気に決着をつけるべき好機です」


ヴィクトルの淡々とした、抑揚のない報告が、天幕に満ちる楽観に揺るぎない理論的な裏付けを与えていく。

周囲の幕僚たちが興奮に顔を上気させる中、最奥に座るレオニードは、黄金の鬣を揺らすように腕を組み、深く唸った。

レオニードは決して無能ではない。

むしろ、数多の修羅場を潜り抜けてきた名将である。

ヴィクトルの出す数字の正確さを信頼し、勝利への確信を持ちながらも、彼の武人としての本能が、深海の底から響くような微かな警鐘を鳴らしていた。


「兄上、何か気になることが?」


アルトが問いかけると、レオニードはわずかに眉を寄せ、地図の向こう側――帝国の本陣があるはずの地平を見据えた。

そこには、ただ静まり返った闇が広がっている。


「数字に嘘はないのだろう。だが、あまりにも出来過ぎている。セリオスは、敵の指揮官ギデオンは『冷酷無比な化け物』と称していた。その化け物が、一ヶ月も無策で俺を待つものか。……だが」


レオニードは一度言葉を切り、アルトを真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、指揮官としての威厳と共に、弟を案じる兄としての色が滲む。


「これ以上の膠着は不要と結論づける。敵の狙いが何であれ、今の我々にはそれを上回る圧倒的な戦力が揃っている。ここで攻勢に出なければ、救える命も救えなくなる。アルト、お前ももそれを望んでいるのだろう?」


「⋯⋯はい、兄上。それに帝国だけではなく、セシリアやエリナを一刻も早く探しださなければ⋯」


アルトは唇を噛み締め、答えた。

脳裏には、最後に見た彼女たちの顔が焼き付いて離れない。

レオニードは力強く頷く、自信はあるが、その裏側にある不気味な沈黙への違和感を、彼は「全軍突撃による早期決着」という答えで塗りつぶそうとしていた。


「シグルド、ヴィクトル。全軍にて総攻撃の準備を進めておけ。帝国軍に、王国の伝統を教えてやる。……アルト。士官学生達にて後方の憂いを断ち、万全の態勢で臨め」


軍議が解散した後、アルトは冷たい夜風に吹かれながら自分の天幕へと戻った。

中に入ると、既にカインとユウが待っていた。

カインは椅子を逆向きに座ってナイフの手入れをしており、ユウは卓上の戦況図を食い入るように見つめたまま動かない。

一ヶ月という時間は、彼らに共通の焦燥を刻んでいた。


「……一ヶ月、か」


アルトが零した言葉に、二人が顔を上げた。


「セシリアとエリナが連れ去られて、もう一ヶ月も経ってしまった。二人は、今どこでどんな思いをしているのか……」


「……無事でいてくれ。それだけを毎日祈っている」


ユウの言葉は平坦だが、その瞳には暗い熱が宿っていた。


「膠着状態は、俺たちにとっても辛いが、相手にとってもチャンスなはずだ。だが、一向に動きがない。……これが一番怖い。まるで、こちらが罠にかかるのを待っているようだ」


「俺も左右の森まで深く潜ったが、帝国兵の気配がまるでない。退いてるのか、潜んでるのか……。どちらにせよ、嫌な風が吹いてやがる」


カインが短く吐き捨て、ナイフを鞘に収めた、その時だった。

天幕の入口から焦ったようにこちらへと向かってくる音が鳴る。


「大変だッ!! 数字が、合わない⋯⋯っ!」


天幕の入り口を激しく跳ね上げるようにして、クラウス・ハルトマンが飛び込んできた。

常に完璧に整えられている灰色の髪は、馬を飛ばしてきたためか無惨に乱れ、その手には数枚の伝令文書が握りしめられている。


「どうした、クラウス。そんなに慌てて」


アルトが駆け寄るが、クラウスの視線は天幕の中にいた三人を順番に捉えた。

その瞳にあるのは、かつての選民意識ではなく、自らの聖域である「物流」を汚された実務家としての、激しい怒りと焦燥だった。


「アルト様。……そしてカイン、ユウ。聞いてくれ。異常事態だ」


クラウスは、自分が毎日送り続けていた定期伝令の控えを、卓上に叩きつけるように広げた。


「三日に一度、定刻通りに届くはずのルーヴェルからの補給部隊が、半日を過ぎても現れない。……それだけなら、事故も考えられる。だが、致命的なのは私の送った伝令への反応だ。昨日までは、形式的な受領報告だけは返ってきていた。だが、今日送った三通の伝令――その全てが、音沙汰なしだ。戻ってきた馬も、送り出した兵もいない。……昨日まで繋がっていた『道』が、物理的に消滅したかのような、完璧な沈黙だ。戦場より後方で、決定的な『断絶』が起きている!」


「一週間分の備蓄はと聞いているが、そういう問題じゃないんだな?」


ユウの問いに、クラウスは血を吐くような思いで頷いた。


「ああ。数字の帳尻が合わないまま、二日後の総攻撃に踏み切るのは自殺行為だ。……後方で、何かが起きている」


クラウスは卓の上に置いていた泥だらけの手袋を掴み上げ、震える指先で乱暴に手を通した。その仕草には、もはや貴族の優雅さはなく、現場に立つ男の切迫感だけが宿っている。


「私はルーヴェルに戻ってくる。誰の差し金か知らんが、後方で起きているこの異常を、この目で確かめてくる。数字を正さなければ、前線は飢えて死ぬ」


クラウスはまず、アルトに向かって深く頭を下げた。


「アルト様。士官学生を束ねる貴方へ、ここを託したく存じ上げます。……申し訳ありませんが、独断で後方へ向かう私をお許しください」


次に、クラウスはカインを真っ直ぐに見据えた。以前の彼であれば考えられないほど、真剣な、対等な男としての視線だった。


「カイン。……お前に、私の領分を託したい。私が不在の間、この前線の物資管理と、わずかに残る補給ルートの監視をお前が引き受けてくれ。お前の現場での嗅覚は、私のような机上の人間にはないものだ。……頼めるか?」


カインは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。


「……へっ、随分な無茶振りだ。いいぜ。お前が戻ってくるまで、一袋の麦も無駄にさせねぇよ」


「……恩に着る」


最後に、クラウスはユウを見た。

その表情には、自らの「正しさ」を証明しようとする強い決意があった。


「ユウ。君に言われた通り、私はもう自分の仕事に嘘はつかない。だからこそ、この状況がたまらなく嫌な気配がするんだ。……皆を頼む。必ず、何か掴んで戻ってくる」


「……ああ。気をつけろよ、クラウス。深追いはするな」


ユウの言葉を背に、クラウスは少数の騎馬と共に夕闇に包まれ始めた後方へと駆け去っていった。

クラウスが去った後の天幕には、重苦しい静寂だけが残った。

天幕の外からは、総攻撃にて敵を討ち果たすと信じて笑い合う兵士たちの声や鋭く研がれる剣が石を擦る音が、皮肉なほど明るく響いている。


「……ユウ、兄上には報告すべきかな」


アルトの問いに、ユウは燃え盛る火を見つめながら答えた。その横顔は、彫刻のように硬く冷えていた。


「いや。ヴィクトルの『勝利確率九十二パーセント』が支配している今のあの場では、証拠なしに攻撃を止めさせることはできない。……むしろ、伝えれば軍の士気を乱すだけだと、逆に謹慎を食らうのがオチだ。今は、信じて待とう。クラウスの報告と……カイン、お前は偵察を」


「ああ。……嫌な風が吹いてやがったな。セシリアたちのこともある……無茶は承知で、今夜は一睡もせずに森を洗ってやるよ」


カインが静かに天幕を後にする。

その背中を見送るアルトの胸中には、形のない巨大な不安が渦巻いていた。

一ヶ月間の「勝利」という名の甘い夢。

それが、ギデオンという巨大な捕食者が、王国軍を一網打尽にするために敢えて与えた慈悲の時間に過ぎなかったという真実に、彼らはまだ届かない。


その夜、アルトたちは一瞬たりとも眠れなかった。

前線の遠くから帝国の進軍を告げるような、地を這う重厚な角笛の音が静寂の彼方から聞こえた。凪は終わった。

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