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猶予


西の谷を焼き尽くした紅の炎は、数刻が過ぎた今もなお、遠く離れたガルディア帝国軍の本陣から、夜空を赤く染める不気味な薄煙として観測できた。


帝国軍の巨大な天幕の中は、戦場とは思えぬ静寂と、暴力的なまでの威厳に支配されている。

卓上に広げられた羊皮紙の地図上には、先ほどまで「必勝」の地点に置かれていた黒檀の駒が、近衛兵の手によって一つ、また一つと盤外へ取り除かれていく。

それは谷から立ち昇る絶望的な煙の色を、無機質に裏付ける作業だった。


「……計算が、合わない」


空白の目立つ盤面を覗き込み、細長い指先で顎髭をなぞりながら、男は恍惚とした溜息を漏らした。銀の燭台に照らされた青い髪が、氷のように冷たく輝く。男の名はヴェラスコ・シドニア。

帝国軍が誇る軍略の天才。その知略は神域に達していると評されるが、その本質は「確率」という名の狂信に憑りつかれた狂人であった。

背後の闇から、一人の伝令が歯の根も合わぬ声で報告を絞り出した。


「ほ、報告いたします! 西の谷へ投入した遊撃部隊、信号弾の返信……途絶。現地の煙量から推測するに、部隊は全滅。……王国軍の火計によるものと思われます」


ヴェラスコはその報告を、至高の旋律でも聴くかのように目を閉じて受け入れた。


「王国軍には、これほどの規模の火種も魔法兵も残っていないはずだ。ましてや、我が軍の遊撃ルートを正確に看破するなど、確率論的に万に一つもあり得ない」


彼は再び目を開くと、駒が消えた谷の入り口を、羽ペンの先で愛おしげにじりじりと撫でた。


「面白い。……私が書き換えたはずの『真実』を、さらに上から塗り替えた者がいる。この盤面、私が知らぬ間に何者かが駒を動かしているようだ」


ヴェラスコの唇が、獲物を見つけた獣のように吊り上がる。

兵の命など、彼にとっては数式の変数に過ぎない。

その計算を狂わせる「未知の知性」との邂逅こそが、彼にとって何よりの至福であった。


「ヴェラスコ、相変わらず理屈が長いわ。……少しはその口を閉じんか」


重厚な鎧が擦れる不快な音が、天幕の空気を押し潰すように響いた。

帝国軍随一の猛将、ゾッド・バウアー。

顔面に刻まれた無数の戦傷を歪め、男は腰に下げた巨大な戦斧の石突きを床に叩きつけた。彼が踏み出すたびに、最高級の絨毯に深い足跡が刻まれる。


「谷の部隊が全滅したなら、策は失敗よ。そんな小細工はいらん。明日、ワシが先陣を切って王国を物理的に粉砕してやるわい」


ゾッドの声は、巨大な岩石が削れるような低い唸りだった。

彼にとって戦いとは知略ではなく、純然たる質量と暴力の衝突である。

その血走った瞳が、即刻の出陣を無言で訴えていた。


「控えよ」


その一言で、天幕の空気が瞬時に氷結した。

最奥に置かれた豪華な椅子に深く腰を沈めていた若者が、ゆっくりと顔を上げた。


――ガルディア帝国第一皇子、ギデオン・フレイ・ガルディア。


その容姿は、泥にまみれた戦場にあってそこだけが別の法則で支配されているかのような、過剰なまでの美しさに満ちている。

腰まで伸びた深紅の長髪は、まるで流れる血を煮詰めたような輝きを放ち、彼が動くたびに生き物のように揺らめいた。

陶器のように滑らかな白い肌。そして何より見る者を戦慄させるのは、その黄金の双眸だ。溶けた金のように美しいが、そこには生命の温度が一切存在しない。

対象をただの「物質」として値踏みするその視線に、ヴェラスコもゾッドも本能的な恐怖を覚え、言葉を失った。

ギデオンが立ち上がると、天幕の空気が物理的な重圧を伴って圧縮された。かつて自らの地位を確固たるものにするため、能力に秀でた他の兄弟たちを一人残らず「排除」し、血の海を渡って覇道を歩んできた男の気配。


「ヴェラスコ。予は、不確定要素を楽しめるのは、勝利が確定した後の『敗者』に対してのみだと言ったはずだ」


「……御意にございます、殿下」


ヴェラスコは即座に恭しく頭を垂れた。狂気の光を瞬時に消し去り、主君に仕える忠実な猟犬の顔に戻る。


「ゾッド。貴公の蛮勇もまた、予の剣として必要だ。だが、予の許しなく吠えるのは無礼ぞ。……次は、その舌を抜く」


「はっ……。承知、いたしました」


ゾッドの巨体が戦慄に震え、その場に片膝をついた。

ギデオンの言葉には、抗いようのない絶対的な「命令」が宿っていた。

ギデオンはゆっくりとした足取りで作戦卓へと近づいた

。漆黒の絹に金の刺繍が施された軍服と、真紅の重厚なマントが彼の歩みに合わせて不気味に翻る。


「ふむ。ルーヴェルの犬どもも、ようやく牙を剥くことを覚えたか。……だが、それは予の歩みを止める理由にはならぬ」


ギデオンは、地図上の「西の谷」に、白く細い指先を置いた。


「この敗北は、王国軍に『帝国に勝てる』という毒入りの希望を植え付けるだろう。奴らは自らの知略に酔い、守りを固め、勝利を確信してその場に留まり続ける。……それこそが、予の望んだ形よ」


ギデオンの瞳に、極北の氷山のような冷酷な光が宿る。


「まだ時間を稼ぐのだ。奴らが『束の間の勝利』という幻に酔いしれている間に、内部の腐敗は完成し、包囲網は閉じられる。ヴェラスコ、ゾッド。全軍に命じよ。明日より一ヶ月、前線は膠着を維持せよ。……牙を研ぐのは、予が合図を下すその瞬間まで待て」


「……御意。王国の心臓部に埋め込んだ種が、どのように芽吹くか……今から楽しみでなりません」


「一ヶ月、耐え忍びます。……その後、王国軍どもをまとめて粉砕してやりますわい」


ギデオンは作戦卓の上に置かれた王国軍の駒を、指先で無造作に弾き飛ばした。

駒は床に落ちるよりも速く、彼から放たれた微かな魔力の余波によって、音もなく粉々に砕け散り、霧散した。


「小賢しい知略で予の目を欺いた代償は、死よりも深い屈辱で払わせてやる。……遊びは、もう終わりだ」


天幕を揺らす冷たい夜風が、赤髪の皇子の外套を大きく翻した。

王国側が反撃の狼煙だと信じた火計は、帝国が最悪の策を完遂させるための猶予を彼らに買い与えたに過ぎなかった。


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