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反撃

西に位置する深い谷の底は、昼間であっても光を遮る鬱蒼とした木々の天蓋に覆われ、常に陰鬱な湿気を孕んでいた。

這い寄るような霧が立ち込める薄暗い街道に、四台の荷馬車が立ち往生している。


前日の雨をたっぷりと吸い込んだ泥濘が車輪を深く飲み込み、もはや進むことも退くこともかなわない。

恐怖に駆られた御者たちが馬を捨てて逃げ去り、残された馬車は不気味なほどの静けさを漂わせていた。

その張り詰めた静寂を破ったのは、森の奥から音もなく現れた黒い影の群れだった。

――帝国軍の遊撃部隊である。


機動力を生かした足の速い軽装備の歩兵たちは、周囲を警戒しながらも、身動きの取れない獲物をぐるりと包囲した。彼らの顔には、確かな情報に裏打ちされた余裕と、狩りを成功させたことへの残忍な笑みが浮かんでいた。手に入れた極秘情報の通り、王国軍の補給部隊は護衛も少なく、いとも容易く網にかかったのだ。


部隊長らしき男が長剣を無造作に振り上げ、荷台を覆う分厚い幌を乱暴に切り裂いた。しかし、そこにあるはずの食料や武器の束を見た瞬間、男の動きが石像のように完全に硬直した。


「……なんだ、これは」


引き裂かれた幌の奥に積まれていたのは、黒々とした粘り気のある液体をたっぷりと吸い込んだ藁の束と、わざと蓋を打ち抜かれたひび割れた油樽の山だった。

隙間からドクドクと流れ出す液体が泥濘と混ざり合い、鼻を突くほど強い油の匂いが、風の通らない谷の底に急速に充満していく。


「罠だ! 退けッ!」


血の気を失った男の絶叫が、警告として谷中に響き渡る。だが、その声は両側を高く挟み込む崖の上から唐突に降り注いだ風切り音によって、無惨にも掻き消された。

時計の針は、この罠が仕掛けられる数日前に戻る。

ルーヴェル軍本陣の薄暗い天幕の中では、静かなる謀略が練られていた。軍師クラウス・ハルトマンが、真新しい純白の手袋をゆっくりとはめながら、卓の上に広げた羊皮紙を冷徹な双眸で見下ろしていた。


「私が組み上げた『偽の枯渇データ』を、どうやって帝国の軍師まで届けるかが問題です」


クラウスの問いに、天幕の柱に背を預けていたユウがフラットな声で答えた。


「特別なルートを通す必要はない。『通常の定期報告』に紛れ込ませて、ルーヴェルの後方司令部へ堂々と送ればいいんだ」


「……正規の報告書として、ですか?」


「ああ。ルーヴェルには、確実に内通者がいる。奴らは公式の書類を誰にも怪しまれずに閲覧できる立場だ。わざわざ不審な動きをしなくても、お前が送った数字を奴らが勝手に横流ししてくれる」


内通者が誰であるにせよ、情報が流れる「水路」が判明しているなら、そこに極上の毒を流し込めばいい。


「なるほど」


クラウスは意図を理解して冷たく口角を上げ、羽ペンを走らせた。


「ならば、極端な偏りを作り出しましょう。西の山岳地帯に布陣している部隊。ここの物資が『明日の正午に完全に底を突く』という数字にします。帝国がこの数字を見れば、我々は何が何でも明日までに、最短ルートである『西の深い谷』を通るしかないと推測するはずだ」


「完璧だ」


と、カインが力強く頷く。


「場所と時間が絞れれば、あとは狩るだけだな。敵は警戒を潜り抜けるため、足の速い軽装歩兵を少数だけ送り込んでくる」


「なら、馬車にはたっぷりと油と藁を積んで谷底に置き去りにしておく」


ユウが、盤面の勝敗を確定させるように淡々と言い放った。


「俺たちは、崖の上で火種を持って待機する。敵が群がってきたところに、一斉に火を放つんだ。この前やられたことの、そっくりそのままお返しだ」


そして現在。

薄暗い谷の底に、すべてを焼き尽くす圧倒的な熱量が生まれようとしていた。

崖の上、木々の影に伏せていた王国軍の兵たちが、油を浸した布を巻いた矢に次々と火を点ける。チリチリと燃える小さな火種が、闇の中に浮かび上がった。最前列で指揮を執るアルトが、冷たい風の中で静かに手を振り下ろす。


「放て」


無数の火矢が、谷底へ向かって美しい弧を描きながら降り注ぐ。

矢が油をたっぷりと吸い込んだ荷馬車に突き刺さった瞬間、轟音とともに爆発的な勢いで炎が燃え上がった。

撒き散らされた油を伝って炎は瞬く間に這い広がり、谷底は一瞬にして逃げ場のない業火に包まれ、昼間のように赤く染まる。


「退け! 散開しろ!」


「火を消せ! 魔法兵を前へ――ッ!」


帝国軍の遊撃部隊は、凄まじい熱波と黒煙の中で完全に恐慌状態に陥っていた。

機動力を優先した軽装であることが災いし、彼らは肌を焼くような炎の熱を直接浴びることになる。

重い鎧を着ていないため本来ならすぐに逃げ出せるはずだったが、周囲を猛烈な炎の壁に囲まれ、退路を断たれた地形では自慢の脚力も意味を持たない。


さらに、崖の上からの追撃は火矢だけではなかった。

炎の照り返しを受ける岩陰から、カインをはじめとした士官学生たちが次々と巨大な岩や丸太を蹴り落とし、谷底で逃げ惑う敵を物理的にすり潰していく。


「あいつら、自分たちが『知っている』と思い込んでたからこそ、罠を疑いもしなかったな」


崖の上から燃え盛る谷底を見下ろしながら、ユウが平坦な声で呟いた。

情報という見えない武器の恐ろしさを理解しているがゆえの言葉だった。その隣で、アルトが剣の柄を固く握りしめている。


「ああ。情報で出し抜かれたなら、情報で叩く。クラウスの記録が、彼等を誘導したんだ」


谷底で暴れ狂う炎は、帝国軍の遊撃部隊を容赦なく呑み込む。

これまで、見えない情報の優位性によって王国軍を一方的に蹂躙してきた彼らの余裕は、炎が爆ぜる音とともに完全に灰と化していた。


「これで終わりじゃない」


アルトが、強い決意を込めた目で前線の方角を見据えた。


「これはただの始まりだ。僕たちが盤面の主導権を取り返したという、開始の合図に過ぎない」


暗い谷底を焼き尽くす炎は、裏切り者の影に怯えていた王国軍にとって、反撃の夜明けを告げる確かな光となっていた。

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