表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

60/70

贖罪


近郊深い谷間には、夜明け前から肌を刺すような冷たい霧が立ち込めていた。

車輪がぬかるんだ土を深く抉り、限界まで軋みを上げる重苦しい音が、白く煙る谷の底に響く。

進んでいるのは五台の荷馬車だ。

御者を務める王国軍の兵士たちは、手綱を握る指を白くさせ、隠しきれない緊張を顔が浮かんでいる。


彼らが運んでいるのは、前線を支えるための潤沢な補給物資ではなく、底の浅い木箱に詰められた少量の麦袋と、刃こぼれした古い武器の束だけなのだから。

彼らは自分たちが「囮」であることを知らされている。

いつどこから、帝国軍が襲ってくるか分からない恐怖が、馬たちの息遣いとともに谷間に満ちていく。

その谷を真下に見下ろす、切り立った崖の上。

冷たい岩肌に身を隠しながら、アルト、ユウ、カインの三人が息を潜めていた。

岩の表面から手袋越しに伝わる夜露の冷たさが、アルトの感覚を研ぎ澄ませる。

彼は祈るように、目を細めて眼下の霧を見つめていた。


「……来るぞ」


カインが地を這うような低い声で囁く。

彼の視線の先、谷の入り口付近の霧が不自然に揺れている。

風ではなく、統制された軍靴が湿った土を踏みしめる、微かな、しかし確かな振動。

やがて霧を裂くように、黒い影の群れが現れた。


帝国軍の遊撃部隊。

その動きには、一切の迷いも躊躇もなかった。

荷馬車が谷の最も狭い場所に差し掛かった、まさにその瞬間だった。


「伏せろ」


カインの短い警告と同時に、崖の両側から凄まじい熱波が谷底へ叩きつけられた。

空気が急激に膨張し、鼓膜を圧迫する強烈な爆発音と共に、先頭と最後尾の馬車が火柱を上げて吹き飛ぶ。

一瞬にして谷間の霧が晴れ、焦げた木材の煙と、魔法特有の匂いが崖の上まで立ち昇ってくる。


見事なまでの奇襲。

地形の不利を完全に突いた、教科書通りの挟撃であった。

こちらの進行ルートと到着時間を秒単位で把握しているような完璧なタイミングでの伏兵を配置。

熱風に髪を揺らされながら、ユウは岩陰から谷底を観察していた。


炎に包まれた馬車から王国兵たちが乱れて逃げ出すのを見て、帝国兵たちが確信を持って崖を駆け下りていく。

彼らの足取りには、完全な勝利を疑わない驕りがあった。

しかし、彼らが制圧した荷台から見つかったのは、貧相な物資だけだ。


谷底から、帝国兵たちが舌打ちをする様子が微かにうかがえる。だが、彼らはそれ以上疑うことはしなかった。

周囲を警戒するでもなく、手早く麦袋と古い武器を回収し、速やかに撤収の指示を出し始めている。


「……うまくいったな。あいつら、王国軍の物資がいよいよ見えたと勘違いして帰っていくぞ」


ユウが淡々とした、平坦な声で言った。

帝国兵たちは、王国側が情報漏洩に気づいたことなど知らず、ただ「王国軍がいよいよ困窮し始めた」という偽の現実だけを持ち帰ろうとしている。

彼らにとって、あの帳簿から得られる情報は依然として「絶対の真実」なのだ。


「ああ。これで俺たちが仕掛けたとは微塵も思わないだろうな」


カインが崖下から視線を外し、深く安堵の息を吐く。

目を細めて谷底の顛末を見届けていたアルトも、静かに頷いた。


「本当だな。これで、クラウスを通じたこちらからの情報操作も疑われずに済む」


味方に裏切り者がいるという事実は、指揮官にとって鉛のように重い。だが、同時に帝国の戦術の種が割れたという救いもあった。

帝国は全知全能の怪物ではなく、こちらの手札を覗き見ていただけなのだ。

盤面が見えるのであれば、戦いようはある。

カインの合図で、三人は足跡を残さぬよう素早く崖を下り、本陣へと帰還した。


数時間後。

ルーヴェル軍本陣の裏手にひっそりと張られた、小さな天幕。

そこには、昨夜の軍議から一睡もしていないであろうクラウスの姿があった。


「……何の用だ」


天幕の入り口をくぐったアルトたちを見て、クラウスは焦点の合わない、虚ろな目で呟いた。

その姿は、痛々しいほどに崩れていた。

常に完璧に撫でつけられていた灰色の髪は無惨に乱れ、軍服の襟はだらしなく開いている。

天幕の中には、古い羊皮紙のインクの匂いと、彼自身が発する濃密な絶望の気配が充満していた。

クラウスのアイデンティティとも言える真っ白な手袋は、泥に汚れたまま、卓の上に投げ出されている。


「笑いに来たのなら好きにしろ。貴族の誇りも、我が家の再興も、すべては道化だった。私は……自分の手で、前線の兵たちを殺していた。私が書いた帳簿が、皆の命を削っていた……!」


両手で顔を覆い、自嘲するクラウス。

以前の鼻持ちならないエリート騎士の自身は完全に消え失せ、ただ自分の罪の重さに押し潰されそうな一人の青年がそこにいた。

カインは気まずそうに目を逸らす。

没落した家を立て直すという悲願を利用された彼の境遇には、平民であるカインにも同情の余地があった。


だが、ユウは躊躇うことなく歩み寄り、卓の上の泥だらけの手袋を掴み上げた。

そして、それをクラウスの胸ぐらに乱暴に押し付けた。


「いつまでそうしてるんだ? お前の仕事はまだ終わってない」


「……仕事?」


クラウスが虚ろな目をユウに向ける。


「今日もお前が書いた『嘘の補給経路』に、帝国軍はしっかり釣られた。中身のすっからかんな荷馬車を、わざわざ魔法まで使って大層に襲撃してくれたよ」


ユウのフラットな言葉に、クラウスの灰色の瞳がわずかに見開かれる。


「帝国はまだ、俺たちが情報の漏洩に気づいたことを確信していない。今日の空振りも、『王国軍の物資がいよいよ尽きた』とでも勘違いしているはずだ」


ユウはクラウスの目を真っ直ぐに見据えたまま、平坦な、だが確かな熱を帯びた声で言った。


「クラウス。お前のその『完璧な帳簿』で、今度は帝国に嘘を教えろ。俺たちの都合のいい戦場に、あいつらを引きずり出すんだ」


「私に……二重スパイをやれと言うのか? だが、どうやって情報を渡すというのだ。セリオス様が指定した男は、すでに姿を消したのだぞ」


「見えない伝令にだって、必ず情報の受け渡しルートがある。昨日までは『見えないこと』に気づいていなかっただけだ」


今まで黙っていたカインが一歩前に出た。


「的が絞れてるなら、俺の鼻は誤魔化せない。お前がいつ、どこで、どうやって情報を置いていたか。その動線を洗い直せば、奴らが情報を回収するポイントを逆算できる。そこに本命の罠を張るんだ」


クラウスは震える手で、押し付けられた泥だらけの手袋を握りしめた。

しかし、まだ決断しきれないように、視線を彷徨わせる。


「アルト……様」


彼が縋るような視線を向けた先で、アルトは静かに、だが強い意志を持って頷いた。

侯爵家の子息としてではなく、一人の指揮官として。


「クラウス。君が結果的に味方を裏切り、兵を死なせたことは許されることじゃない。僕も許せない」


アルトの言葉は刃のように鋭かった。クラウスが肩を震わせる。


「だが、君の能力の高さは誰よりも知っている。君の計算と実務能力がなければ、この拠点はとっくに崩壊していた。……僕たちの手で、この歪んだ盤面をひっくり返す。君の罪を償う方法は、それしかない。力を貸してくれ」


長い、長い沈黙が天幕を支配した。

遠くで、前線へ向かう部隊の足音が聞こえる。

やがて、クラウスは深く息を吸い込み、泥のついた手袋を再び両手にはめた。

乱れた襟を正し、灰色の髪をかき上げるその動作には、以前の薄っぺらい虚栄心ではない、泥臭く這い上がろうとする執念が宿っていた。


「……承知いたしました」


クラウスは顔を上げ、かつての鋭さを取り戻した目でユウを見た。


「これまでに帝国が仕掛けてきた奇襲のタイミングと、その際の前後の物資量データをすべて私に開示してください。奴らが一切の違和感を抱かず、喜んで喰いつくような『帳簿』を組み上げてみせます」


泥で汚れた手袋のまま、彼は卓の上に散らばった羊皮紙の一枚を引き寄せた。

その瞳には、先ほどの虚無とは違う、計算高く冷徹な光が宿っている。


「帳簿の数字で出し抜かれたのなら、数字で奴らを罠の底へ叩き落とす。……それが、私にできる唯一の贖罪です」


天幕の中に漂っていた絶望の匂いが、確実に反逆の熱へと変わっていく。

表の戦場では王国と帝国が剣を交え、裏の戦場では、士官学生による盤面の支配が始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ