帳簿
ルーヴェル軍の本陣に張られた天幕の中には、濃密な戦の気配が持ち込まれていた。
前線から帰還したばかりの指揮官レオニードが上座に腰を下ろす。
脱ぎ捨てられた兜や傷だらけの甲冑からは、こびりついた泥と、拭えない乾いた血の匂いが漂う。
外の冷たい空気とは裏腹に、天幕の中は将たちの放つ熱気で異様に息苦しい。
「――以上が、過去三日間の損害推移となります」
重苦しい沈黙を切り裂いたのは、ヴィクトルの淡々とした声だった。
彼は手元の羊皮紙から視線を上げることなく、冷徹に数字を紡ぎ出す。
「敵部隊の戦力展開速度は、当初の想定より平均して約三十四パーセント速い。特に我が軍の迎撃ポイントに対する帝国側の事前配置率は、八十七パーセントを超過している。これは単なる偶然や、現場の指揮官の直感で達成できる数値ではない。彼らは明らかに、我々の『次の一手』を確率ではなく確定事象として処理している」
ヴィクトルの言葉は、感情の起伏を一切感じさせない。
ただ冷たい事実だけを並べ立てるその態度に、天幕の端で腕を組んでいた歴戦の老将――シグルドが、低くしゃがれた声を出した。
「……軍師殿、数字遊びは結構だが――」
怒鳴ってはいない。
だが、その静かな言葉には、戦場の最前線を潜り抜けてきた者だけが持つ、重く鈍い刃のような凄みがあった。
「計算通りに先回りしてくる敵のせいで、うちの若い者たちが随分と泥を舐めさせられておる。それに、だ」
シグルドは鋭い眼光を、後方支援の指揮を執る者たちが立つ側――とりわけ、一際整った軍服を身に纏う若き騎士、クラウス・ハルトマンへと向けた。
「前線に届く物資の数が、どうにもおかしい。飯はあるが、矢の補充が間に合わん。拠点に予備があるはずなのに、なぜか我々が到着する数日前に別の陣地へ移されている。……これでは戦になりませんな」
老将の重圧を正面から受けながらも、クラウスは眉一つ動かさなかった。
彼の軍服には、レオニードたちのような泥跳ね一つない。
指先には真っ白な手袋がはめられ、天幕の血生臭さを拒絶するように、微かなインクと香油の匂いを漂わせている。
「シグルド将軍の御不満はもっともですが、記録上、そのような偏りは発生しておりません」
クラウスは背筋を張り、手元の帳簿を静かに開く。
「私は毎日定刻に、武器や食料の損耗率から推測した適切な物資支援の要請をルーヴェルへ送付しております。同時に、軍の行軍速度から一週間先までの補給経路を算定し、提出しています。補給の遅滞も、物資の欠落も、私の管理する帳簿上では一切起きていない。すべて『順調』です」
完璧な敬語と、淀みない説明。
クラウスの言葉には、自らの仕事に対する強烈な自負が滲んでいた。
しかし、その完璧すぎる防壁を、気の抜けたような声があっさりと叩き割る。
「記録の上ではそうなんだろうな、クラウス」
天幕の隅、アルトの斜め後ろに控えていたユウが、ゆっくりと前に出た。
一軍の将や侯爵家長男であるレオニードを前にしても、彼の態度は平時と何ら変わらない。
畏まることもなく、事実だけを見据える目をしてクラウスに話しかける。
「お前が優秀なのは知ってる。帳簿の数字も、計算も間違ってないんだろう。だけど、前線は腹が減ってるし、矢筒は空だ。それが現実だ」
「ユウ⋯⋯あなたが、補給の何を知っているというのですか。不確かな現場の不満を、全体の記録と混同しないでいただきたい」
クラウスが冷ややかな視線を向けるが、ユウは肩をすくめただけだった。
代わりに動いたのは、ユウの隣にいたカインだ。
「不確かな現場の不満、ね⋯⋯。じゃあ、これはどう説明するんだ?」
カインが懐から取り出し、軍議の卓に放り投げたのは、何枚もの薄汚れたメモだった。
泥と汗に塗れ、端が破れかけの紙片は、クラウスが抱える清潔な帳簿とはあまりに異質な存在だった。
「今日、俺が自分の足で各陣地を回って集めてきた一次情報だ。第十三部隊は予定の半分しか食料を受け取ってない。第七部隊の予備武器は三日前に理由もなく後方へ下げられてる。クラウス、あんたの言う『順調な帳簿』と、この泥だらけの現場の声……どっちが嘘をついてると思う?」
卓上のメモを見たクラウスの目が、わずかに見開かれる。
完璧に整えられていた彼の呼吸が、ほんの一瞬だけ乱れた。
手袋に包まれた指先が、無意識に自らの帳簿の表紙を強く握りしめる。
「そんな……はずはない。私は、セリオス様から指示された手順を、一度の狂いもなく……」
「クラウス」
ユウが、容赦なくその言葉を遮った。
「お前の完璧な帳簿……それ、帝国側に筒抜けになってるんじゃないか?」
天幕の空気が、凍りついた。
ランプの炎がわずかに揺れ、レオニードの鎧から落ちた泥が、微かな音を立てて乾いた土を踏む。
「……莫迦なことを」
クラウスは乾いた唇を動かし、ユウの言葉を鼻で笑おうとした。だが、その声はひどく掠れていた。
「毎日、私はセリオス様から指定された伝令係に直接手渡している。封は厳重に施し、中身を見られることはあり得ない。その伝令は、今も外の待機所で次の報告を待っているはずだ。……見せてやる」
クラウスは踵を返し、足早に天幕の外へ向かった。
その背中は「自らの仕事の完璧さ」を証明しようとする焦りに満ちていた。
だが――。
数分後、戻ってきたクラウスの様子は、先ほどまでの「隙のない若き騎士」とは別人のようだった。
血の気が引き、青ざめた顔。
手袋に包まれた指先は、小刻みに震えている。
「……いない」
虚ろな声が、天幕に落ちた。
「待機所に、彼の姿がない。それどころか……警備の兵たちに尋ねても、誰も『そんな伝令は見ていない』と……」
「存在しない伝令係、か。情報のバイパスとしては極めて古典的だが、迎撃率八十七パーセントという異常値の裏付けとしては十分な解だ」
ヴィクトルが、手元の羊皮紙に冷たい視線を落としながら言った。
「つまり、君が心血を注いで計算した一週間先までの補給予測は、すべて帝国の卓上に直接届けられていたわけだ。ご苦労だったな、クラウス・ハルトマン」
「違う……っ!」
クラウスの膝が折れ、乾いた音を立てて地面に崩れ落ちた。
大切に抱えていた帳簿が手から滑り落ち、泥だらけの地面に散らばる。
インクの匂いが、戦場の泥臭さに呑み込まれていく。
「私はただ、命じられた通りに……っ! セリオス様は仰ったのだ。この任務を完璧に遂行すれば、ハルトマン家の名を……没落した我が家を、必ず再び貴族として引き上げると……ッ!」
床に両手をついたクラウスから、悲痛な叫びが漏れた。
誇り高き完璧主義者が、家門復興という切実な願いを人質に取られ、ただの「情報を流すための管」として利用されていた。その残酷な事実に気づき、彼は嗚咽すら漏らせずに震えていた。
「セリオス兄様が……僕たちを、裏切っていた?」
アルトが、信じられないものを見る目で呟いた。
上座のレオニードもまた、深く目を閉じ、肘掛けを強く握りしめていた。
鉄のガントレットが軋む音が、天幕の中に痛いほど響く。
「……セリオスは、我々の血を分けた弟だ。国を売り、前線の兵を無駄死にさせるような真似をするはずがない」
レオニードの声には、指揮官としての重圧と、兄としての苦悩が混じっていた。
しかし、ヴィクトルは無機質な声で切り捨てる。
「閣下、感情論は無用です。現在確定しているのは『セリオス様が指示したルートから情報が漏れている』という事実のみ。指揮系統上、彼を第一容疑者と算定するのが最も合理的です」
「……いや、そう決めつけるのも早いんじゃないか」
静かな声で割って入ったのは、ユウだった。
重苦しい空気の中でも、彼のトーンは相変わらずフラットで、どこか他人事のような軽さすらある。
「確かにセリオス本人の指示だったのかもしれない。けど、あんたらも知ってるだろ。あいつは、ルーヴェルで襲撃されて負傷してるんだぜ?」
ユウは視線を天幕の天井に向け、構造を解きほぐすように言った。
「ベッドの上で寝込んでいる人間が、姿なき伝令を操って帝国とタイミングを合わせるなんて、器用な真似ができるか? セリオス自身が誰かに騙されているか、あるいは『セリオスの名』を利用している別の黒幕がいるか……。どっちにしろ、この盤面はまだ裏がある」
「……しかし、どうするのじゃ。このままでは前線が保たんぞ」
シグルドが低く唸る。
ユウは視線を下げ、泥にまみれたクラウスの帳簿を拾い上げた。
「簡単だよ。明日、クラウスが提出した報告書とは『まったく別のルート』で物資を送る」
ユウの言葉に、アルトとカインがハッと顔を上げた。
「もし帝国軍が、わざわざ『空っぽのダミールート』を襲撃してきたら……情報の出どころが、この帳簿だって完全に確定する。反撃の糸口は、そこからだ」
「……なるほどな。敵の『予知』を逆手にとるか」
レオニードが目を開き、その眼光に再び将としての鋭い光が宿った。
「レオニード閣下」
アルトが一歩前に出た。
その顔は、弟でも士官学生でもなく、一人の指揮官としての決意が満ちていた。
「僕たち士官学生は、明日の戦闘では前線ではなく、後方支援と事態の調査に回ります。この歪み……必ず、正してみせます」
「……頼んだぞ、アルト」
外から吹き込んだ冷たい夜風が、散らばった帳簿のページをめくった。
表の戦争と、裏の情報戦。
その見えない境界線に、ユウたちは確かに足を踏み入れていた。




