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疑念


夕刻が近づいていた。

山際に沈んでいく太陽は、拠点全体を赤色に染め上げている。

引き延ばされた影は、まるで意思を持つように地面を侵食し、その中を行き交う兵たちの足取りを縛り付けているように見えた。


朝からの激戦による喧騒は、いまだ完全に収まってはいない。

だが、そこには勝利への高揚感など微塵もなく、ただ蓄積した疲労と次なる襲撃への焦燥が混じり合う空気が漂っていた。

それでも、アルトたちが介入したことで物流の流れは改善されていた。


「右は補給、左は搬送だ! 道を空けろ!」


アルトの指示は簡潔だったが、それゆえに現場の混乱を断ち切る鋭さがあった。

右側を砂埃を上げて進む食糧や矢を積んだ荷車と、左側を沈痛な静寂とともに運ばれていく負傷者の担架。

単純な分離ではあるが、それまで複雑に絡まっていた拠点の流動性は目に見えて加速した。

アルトは、流れていく荷車の列を眩しそうに見届けながら、額の汗を拭い、小さく息を吐いた。


「……さっきよりは、うまく回っているみたいだ。現場が混乱していただけで、みんな動きたがってはいたんだね」


その声には、目に見える改善に対する指揮官としての安堵が、わずかに混じっていた。

しかし、隣で腕を組み、冷徹な視線で拠点を見渡していたユウの表情は晴れない。


「”表面上”はな……。だが、喉元の骨が取れただけで、体内の毒まで消えたわけじゃない」


ユウの言葉に、アルトはわずかに眉を寄せた。


「カインが言っていた、物流の“偏り”のことかな?」


「それだ。ただの混雑なら、もっと各所で疎らに滞っていくはずだ」


ユウは一歩前に踏み出し、通過していく荷車を、獲物を狙うような鋭い目つきで追ったいる。


「見ろ。全体としては流れているが、均一じゃない。特定の迂回経路だけが妙に通っている。それなのに、本道に近い場所でなぜか立ち往生している奴らもいる」


ユウは少し間を置いて、特定の刻印が押された荷車を指差す。


「そして、詰まっている場所は、前線維持に欠かせない物資が固まっている」


「……偶然にしては、あまりに『不都合』が集中しすぎだ」


アルトはその指摘に、背筋に冷たいものが走るのを感じて振り返った。


「……意図的に操作されている、と言いたいんだね?」


ユウは即座には肯定せず、慎重に言葉を選んだ。


「断定はしない。だが、戦場の混乱を利用し、どこを止めれば一番効率よく前線が干上がるか……それを熟知している奴が、影で糸を引いている。そんな気味の悪さを感じる」


アルトは腕を組んだまま、地平線の先に上がる土煙を見つめ、低く唸った。


「前線の報告も奇妙だ。カインの話だと、帝国軍はこちらの動きを予見しているみたいだった。シグルドの参戦で戦線は安定するはずなのに、押し返せていない。その理由が、この後方の乱れと繋がっているとしたら……」


「情報が漏れているか、あるいは別のなにかか。どちらにせよ、僕たちの手の内は部分的に漏れていると思った方が良さそうだね」


ユウの静かな、しかし確信に満ちた言葉が、アルトの心に焦燥を植え付ける。


「……完全に読まれるわけではなく、要所を掴まれている。だからこそ、負けはしないが勝たせてもらえない、か」


そのとき、背後から急ぎ足の足音が近づいた。

周囲の森や街道を調査しにいっていたカインだ。

その手には、どこからか無理やり抜き取ってきたらしい、汚れた小さな紙片が握られていた。


「おい、これを見てくれよ。面白いもんを掠め取ってきたぜ」


カインが差し出したのは、補給の管理記録の断片だった。

アルトはそれを受け取り、夕闇のわずかな光を頼りに目を凝らす。


「……これは、今日の補給記録? でも、この形式は……」


紙には簡素な記号と数字が、整然と、あまりに美しく並んでいた。

ユウが横からその紙を覗き込み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「ルート、時間、積載量。……なるほど、しっかり管理しているな。どこで、何を、どれだけ流したかが一目でわかるように記録されている」


カインは頷くと、その中の一点を汚れた指先で強く叩いた。


「ここだ、この経路。さっきまで俺たちが一番ひどく詰まって、荷車が横転してた場所だ。覚えてるだろ?」


ユウが目を細める。


「……ああ。だが、この記録上だと『順調』に分類されている。遅延報告はおろか、予定通りの到着として処理されている」


「そうなんだよ」


カインは冗談を言うときのような笑みを消し、真剣な瞳で言った。


「現場とこの紙。……中身が全然合ってねえ。誰かが、この書類を書き換えてるのかもな」


その一言が落ちた瞬間、周囲の喧騒が遠のき、三人の間にだけ冷え切った空気が流れた。

アルトの表情が、これまでにないほど厳しく引き締まる。


「……報告と実態が意図的にズラされている。つまり、前線の兄上やルーヴェルには『補給は順調』という記録が届いているということか」


ユウは紙片をじっと見つめ、その不自然な筆致を確認した。


「単なる書き漏れなら、もっと乱雑になるはずだ。これは、上が見た時に安心するような『見せるための記録』だな」


カインが短く、忌々しげに付け加える。


「誰かが裏で、この拠点の情報を操作してる。……それも、かなりの権限を持ってる奴だ」


アルトはゆっくりと、拳の中でその偽りの記録を握りつぶした。


「……補給を管理して――」


そのときだった。


「――アルト様、ですか?」


背後から、凛とした、しかしどこか神経を逆なでするような落ち着きのある声が響いた。

三人が同時に振り返った。

そこには、泥と汗にまみれた拠点の喧騒から切り離されたかのように、一人の男が立っていた。


――クラウス・ハルトマン。

鎧は儀礼用に近いものだが、隅々まで磨き上げられ、夕日に鈍く輝いている。

戦場特有の汚れこそ微かにあいるが、その背筋は定規を当てたようにまっすぐで、微塵の揺らぎも感じさせない。

クラウスはアルトの姿を認めると、迷いのない足取りで歩み寄り、その場で完璧な礼を尽くす。


「アルト様……無事でしたか。レオニード様も、貴殿の身を案じておられました」


その声には、混じりけのない畏敬の念が込められていた。

アルトの表情が、旧友との再会にわずかに緩む。


「クラウス……君も無事だったんだね」


「ええ、なんとか。ご健勝で何よりです。……しかし」


クラウスはゆっくりと顔を上げると、アルトの傍らに立つユウとカインへと視線を移す。

その瞬間、春のような穏やかさだった彼の眼差しが、一変して極寒の冷徹さを帯びる。


「平民の分際で、アルト様の横を肩を並べて歩くなど、相変わらず不遜ですね。……特にそちらの異邦人。アルト様に薄汚い書類を預けるとは、何を考えているのですか」


クラウスはユウを指先で示すことさえせず、ただゴミを見るかのような視線を投げた。

ユウは肩をすくめ、特に気にした様子もなく、鼻で笑って答えた。


「別にいいだろう。俺たちが拾ったわけじゃない、カインが管理室の隙間から『借りてきた』だけだ」


「……相変わらず口の利き方もなっていない。カイン、貴公もだ。偵察の腕は認める。だが、軍の機密書類を勝手に持ち出すのは、いくらアルト様のお膝元といえど許されぬ規律違反だ」


クラウスはカインを一度だけ鋭く睨みつけると、即座に興味を失ったように再びアルトの方を向いた。

まるで、平民に割く時間は一秒たりとも惜しいと言わんばかりの露骨な態度だった。


「まぁ、いい……。アルト様は補給部隊の護衛に回ると伺っておりましたが、こちらへ来られたのですか?」


「ああ。この拠点の物流が滞っていたから、その一部を手伝っていた」


アルトの問いに、クラウスは再び居住まいを正して答えた。

彼は整然と流れ始めた荷車の列に視線を移すと、わずかに目を細めた。


「……先ほどから導線が見事に整理されております。アルト様、もしやあなた様が?」


「応急処置だよ。あまりに動きが悪くて、見ていられなかっただけさ」


アルトは少し照れくさそうに、甲冑に覆われた肩をすくめた。


「さすがはルーヴェルの血筋です。合理的かつ、兵を動かす威厳に満ちている。おかげで流れが劇的に改善されました」


クラウスは満足げに頷いた。

その賞賛は、アルトに対してのみ捧げられたものだ。

ユウは無言でクラウスを観察していた。

クラウスの立ち居振る舞いは完璧だが、それゆえに現場の血生臭い泥臭さから、一人だけ浮き上がっている。

カインはすでに、音もなくクラウスの斜め後方へと位置を変えていた。

カインはクラウスの腰に提げられた装備の摩耗具合や、手元のわずかな汚れを、獲物を品定めするような目で見つめている。


「補給の管理、お前がやってるんだってな」


カインが、挑戦的な笑みを浮かべて背後から話しかけた。

クラウスは一瞬だけ不快そうに眉を寄せたが、カインの方を向き直ることさえせず、アルトを見つめたまま、冷淡に答えた。


「ええ。各隊の報告をまとめ、最終的な流量の調整を任されております。……何か問題でも?」


「全部、お前がチェックしているのか?」


ユウが、一歩踏み出しながら声を被せた。

クラウスはユウを冷徹な目で見据えたが、アルトの前で無作法を晒すわけにもいかず、短く答える。


「可能な限りは、だ。戦況が激しい分、情報の正確さが命です。」


ユウはさらに踏み込む。

カインもそれに応じるように、じりじりとクラウスとの距離を詰めていく。


「では聞きたい。ルートごとの流量と遅延は把握しているか? 今、この現場で起きている惨状と、君の手元の数字は一致しているのか」


クラウスは動じることなく、アルトに向かって報告するように胸を張った。


「アルト様。概ねは把握しております。現場の細かな混乱はありますが、全体としては安定した供給を維持できておりますので、ご安心を」


ユウの目が、わずかに細くなった。


「……安定、か。現場があれだけ血を流して混乱していた中で、ずいぶんと自信があるんだな」


アルトも、わずかな違和感を拭いきれずに口を開いた。


「クラウス、現場では場所によって極端な滞りが出ていたんだ。君の報告書と、実際の状況に食い違いはないのかい?」


クラウスは一瞬だけ顎を引き、深く考えるような素振りを見せた。そして、諭すように優雅な所作で、夕日に染まる拠点を指し示した。


「一時的な偏りでしょう、アルト様。戦況に応じて、優先順位は常に変わります。現場の感情的な体感と、軍全体としての数字がズレるのは、戦場ではよくあります。枝葉の混乱に惑わされてはなりません」


その説明は、軍事理論としては完璧に通っていた。

だが――。


「……記録と、現場。ずいぶん綺麗にズレてるけどな。俺たちの目は、数字より正確だぜ」


カインが背後から、低く、けれど鋭く突き刺すような声で呟いた。

クラウスの背中が、わずかに強張ったのを三人は見逃さなかった。

ほんの一瞬。呼吸を止めたかのような、微かな、けれど確かな拒絶の反応。

クラウスはゆっくりと振り返り、カインを射抜くような目で見つめた。


「……どういう意味でしょう、カイン殿。そのような軽口は、命取りになりますよ」


皮肉を込めて『殿』と呼びつつも、クラウスの瞳には冷たい殺気と警戒が宿った。

ユウが、先ほど握りつぶし、再び広げたぐしゃぐしゃの紙片を、クラウスの目前に突き出した。


「この記録だ。ここは順調とあるが、実際には荷車が横転して詰まっていた。偶然にしては、君の作る書類は現実よりも美しすぎる。……クラウス、君はこれを正しいと言い切れるか?」


クラウスは視線を紙に落とした。そのまま数秒、何も言わなかった。

周囲の兵士たちの足音が、不気味なほど遠くに聞こえる静寂。

やがて、クラウスはゆっくりと顔を上げた。その表情に、もはや揺らぎはない。


「……記録の反映が遅れている可能性はあります。現場の変動はあまりに激しい。すべてを即時に、かつ完璧に反映させるのは、不徳ながら今の私の力不足かもしれません」


静かな声だった。そこには言い訳がましい響きはなく、ただ自らの非を認める潔い騎士のように振る舞った。

ユウはその言葉を否定しなかった。

ただ、突き刺すような視線で、クラウスという人間の「殻」の奥を探り続けている。


「そうだな。可能性としてはあるだろう。……今はそれ以上、言うことはない」


ユウはそれ以上踏み込まなかった。

今はまだ、決定的な証拠も、相手を問い詰める状況も整っていない。

アルトが、張り詰めた空気を解くように口を開いた。


「いずれにせよ、流れは改善しているんだ。ここを維持できれば前線も持つはずだ」


「ええ。そのために、私はこの身を捧げております」


クラウスは再び慇懃に一礼した。

その言葉は、嘘には聞こえない。むしろ、自らの職務に対する異常なまでの誠実さを感じさせた。

だからこそ――拭い去れない「違和感」が、冷たいおりのように足元に溜まっていく。



そのとき、遠くから鼓膜を震わせるような伝令の叫びが響き渡り、拠点の空気を引き裂いた。


「前線より帰還! レオニード様が戻られます!」


空気が、一瞬で凍りついた。

作業をしていた兵士たちは一斉に動きを止め、アルトの表情も引き締まる。

クラウスも即座に背筋を伸ばし、入り口の方角へと居住まいを正した。

ユウは静かに視線を上げ、カインは無言で立ち位置を変え、誰よりも先に「獲物」の気配を察知する位置へ陣取った。


やがて、赤錆色の土煙を激しく巻き上げながら、一団の騎馬が姿を現した。

先頭を駆ける男の姿が、夕闇の中に浮かび上がる。

血と土にまみれ、かつての輝きを失った鈍色の鎧。

だが、その姿勢は鉄の芯が入っているかのように、微塵も崩れていない。


――レオニード・レイヴァルト。


アルトの喉が、わずかに動いた。

一歩、吸い寄せられるように前に出る。


「……兄上」


声は抑えていた。

だが、そこには戦場の残酷さを目の当たりにした畏怖が混ざり合い、わずかに震えていた。


レオニードは馬を止めると、鋭い眼光で周囲を一瞥した。

彼は数秒の間に、拠点の配置が整えられていること、そしてアルトたちがここにいることを完璧に把握した。

そして、まっすぐにアルトを見た。


「来たか」


短い言葉。

だが、それで十分だった。

何百という死線を潜り抜けてきた男の重みが、その一言に凝縮されていた。

アルトは拳を握り、力強く一歩踏み出した。


「遅くなりました。援軍として、合流致します」


レオニードは、満足げに、あるいは労うように一度だけ頷いた。


「期待しているぞ」


だが、安堵の余韻を許すレオニードではない。

彼は即座に、周囲の空気を震わせるような鋭い声で命じた。


「……積もる話は後だ。今のこの拠点の状況、そしてお前たちが見た違和感を、すべて報告しろ」


その声には余裕はなかったが、決して揺らぎもなかった。

いまだ戦いの渦中に身を置く指揮官の、鋭利な刃物のような声だった。

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