三路
騎士団の建物は、深夜という時間を忘れたかのように白々とした灯りに照らされていた。
人の出入りは絶えず、石床を叩く足音と抑えられた怒号が廊下に漏れ出している。
そこにあるのは静寂ではなく、限界まで張り詰められた糸のような緊張感だった。
三人は足を止めない。
案内を待つ余裕などないし、何より既に話は通っていた。
重厚な扉を押し開けると、広大な卓に広げられた地図を囲む騎士たちの中心に、その男はいた。
かつては、ルーヴェルの三刃と呼ばれ、帝国を戦々恐々とさせた生ける伝説。
――シグルド・ガレウス
「……来られましたか」
ゆっくりと顔を上げた男の声は、地を這うように低い。
「遅くはない。だが、楽な話でもなさそうですな」
すべてを見通しているかのような、老兵の眼光。
状況の深刻さを、彼はその場に漂う空気だけで正確に計っていた。
カリナが一歩前へと踏み出し、凛とした声を出す。
「シグルド卿、報告が――」
「不要です」
発言中に軽く手で制される。
その掌には、数多の戦場を駆け抜けてきた傷跡が刻まれていた。
「聞いております。襲撃者の規模とその状況も」
「……数の割に、相当に骨のある連中だったようですな」
カリナは一瞬、言葉を詰まらせた。
その声に、若干ではあるが隠しきれない悔しさが滲む。
アルトがその沈黙を引き継ぎ、言葉を続けた。
「正面と裏の二方向から来たようです」
一拍置き、噛み締めるように続けた。
「ですが、ただの力押しじゃありません」
シグルドの白銀に近い眉が、わずかに動いた。
「ほう」
「正面は陽動、背面からの奇襲が本筋だったようだ」
ユウが口を挟んだ。
先ほどまでと違い、冷静に淡々とした声で伝える。
「表で注意を引いている間に、後ろからやられた」
カリナが小さく息を呑み、アルトも頷いている。
ユウは言葉を続け、想定も含めた言葉を老兵たちに伝える。
「……屋敷の警備を、完全に把握した上での動きだ」
その一言に、シグルドは深く重い声をが漏れる。
「……あの二人がいて、それをやられた。
「歳を取ると、想定というやつが甘くなりますな」
少しだけ首を振る、思うことがあったのだろう、その言葉には自嘲に近い響きがあった。
「自由の盾の残党如きと高を括った我々にも落ち度がありますな」
アルトの視線は、わずかに揺れている。起きた事象の悔しさが滲んでくる。
「兄上と、グレイがやられたんだ」
「……簡単な相手じゃない。彼等は、本物だ」
カリナの拳が、白くなるほどに握りしめられる。
指先の震えを、彼女は必死に抑え込んでいた。
「……はい」
短く答える声の奥に、彼女が押し殺している熱い情念が滲んでいた。
「それと――」
アルトの言葉が、一度だけ詰まる。
胸を締め付ける事実を、無理やり喉から押し出した。
「セシリアとエリナが攫われた」
皆が認識していることだが、沈黙が鉛のように落ちた。
カリナは視線を落とし、自身の感情を鉄の意志で封じ込めた。
シグルドは静かに、一度だけ目を閉じる。
「……東ですな」
アルトが弾かれたように顔を上げる。
「分かっているのですか」
「既に追わせております」
「無傷で返すほど、わしは甘くはないですぞ」
ユウが少しだけ口元を緩め、小さく息を吐いた。
「さすがと言うべきかな、『シグルド卿』」
その呼び方は、どこか皮肉めいているが確かな信頼を感じる。
「遅いよりはマシです」
それを信頼と受けとったシグルドは一瞬だけ口元を上げる。
しかし、すぐに表情を変え、地図のある地点を指差した。
「しかし、こちらの状況はまずい⋯⋯」
示しているのはルーヴェルから東、王国と帝国の国境付近。
ある人物が軍を率いて向かっていった場所となる。
「東に向かったレオニード殿、二千が帝国と戦闘を開始しました」
前線からの速報は既に把握しているようであった。
アルトは敵の数を正確に報告する。
「帝国は三千……でしたね」
その声には、隠しきれない不安の色が混ざっていた。
アルトの補足に、シグルドは鋭く目を細めた。
「三千対二千。絶望的ではありませんが、放置はできません」
「必ずこちらに『援軍』を強いる絶妙な数ですな」
「……全てを知っていたかのように奇襲してきましたな」
シグルドが頷き、アルトもその考えに同意する言葉を続ける。
「そうですね⋯⋯。すべてが噛み合いすぎている」
アルトが口を閉じようとしたときに否定の言葉が聞こえた。
「……いや、違う」
発言者はユウであった。彼ははっきりと断言する。
シグルドは声の方へと鋭い視線を向ける。
「何がですかな?」
「最初から、目的は一つだったんだ」
アルトが隣の友を見る。
「どういう意味だい」
ユウは一呼吸を入れて、その場の者へと見解を説明する。
「セリオスやグレイを殺すことじゃない」
「……攫うための、徹底した時間稼ぎだ」
「強い奴らが揃っているのは分かっている」
「だから正面から駒をぶつけて注意を逸らした」
「その隙に本命だけを抜き取った」
アルトの表情が、恐怖に近い衝撃に強張る。
「……最初から、セシリアを狙っていたのか」
「多分な。ついでにエリナも、ってところだろう」
カリナが小さく息を吸う。
その吐息は少しだけ震えていた。
「……あまりにも、計画的すぎます」
その声は、震えるほどに低かった。
シグルドは沈黙を貫いていたが、言葉の意味を理解したのか声をだした。
「筋は通っております、帝国の動きとも完璧に連動しておる」
「とすれば、これは厄介な話になってきましたな」
カリナが一歩前に出る。
負傷した主より受けた命令、その瞳には並々ならぬ熱がある。
「その上で、セリオス様より伝言です」
「……シグルド卿には、レオニード様の救援へ向かっていただきたい」
言葉が落ちた。しかし、シグルドは地図を見つめたままだ。
しばらく石像のように動かずにやがて、ゆっくりと口を開いた。
「街の守り、襲撃犯の追跡、そしてレオニード殿への援軍」
「……三つを同時」
顔を上げる。その瞳には、逃れられぬ現実が映っている。
「どれ一つとして、落としてはならんことは理解してますぞ」
「だが、全部を救えるだけの兵が、ここにはおりません」
一拍だけ。
「誰かを救うと、誰かを見捨てる。それが戦です」
静かだが、残酷なまでの宣告。
アルトは言葉を失う、どれを切り捨てても地獄しかないからだ。
それでも、選ばなければならない。
分かってはいるが、アルトとカリナは言葉を飲み込む。
やがて、沈黙を破ったのはユウだった。
「――三つとも、取れる」
短く、迷いのない言葉だった。
シグルドの眉が、興味を持ったのか跳ね上がる。
「ほう。見解をよろしいかな」
ユウは迷わず卓へ近づき、地図を指で叩く。
「前提を変えるべきだ」
「襲撃犯は十人前後。数は少ないが質は高い。ここに、大軍は要らない」
「士官学校の連中に追わせる」
カリナの声に、隠しきれない動揺が混じる。
「学生に⋯⋯そんな重責を任せられるのですか」
「捕まえる必要はない。位置を押さえて、足止めするだけでいい」
「逃がしさえしなければ、後で本隊が叩けば済む」
シグルドが低く唸る。
「……本隊で潰す、か。効率的ではあるな」
だが、その意見にアルトは一つの疑問が浮かんだ。
眉間に皺を寄ながらユウへと質問を投げかける。
「襲撃犯はセシリア達を誘拐してるんだ」
「下手に刺激すると身の危険がある」
その質問にユウは回答する。
「襲撃は計画的だった。本当の目的は誘拐だ」
「そうであれば、命を奪うことまではしないはずだ」
その説明に納得したのか、アルトの表情から険しさが消えた。
カリナもその考えに同意したのか、その見解へ同調する。
「なるほど⋯⋯理にかなっています」
ユウは続けて次の案を述べる。
「街の守りは、ローエンに任せよう」
「あの元団長なら現場を熟知してる」
「今の状況で一番動けるのはあの人だ」
その名に、シグルドの視線が鋭くなる。
「……なるほどな。街はローエン、襲撃犯は学生」
視線が東へ移る。
「そして、わしは救援に全力を注げ、ということかな?」
「それで全部回るだろう」
ユウは淡々と答えた。
アルトはその横顔を見て、胸の奥で揺れていた迷いを、強引に断ち切った。
他に道はない。リスクを取らなければ、すべてを失う。
「……僕も動きます。シグルド卿、救援を兄上を頼みます」
「僕達学生で襲撃犯を追います」
視線は逸らさない、迷いは消えていた。
カリナも一瞬だけ目を伏せ、そして覚悟を決めたように顔を上げる。
「……私は屋敷に残ります」
「情報の整理、連絡の維持、そしてローエン卿との連携」
「……文官として全体を支えます」
アルトは小さく、力強く頷いた。
「……頼みます、カリナ」
シグルドが三人を見渡す。
皆、自身より若い、経験もまだまだ未熟。
しかし、その瞳にはもう、絶望に呑まれた色を感じない。
「……良き案です。それでいきましょう」
「ワシは千を率いて東へ向かいます」
「若君のところまで一気にたどり着いて見せます」
「かの御仁を死なせはしません。老いぼれの意地、見せてやりますぞ」
丁寧だが重厚な決意の表明であった
アルトが深く頷き、ユウは軽く息を吐き、カリナはその言葉を静かに胸に刻んだ。
「襲撃犯は任せますぞ。ルーヴェルの誇りに懸けて」
ユウとアルトは二人でその要望に短く了承した。
それぞれの役割が定まり、三つの難題は三方向同時に動き出す。
だが、そのすべては一つの糸で繋がっている。
シグルドが地図を巻き取る。
「出陣するッ!」
その一言で、場が解けた。
騎士たちが一斉に動き出し、命令が飛び、重い足音が重なり合う。
戦は、もはや後戻りできない場所まで進んでいた。
アルトは一度だけ目を閉じ、そして開いた。
「行こう」
「忙しくなるな」
ユウが肩をすくめ、カリナが静かに、だが確かな芯のある声で返した。
「ええ、ここは任せてください」
三人はそれぞれの戦場へと向かう。
戦火の最前線へ出る者、背後で冷徹に支え続ける者。
そして――すべてを繋ぎ、明日を勝ち取りに行く者。
静かな夜は完全に終わりを告げ、運命の歯車が、激しく火花を散らしながら回転し始めた。




