覚悟
早朝の屋敷外は、まだ冷たい空気を残している。
夜の名残がわずかに漂う中、ユウとアルトは並んで歩いている。
向かう先は、士官学校だった。
石畳を踏む足音だけが、静かに響く。
「……久しぶりだな」
アルトが小さく呟く。
「戦の前に来たきりか」
「そうだな」
ユウは短く返した。
しばらくすると校門が見えてくる。
変わらないはずの場所だが、今はどこか違って見えた。
中へ入ると、すでに何人かの士官学生の姿が見える。
皆、どこか引き締まった表情をしている。
やがて、呼び出しがかかり、案内されたのは学長室だった。
扉を開けると、そこには学長のローエンが立っている。
背筋の伸びた姿勢。
年齢を感じさせる白髪とは裏腹に、その目は鋭い。
「来たか」
低くよく通る声に、二人は一礼する。
「本題に入ろう」
無駄な前置きはなかった。
「自由の盾の残党が確認された」
空気が変わった。
「規模はおよそ三百」
ローエンは机の上に置かれた資料を指で叩く。
「三日後に現地にて作戦を開始」
「出陣は士官学生を中心とする」
「主力はお前たちだ」
ローエンは迷いなく答えた。
「動員するのは三百五十名」
「前回の経験がある者を優先して編成する」
合理的な判断だった。
「指揮は――アルト、お前が執ること」
その言葉に、アルトは一瞬だけ息を止めた。
だが、すぐに頷いた。
「了解しました」
その言葉に迷いはなかった。
ローエンは満足げに頷く。
「準備に入れ」
それで話は終わった。
部屋を出ると、すぐにカインの姿があった。
壁に寄りかかるようにして待っている。
「出陣か?」
「ああ、残党退治だよ」
アルトが答える。
「敵は約三百いるそうだ」
カインは小さく息を吐く。
「楽じゃないな」
だがその顔には、どこか高揚もあった。
「準備を進めるぞ」
そう言い残して、すぐにその場を離れる。
すでに頭の中では、段取りが組まれているのだろう。
ユウはその背を見送りながら、わずかに目を細める。
(……三百人、か)
頭の中で数字を転がしていく。
だが、それ以上は何も言わなかった。
今はまだ、判断する段階ではない。
その日の夜。
屋敷の食堂には、柔らかな灯りがともされていた。
長い食卓に並ぶのは、久しぶりに揃った顔ぶれだった。
レオニード、セリオス、アルト、セシリア、そしてユウ。
それぞれが席につき、静かに食事が始まった。
会話は多くないが、居心地の悪さはなかった。
むしろどこか落ち着いている空気だった。
戦の後、そして次の戦いの前。
その“間”にある時間だった。
食事が一段落した頃にレオニードが、ゆっくりと口を開く。
「……少し、いいか」
その一言で、場の空気が変わる。
全員の視線が集まる。
レオニードは一度、視線を落として顔を上げた。
「父上がいなくなった」
静かな言葉だった。
だが、その意味は全員が理解できている。
誰も口を挟んでいない。
「ルーヴェルは今、かろうじて保たれている」
「だが、それだけだ」
一つ一つの言葉を選ぶように続ける。
「外には帝国がいる」
「内には、まだ火種が残っている」
視線が、ゆっくりと全員を巡る。
「このままでは、いずれ崩れてしまう」
断言だった。
それを否定できる者はいない。
レオニードは小さく息を吸う。
「だから、終わらせる」
その一言に、強い意志が込められている。
「ルーヴェルだけではない」
「レイヴァルト王国全体の混乱を」
静かに、だが確かに言い切った。
その場の空気が張り詰める。
「父上が守ってきたものを、ここで終わらせるわけにはいかん」
「次に繋ぐためにも――」
わずかに間を置く。
「俺は、やる」
迷いのない言葉だった。
その覚悟は、言葉以上に伝わる。
レオニードは、視線を向ける。
セリオスへ、アルトへ、セシリアへ、そしてユウへ。
「力を貸してほしい」
それは命令ではなかった。
願いでもない、覚悟を共有するための言葉だった。
一同に無言の空気が落ちる。
だが、それは迷いではない。
むしろ――決まっていた。
最初に動いたのはアルトだった。
椅子を引き、立ち上がった。
そして、その場で膝をつく。
「……当然です」
短く言いきる。
その声に、揺らぎはなかった。
続いてセシリアも静かに立ち上がり、同じように膝をつく。
「私も、兄様に従います」
柔らかな声だが、その中に芯がある。
ユウもまた、ゆっくりと立ち上がる。
一瞬だけレオニードを見る。
その目を、真っ直ぐに受け止めて膝をついた。
「……分かりました」
それだけだったが、十分だった。
最後に、セリオス。
彼は一拍だけ遅れて立ち上がる。
ほんのわずかだが、その間は確かにあった。
そして、ゆっくりと膝をつく。
「やれやれ」
小さく肩をすくめる。
「また大きな話になりましたね」
軽い口調。
だが――
「まあ、嫌いじゃないです」
そう言って、わずかに笑う。
「兄上、最後までお付き合いしますよ」
その言葉に、嘘はない。
少なくとも、そう見えた。
レオニードはそれを見て、静かに頷く。
言葉はかけなかったが、それで十分だった。
その光の中で、五人は同じ方向を見ていた。
まだ見えない未来へ向かって。
食事を終えた屋敷は、ゆるやかな静けさに包まれていた。
廊下の灯りは落とされ、壁に並ぶ燭台の火だけが揺れている。
人の気配はあるが、それは抑えられている。
屋敷全体が息を潜めているようにも感じられた。
その一角。
ユウの部屋には、淡い灯りが残っている。
椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預けていた。
ユウは静かに息を吐いていた。
レオニードの言葉が、まだ頭の中に残る。
(……本気だな)
あの宣言は、ただの理想ではない。
すでに覚悟を決めた者のそれだった。
そんなことを考えていると――
控えめなノックの音が響いてくる。
「……入ってる」
短く返すと、扉が静かに開いた。
「失礼します、ユウ様」
入ってきたのはエリナだった。
「……まだ起きてたのか」
「はい。少しだけ、お話をと思いまして⋯⋯」
そう言って、部屋の中へ入ってくる。
向かう先はユウの正面ではなく、自然と隣へ。
自然な距離で腰を下ろした。
「珍しいな」
「何かあったか?」
エリナは一瞬だけ視線を落とした。
言葉を選んでいる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……また、出陣されるのですよね」
「ああ」
短く答えた。
エリナは小さく自分の手を重ねる。
「……ご無理は、なさらないでください」
その声には、はっきりとした心配が滲んでいる。
ユウは小さく息を吐く。
「無理のない戦いなんて、ないさ」
「それは……そうですが」
言葉が続かない。
だが、それでも何かを伝えようとしている。
ユウはその様子を見て、わずかに目を細めた。
「……何かあるんだろ」
静かに言った。
その言葉にエリナの肩がわずかに揺れる。
しばしの沈黙の後に、エリナは小さく息を吸った。
「……一つ、お伝えしなければならないことがあります」
声は落ち着いている。
だが、その奥に緊張がある。
ユウは何も言わず、声の続きを待つ。
「……セリオス様から」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わった。
「ユウ様のことを、見ていてほしいと……言われています」
静かな告白だった。
ユウはわずかに目を細めたが、驚きはない。
「……監視か」
「はい……」
エリナは視線を落とした。
責められることを覚悟しているようだった。
「いつからだ?」
「最初から……です」
ユウは小さく息を吐いた。
(まあ、だろうな)
「理由は?」
「……ユウ様が、どこかの勢力の者である可能性があると」
「帝国、自由の盾、あるいはそれ以外の……」
「スパイである可能性を疑われていました」
淡々とした説明に、ユウはわずかに肩の力を抜く。
「なるほどな」
「で、今は?」
「……自由の盾との戦いを経て」
「疑いは、ほぼ解けたと」
エリナは続けた。
「現在は……状況の報告だけでいい」
「必要以上に干渉するな、と言われています」
ユウは短く頷いた。
「分かった」
それだけを返した。
エリナは少しだけ顔を上げる。
「……怒らないのですか?」
ユウは首を横に振る。
「別に」
「立場を考えれば普通だ」
それから、ほんのわずかに間を置く。
「……監視って言っても、お前なら問題ないな」
その一言で、空気が変わる。
エリナの表情が、わずかに緩む。
「……はい」
小さく頷く。
その瞬間――
ユウは自然な動きで、エリナの肩を引き寄せる。
驚く気配はあったが、拒む様子はない。
そのまま、静かに距離が縮まる。
「隠されるよりは、その方が楽だ」
エリナはその言葉を受け止めるように、そっと身を預けた。
緊張が、ゆっくりとほどける。
「……お話しして、よかったです」
小さな声。
ユウは何も言わない。
ただ、その距離を受け入れている。
静かな時間が流れ、エリナが顔を上げる。
互いに迷いはなかった、ユウも視線を外さない。
自然と、距離が縮まっていく。
短い口づけ、それだけのはずだった。
だが――
どちらからともなく、離れなかった。
灯りが揺れ、影がゆっくりと重なる。
言葉はもう、いらなかった。
その夜、ユウの部屋の灯りは、しばらく消えることはなかった。




