確信
その後、ユウは一人で屋敷へと戻った。
自室で情報を整理していると、窓の外には茜色の空が広がっていた。
やがて広間でアルト、セシリアと共に夕食を囲む。
食後の屋敷は、ゆるやかな静けさに包まれていた。
広間の灯りは落とされ、廊下には燭台の火が揺れている。
人の気配はあっても控えめで、屋敷全体が息を潜めているかのようだった。
ユウは廊下を進み、アルトの部屋の前で足を止める。
軽く扉を叩いた。
「開いてるよ」
応じる声に扉を開けると、そこには既に三人の姿があった。
アルトとその向かいに座るセシリア、傍らにはエリナが控えている。
三人は話をしていた最中だったらしく、室内にはまだ会話の余韻が漂っていた。
「ちょうどいいところに来たね」
アルトが軽く手を挙げる。
「セシリアから街の様子を聞いていたところなんだ」
セシリアは穏やかに微笑み、ユウを迎えた。
「お疲れ様です、ユウ様」
「ああ、お疲れ」
短く応じ、ユウは空いている席へ腰を下ろした。
「色々とお忙しいとは思いましたが、お兄様も落ち着かれたので、一度顔を出しておこうかと」
セシリアの言葉は、妹としての気遣いとして至極自然なものだった。
「それで、街の様子はどうだった?」
ユウが尋ねるとセシリアは淀みなく答える。
「大きな混乱はありません。修道院にも顔を出しましたが、特に変わった様子はありませんでした」
この国の貴族令嬢は修道院で品格を身につける。
セシリアもまた、そこに通い淑女を目指している。
「俺も商業区を見たが、特に違和感はなかった。皆、いつも通りの生活を送っているようだったな」
ユウも自身の見聞を伝えると、アルトは満足そうに頷いた。
「ひとまず、混乱はなさそうだね。こちらも一段落、という感じかな」
戦の直後とは思えないほど、穏やかな空気が流れていた。
――その時だった。
セシリアの視線がふと動く。
エリナへ向き、すぐさまユウへと戻った。
ほんの一瞬だが、射抜くような鋭さがあった。
(……気づいているな)
ユウが内心で確信した直後、セシリアはわざとらしく咳払いをした。
「……そういえば」
柔らかな、しかし逃げ場を許さない声でセシリアが口を開く。
「お二人とも、何かお話があるのではないかしら?」
遠回しな言い方に室内の温度がわずかに変わった。
エリナの指先が、微かに強く組まれる。
「……え?」
まだ気づいていないアルトが首を傾げると、セシリアは深く微笑んだ。
「あ、いえ、深い意味ではありませんの。ただ……その、雰囲気が少し変わったように見えましたので」
その一言で十分だった、ユウは小さく息を吐く。
(こういうのは、やっぱり慣れないな)
一瞬、躊躇する。
隣のエリナに視線を向けると、彼女もまた迷うように瞳を揺らしていた。
だが、彼女の瞳に逃げる色はない。
ユウはわずかに口元を緩めた。
「……まあ、いいか」
静かに告げて、エリナを見る。
視線が合う、言葉はなくとも互いの意思は一致している。
エリナは小さく息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げた。
「……その」
小さな、しかし凛とした声が響く。
「私とユウ様は……」
一度言葉を切り、胸の内で想いを整える。
「……想いを通わせております」
告げられた言葉が、部屋の静寂に溶けていく。
エリナの頬は林檎のように赤く染まり、視線は伏せられていたが、その佇まいは堂々としていた。
ユウは余計な口出しをせず、ただ隣にいた。
アルトは一度ゆっくりと目を伏せ、何かを咀嚼するようにしてから顔を上げる。
「……なるほど」
静かな納得がそこにあった。
「言われてみれば、そういう空気だったのかもね。全然気づかなかったよ」
苦笑まじりの正直な吐露に、セシリアがくすりと笑う。
「お兄様は、そのあたり少し鈍いところがありますから」
「否定できないな……」
肩を落とすアルトの姿に、張り詰めていた空気が和らいでいく。
「おめでとうございます」
セシリアの言葉には、一点の曇りもない純粋な祝福が込められていた。
「……ありがとうございます」
エリナの返声にはまだ緊張が混じっていたが、その表情には深い安堵が浮かんでいる。ユウはそれを横目で見て、小さく息を吐いた。
(……悪くないな)
戦場ではない、穏やかな時間。
――だからこそ。
セシリアが次に口を開いたとき、その声の変化はあまりに明瞭だった。
「その上で、ひとつ気になることがあります」
先ほどまでの柔らかさが、霧が晴れるように消えていく。
夜の静寂の中で、何かが確実に動き出していた。
空気が引き締まったその時、廊下の向こうから規則正しい足音が近づいてくる。やがて、扉が控えめに叩かれた。
「……失礼いたします」
落ち着いた声が聞こえてくる。
アルトが許諾を返すと、静かに扉が開いた。
入室してきたのはこの家に長年、使用人として滞在するグレイだった。
白髪混じりの髪を整えた、隙のない佇まい。
その老練な視線が室内を一巡し、わずかに細められる。
「おや、これは皆様お揃いで」
穏やかな口調だが、場の空気を一瞬で見抜いたようだった。
「グレイ、どうしたんだい?」
アルトの問いに、グレイは一歩踏み込み、音を立てずに扉を閉めた。
「街の様子について、少々気になる話が耳に入りまして。外縁沿いで、不審な者たちを見たという噂が出ております」
その一言で、室内の温度が再び下がる。
「……やっぱりか」
アルトは腕を組み、思案するように視線を落とした。
「昨日、見回りの者からも似た報告があった」
「ですが……『自由の盾』は、お兄様たちが殲滅されたはずでは?」
セシリアが首を傾げる。
あくまで聞き及んだ事実としての問い。
だからこそ、拭えない違和感が浮き彫りになってくる。
「そうですな。ですが、頭が捕まっておりませぬゆえ」
グレイは淡々と、しかし冷徹な事実を突きつけた。
「本当に殲滅できたのかは、断言できぬところです」
「……戦場から逃げた連中もいたはずだ」
ユウが言葉を重ねる。
「拠点は潰したが、すべてを根絶やしにできたわけじゃない」
誰も反論しなかった。
いや、できなかった。
それは、この場にいる全員が心のどこかで予感していた事実だった。
エリナは、そのやり取りを静かに聞いていた。
言葉は発しないが、組んだ指先に力がこもっている。
(……やっぱり、か)
彼女は何かを知っている、あるいは確信している。
だが、それを口に出すことはない。
「……残党、ということですね」
絞り出すようなエリナの呟きは、静かな部屋に重く響いた。
セシリアが、どこか遠くを見つめるような瞳で呟く。
「本当に平和が訪れるのは……いつになるのでしょう」
それは願いというより、答えのない問いに近い響きだった。
落ちた沈黙を、グレイがわずかに崩す。
「それは――」
少しだけ肩の力を抜き、老執事は言った。
「私が生きている間に訪れてほしいものですな」
冗談めかした物言いの奥にある覚悟を察し、アルトが苦笑する。
「そういう冗談はやめてくれよ。縁起でもない」
「これは失礼いたしました」
グレイが目を細め、場の空気がわずかに緩む。
それでも、根底に流れる緊張は消えない。
ユウは黙ったまま、その光景を眺めていた。
(……終わってないな)
一区切りついたが、それは幕間に過ぎない。
見えていない部分で、まだ何かが胎動している。
静かな夜だった。
だがその静けさは、どこか不自然なほどに研ぎ澄まされ。
何かが潜んでいる予感だけが、影のように色濃くなっていく。
誰も口には出さない。
だが、この場にいる全員が、同じ違和感を分かち合っていた。




