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兆候


その日の夜は、静かだった。


屋敷の一角にあるユウの部屋も昼間の喧騒とは切り離される。

静かな穏やかな空気に包まれている。

窓の外には明かりが差し込み、床に柔らかな影を落とす。

その静けさを、控えめなノックの音が破る。


「……ユウ様」


聞き慣れた声だった。


「入っていいぞ」


扉が開き、エリナが姿を見せた。

変わらぬ立ち姿のはずなのに、いつもより距離が近く感じる。

あの夜から、二人の関係は確かに変わっていた。


「こんな時間にどうした」


ユウが軽く問いかける。

エリナは一歩部屋に入るが、すぐには言葉を続けない。

視線をわずかに揺らし、何かを言いかけては飲み込む間があった。


「……あの」


彼女は少しだけ、切り出しにくそうに伝えた。


「明日、お休みなのですが……」


そこで言葉が止まった、その続きがあるはずだ。

しかし、伝えて良いのか迷っている様子だった。

ユウはその姿を見て、彼女の意図を理解した。


「暇ってことか」


「……っ」


一瞬だけ、エリナの目が見開かれる。

すぐに視線を逸らすが、否定はしない。

察した後にユウは小さく息を吐く。


「なら、外に出るか」


「……え?」


顔を上げるエリナに、ユウはわずかに肩をすくめた。


「せっかくの休みだ。屋敷にいても仕方ない」


少しだけ間を置いた。


「一緒に来るか」


はっきりとは言わないが意味は伝わる。

エリナは一瞬黙り込み、それからゆっくりと表情をほどく。


「……はい」


小さく首を頷き、その声には隠しきれない喜びが滲んでいた。

ユウは視線を逸らしたまま、小さく一息ついた。

断られるとは思っていなかった。

それでも言葉にすることでわずかな照れが残る。

エリナはその様子を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。

その距離は以前とは違うのだから。


――翌日。


ルーヴェルの商業区は、人で溢れていた。

露店の呼び声、焼けた肉の匂い、子どもたちの笑い声。

様々な音と気配が混ざり合い、いつも通りの賑わいを見せる。

行き交う人々の足取りに、特別な緊張感はない。


この場所にいると先日までの出来事を忘れそうな空気だった。

その中を、ユウとエリナは並んで歩いていた。


――否、並んでいるというより。


「……近くないか」


ユウがぼそりと呟く。

その腕には、エリナの腕がしっかりと絡められている。

人混みの中で、「はぐれないように」と伝えられた。

しかし、ほんの少しだけ密着しすぎている距離。


「そうでしょうか」


エリナは平然と返した。

その声は落ち着いている。

どこか相手の反応を楽しんでいるようにも聞こえる。


「人が多いですから」


もっともらしい理由だった。

ただ、腕に込められる力がわずかに強くなる。

それを感じて、ユウは小さく息を吐く。


(……わざとだな)


そう思うが、口には出さない。

振りほどくことはできるが、そうはしない。

そのまま二人は歩いていく。


人の流れに身を任せるように進んでいく。

ときおり、肩と肩が触れ合う。

そのたびに伝わる体温を妙に意識してしまう。

エリナは横目で相手の様子を見て、わずかに口元を緩める。

ユウは視線を前に向けたままで、その表情に気付いていない。


歩いている途中に露店の前で足を止めた。

焼きたての串から立ち上っている香ばしい匂い。

自然と視線が引き寄せられる。


「食べるか?」


「はい」


短いやり取りだが距離は変わらない。

代金を払おうとしたとき、店主がにやりと笑った。


「お、いいねぇ兄ちゃん」


大きな声だった。


「隣の嬢ちゃんを逃がすなよ?」


周囲から小さな笑いが起きた。

ユウは眉をひそめて隣を見る。

エリナは少しだけ頬を染めていた。

だが、腕は離さない。

むしろ、ほんのわずかに距離が縮まる。


「……否定しないのか」


ユウは小さく問う。

エリナは視線を逸らしたまま答える。


「必要、ありますか?」


声は小さいが、はっきりとしている。

ユウは言葉に詰まり、そのまま何も言えない。

店主の笑い声を背に、二人はその場を離れた。


歩きながら、ユウは串を一口かじる。

隣でエリナも同じように口をつける。

ほんの一瞬、動きが重なり視線が合う。

そして、すぐに逸らす。

それだけのことなのに、妙に落ち着かない。

だが、不快ではない。


(……悪くないな)


そんな考えが浮かび、自分で少しだけ驚く。


――人通りの少ない通りへと抜けた。


喧騒が遠ざかり、落ち着いた空気が流れていた。

エリナの腕が少しだけ緩んだが離れはしない。


「疲れてないか?」


ユウが心配するように尋ねた。


「大丈夫です」


すぐに返答をする。

そのあと、わずかに間を置いて。


「……もう少し、このままで」


と、小さく付け加えた。

ユウはそれに対して何も言わない。

ただ、歩く速度をわずかに落とす。

それが答えだった。

やがて、見覚えのある店の前に辿り着いた。


「ここか」


「はい」


扉を開けると、店の店主が顔を上げる。


「いらっしゃいませ――おや」


以前、ユウの衣服を購入した店の店主、エドガーであった。

店主の視線が二人の間を一回、2回目と往復した。

その目が、わずかに細められる。


「どうしました?」


エリナが問いかけた。


「いや、なに」


エドガーは肩をすくめる。


「前に来た時と、空気が違うと思ってな」


意味深な言い方だった。

ユウは軽く眉をひそめる。


「何の話だ」


「さてな」


口元に笑みを残したまま、エドガーは言う。


「ま、結婚するときはうちに来な」


軽口のような一言を伝える。

その瞬間にエリナの動きがほんのわずかだが止まった。

すぐに元に戻ったので、何事もなかったかのようだ。

ユウはその様子に気づいていない。


「話が飛びすぎだ」


ユウは店主の冗談を流す。

エドガーは笑いながら手を振る。


「冗談ですよ」


そして次に伝える言葉は少しだけ内容が重かった。


「……それはそうと、最近ちょっと妙でして」


空気がわずかに変わった。


「見慣れない連中が増えてます。統率が取れてる動きようです」


ユウの目が細くなる。


「帝国の動きが、少しだけきな臭いらしいですよ」


さらりと言ったが、それだけで十分だった。

ユウは何も言わずに、頭の中を働かせる。

その隣で、エリナはわずかに視線を逸らしていた。

ほんの一瞬だが、何かを感じさせる仕草だった。

だが、すぐに元に戻る。


「気をつけろよ」


エドガーは最後にそう言った。


――店を出ると、再び街の喧騒が戻る。


だが、先ほどまでの軽さは少しだけ薄れていた。


「そろそろ戻るか」


ユウが伝える。


「はい」


エリナはその言葉に頷いた。

そのとき、人混みの向こうに見覚えのある姿が映る。

ユウの足がわずかに止まった。


「……どうかしましたか?」


気になったエリナが問いかけた。

ユウは答えず、視線を細める。

その人物はクラウスだった。

人混みの中を、一定の速さで歩いていた。

しかし、その動きには、わずかな違和感がある。

周囲を見ているようで見ていおらず、迷いがない。

目的地が決まっている歩き方だった。


「……あっちは、平民街か」


小さく呟いた。

ほんの僅かにエリナの表情が一瞬だけ強張る。


「悪い」


ユウが言う。


「少し、用事ができた」


それだけで十分だった。

エリナは何も聞かずに、ただ静かに頷く。


「……はい」


ユウはすでに動き出していた。

人混みを縫うように進み、クラウスの背を追っていく。

その姿を、エリナはしばらく見つめていた。

やがて、静かに目を伏せる。


「……気をつけて」


小さな呟きは、誰にも届かずに消えた。

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