幕間・墓前
夜はすでに深く沈んでいた。
屋敷から少し離れた高台。
石畳も整備されていない、古いままの道を登った場所。
その先には小さな墓地がある。
その場所には、新しいものと古いものが混ざり合っている。
風雨に削られ、刻まれた名すら読めぬ石。
苔に覆われ、半ば地に沈みかけているもの。
――そして、まだ新しい、白い石。
レオンハルトの墓であった。
削り出されたばかりの表面は月明かりを受けて淡く光を帯びる。
他の墓とは明らかに違う新しさがある。
その様子がこの場所の時間の重みを浮かび上がらせる。
風はほとんどなかったが完全な無音ではない。
遠くで虫が鳴き、木々の葉がかすかに擦れ合う。
その微かな音が、耳に残る。
静寂というより――
余計なものが削ぎ落とされた音だけが残っている。
そんな空気を感じていた。
その墓前に、一人の男が立っている。
白髪混じりの髪だが、どこか品のある佇まい。
身体は真っ直ぐ伸び切っており、どこか若々しく見える。
レイヴァルト家に仕えているグレイだった。
背筋を伸ばし、腕を後ろに組んだまま、じっと墓標を見つめる。
その姿には、老いはあったが崩れはない。
立ち方、視線の置き方、呼吸の整え方。
すべてが、長い年月を戦場で過ごしてきた者のそれだった。
かつては、この目で戦況を読み、この身体で前線を支えた。
そして今、その視線の先にあるのは動かぬ石。
刻まれている名は、レオンハルト・レイヴァルト。
長い付き合いだった。
友として、主として、時に背を預ける存在として。
多くを語る必要のない関係。
それも、終わりを告げた。
グレイは何も言わずにただ、そこに立っている。
それだけで十分だった。
どれほどの時間が流れたのか。
やがて、背後から足音が近づいてくる。
重い足取りだが、迷いはない。
地面を確かめるように踏みしめる、確かな歩み。
グレイは振り返らずにその人物を予測する。
「……来たか」
短く告げた言葉は、その人物を待っていたことを示していた。
足音の主は、グレイの隣へと並ぶ。
――シグルドであった。
かつて幾多の戦場を共に駆け抜けた男。
その顔にもまた、歳月は刻まれている。
だが、人としての芯は変わっていない。
視線は鋭く、立ち姿には隙がない。
シグルドもまた、墓標へ視線を向ける。
しばらく、何も言わないが、そこにある名を見ていた。
「相変わらず、静かな場所だ」
やがて、低く言った。
その声音には、どこか懐かしさが混じっていた。
グレイが小さく返す。
「奴はこういう場所でもすぐに分かるな」
冗談でも皮肉でもない。
ただ、そういう男だった。
前に出ることは多いが、騒ぐことはない。
強さはあったが、誇示はしない。
戦場においても、必要以上に声を荒げることはなかった。
だからこそ――
「病⋯⋯か、奴らしくない」
その一言には、否定しきれない違和感が含まれていた。
グレイは、ゆっくりと頷く。
「同感ですな」
短い肯定。そして、わずかに目を細めた。
「――だからこそ、気になる」
空気が、静かに変わる。
夜の静けさが、少しだけ重みを増す。
シグルドが横目でグレイを見る。
「何かあると?」
問いは短かったが、その裏にある警戒は深い。
グレイはすぐには答えない。
一度、ゆっくりと息を吐く。
まるで、言葉を選んでいるかのように。
「断定はできませぬが」
静かに言う。
「近頃の動きが、どうにも出来すぎている」
自由の盾の出現と壊滅。そして帝国の動き。
それらすべてが、まるで――
「まるで、誰かが繫げたかのようだ」
「……ああ」
シグルドも短く応じる。
彼もまた、違和感を感じていた。
言葉にしづらく確証はないが確かにある歪み。
グレイは続ける。
「ただ、今は――」
わずかに間を置く。
「レオニード殿が踏ん張っておられる」
その名が出たとき、空気がほんのわずかに変わる。
「急に背負うことになったからな」
シグルドが冗談のように言う。
「あの男も、楽ではあるまい」
その意見にグレイは静かに頷いた。
「長男として、領を支える立場に立たれた」
それは、誰にでもできることではない。
戦場での強さとは別のものが必要になる。
責任、判断、そして、孤独。
「だが、あの男ならやれるだろう」
シグルドは迷いなく言った、その言葉は断言だった。
グレイもまた、同じように頷く。
「ええ。あの方はそういう役目を果たせる方です」
かつて見てきた。
戦場で、判断を下す姿を。
部下を生かし、勝ちを取りに行く動きを。
あれは、ただの剣ではない。
「……問題は、その周りか」
シグルドが呟く。
グレイの目が、わずかに細くなる。
「表向きは、実に見事に立ち回っている男がおります」
名は出さないが、意味は通じる。
シグルドは小さく鼻で笑う。
「セリオスか」
あえて、口にした。
その言葉にグレイはゆっくりと頷く。
「昔は、もう少し分かりやすい人だったのですが⋯⋯」
ぽつりと漏らした。
かつては、もっと表に出る男だったが今は違う。
見せる顔と見せない顔、その差が大きくなっている。
「変わったのか」
シグルドが問うたが、グレイは首を横に振る。
「あるいは――」
「最初から、そうだったのかもしれませんな」
その言葉は、静かだった。
シグルドは小さく息を吐く。
「厄介な話だ」
「ええ」
グレイもその言葉に同意した。
再び、視線は墓標へ戻される。
刻まれた名。
レオンハルト。
「……奴があと少し頑張れればな」
シグルドがぽつりと言う。
グレイは何も言わない。
だが、その言葉の意味は分かっていた。
この状況、この違和感、それらをまとめ上げる存在。
それが――いないのだ。
「いないものは仕方ありません」
グレイが静かに言う。
過去に縋るつもりはない。
それもまた、この男の強さだった。
「若い連中もいるだろ」
そう続ける。
シグルドが視線を向ける。
「どう思う?」
短い問いだった。その質問にグレイはわずかに口元を緩める。
「悪くありません」
若人に静かな評価を下していく。
「アルト様はまっすぐで、ユウ殿はよく見ている」
そして、もう一度言葉を重ねる。
「違う形で、同じものを持っている」
それは、かつての誰かに似ているものだった。
シグルドは小さく頷く。
「……なら任せるかとしようか」
「ええ」
グレイも同じように頷く。
「我らは――」
墓標を見つめる。
「少し、見守るとしましょう」
夜は静かだった。
だがその静けさは、終わりではない。
何かが、確実に動いている。
それは、過去を知る者たちも。
そして、これからを担う者たちも。
ゆっくりと、確実に近づいていた。




