帰還
死臭と鉄錆の入り混じった森の空気を抜け出した瞬間、大気の質が明確に切り替わった。
湿った腐葉土と濃密な草の匂いは後退し、代わりに太陽に焼かれた乾いた石と、密集した人々の生活を思わせる匂いが鼻腔を突く。
視界の開けた先には、高く積み上げられた堅牢な石壁がそびえ立っていた。表面は長年の風雨に削られて滑らかに変色しているが、都市を防衛するための圧倒的な厚みと質量は健在である。ところどころに真新しい石材で補修された痕跡が見受けられるあたり、この街が決して平穏無事なだけの場所ではないという事実を無言で物語っていた。
門の前に立つ数人の衛兵たちは、簡素ながらも手入れの行き届いた統一規格の槍と鎧を装備している。彼らの視線は行き交う通行人一人ひとりを鋭く観察し、都市への脅威を水際で弾き出そうとする警戒心に満ちていた。だが、歩み寄るアルトたちの姿を認めた瞬間、その厳格な空気がわずかに弛緩した。
「戻りました」
アルトが歩調を緩めずに短く告げる。
「ご苦労。……何かあったか?」
衛兵の一人が怪訝そうに眉をひそめた。整然としているとはいえ、小隊全体から発せられる沈鬱な空気と、防具にこびりついた真新しい血痕から、ただの巡回任務ではなかったことを察したのだろう。
アルトは一瞬だけ視線を横に流し、一切の感情を排した声で答えた。
「道中で襲撃を受けました。詳細は後ほど上に報告します」
それ以上の言葉は不要だった。衛兵は深く追及することを避け、後方の者へ門を開ける合図を出す。巨大な木製の扉が重い摩擦音を伴って開かれ、都市の内側への道が開かれた。
街の中へと足を踏み入れた瞬間――
無数の群衆が発する喧騒が、物理的な波となって押し寄せてきた。
交錯する人々の話し声、荷車の木輪が石畳を擦る重い音、遠くの鍛冶場から響く規則的な金属の打撃音。どこかで肉や香草を焼く香ばしい匂いが漂い、視界の端から端までが圧倒的なまでの人間の営みで埋め尽くされている。
声高に客を呼ぶ商人、露店に群がる市民、石畳を駆け回る子供たちの甲高い笑い声。
先ほどまでの森の中とは、完全に別の世界だった。
ユウは思わず足を止めかける。
(……現実感が、ないな)
つい数十分前まで、明確な殺意を持った魔法をその手で破砕し、他者の命が奪われる瞬間を目撃していたというのに。ゲームの血生臭い戦闘マップから、突然平和な街の拠点画面へと切り替わったかのような、感覚の乖離がもたらす酷い眩暈。その強烈な違和感を抱え込んだまま、ユウは隊列から遅れないよう歩き出す。
進むにつれて、周囲の視線が度々こちらへ向けられていることに気づいた。理由は明白だ。統一された騎士団の見習い装備を纏った若者たちの隊列に、ひどく浮いた見慣れない平服の男が一人だけ混じっているからだ。だが、誰も声をかけてこようとはしない。あくまで遠巻きに観察するだけ。それがこの街の、あるいは騎士団という存在に対する一般市民の距離感だと、ユウは理解した。
街の中央の大通りを抜け、やがて一行は一つの巨大な建物の前で足を止めた。
石造りの重厚な構造体。華美な装飾は極力排されているが、無駄を削ぎ落とした武骨な造りが逆に圧倒的な威圧感を放っている。強固な門の上部には、交差する剣と盾を模した荘厳な紋章が掲げられていた。
「ここだ」
アルトが振り返り、静かに言った。
「騎士団の士官学校……僕たちの拠点だ」
ユウは無言でその威容を見上げる。門の向こうからは、鋭い掛け声と木剣が激しく打ち合う音が絶え間なく聞こえてくる。中庭に視線をやると、数十人規模の若者たちが汗にまみれながら隊列を組み、剣を振り、盾を構える訓練の最中だった。
その動きは、先ほどの森で見せたアルトたちと比べれば決して洗練されているとは言えない。だが、そこには生死を分ける技術を身につけようとする確かな意志と熱気が充満していた。
(……学生、か)
そう呼ぶには纏う空気が荒々しすぎる。だが、実戦を知る本物の騎士と呼ぶには未熟さが残る。アルトたちが置かれている『見習い』という過渡期の立場が、その光景からはっきりと伝わってくる。
「先に報告を済ませよう」
アルトが隊の全員へ向けて告げる。そして、再びユウの方へと視線を向けた。
「君は――」
一瞬だけ言葉が途切れる。特異な存在であるユウをどう扱うべきか、指揮官としての思考が瞬時に巡ったのがわかった。
「……一緒に来てほしい」
「わかった」
結論は早かった。ユウは余計な問いを挟まずに頷き、先導するアルトの背中を追う。
建物の内部は、外観以上に実用性を重んじた質素な造りだった。冷たい石の壁と、歩くたびに硬い足音を響かせる磨き上げられた床。美術品などの装飾は一切なく、ただ軍事拠点としての機能だけを追求した空間が続く。
長く薄暗い廊下を進み、一番奥に位置する分厚い扉の前でアルトが立ち止まった。短く、正確な間隔でノックの音が鳴る。
「失礼します。任務より帰還しました」
「入れ」
扉の向こうから、地の底から響くような低い声が返った。
アルトが扉を開けると、そこには一人の男がいた。年齢は四十代の半ばに差し掛かっているだろうか。無駄な肉の一切ない筋骨隆々とした体つきに、獲物を狙う鷹のように鋭利な目つき。年季の入った執務机に深く腰掛け、帰還した部下たちの言葉を待っている。アルトの背後に続く見習いたちが、入口付近で一斉に背筋を伸ばし姿勢を正した。
「報告を」
男の短い促しに、アルトが一歩だけ前へ出る。
「本日、東部街道を巡回中に、輸送隊が山賊の襲撃を受けている現場に遭遇しました。到着時点で輸送隊は壊滅状態であったため、止むなく交戦に踏み切りました」
事実だけを連ねた淡々とした報告。だが、その声に乗せられた情報は徐々に重みを増していく。
「敵は十数名規模。統率は甘く、即席の集団と判断しました。しかし――敵側に魔法の使用が確認されました」
その一言が落ちた瞬間、室内の空気が一気に張り詰めた。机の奥に座る男の目が、すっと細められる。
「続けろ」
「一名、明確に訓練された魔道士と見られる個体を確認しました。詠唱速度、魔力制御ともに一定以上の水準に達していました」
ユウは背後で黙って聞いている。アルトは、放たれた炎の魔法がユウによって『構造を崩壊させられた』という異常事態については一切触れなかった。意図的に情報を伏せているのだ。
「……被害は?」
男の鋭い問いに、アルトはほんのわずかに、気付かれないほどの短い間を置いた。
「被害状況ですが」
空気が、さらに温度を下げて静まり返る。
「見習いの一人、フレッジ・クーパーが死亡」
その名がはっきりと告げられた瞬間、部屋の中に重く冷たい、完全な沈黙が落ちた。
「加えて、数名が負傷。いずれも軽傷ですが、戦闘続行は困難な状態でした」
声のトーンに変化はない。感情は完全に制御されている。だが、アルトの絞り出すような言葉の端々に、押し殺した痛みが濃く滲んでいるのはユウにも十分に伝わってきた。
上官の男はしばらく無言でアルトたちを見据え、やがて苛立ちを隠すように小さく息を吐き出した。
「……そうか」
短い一言。そこには部下を失ったことへの理解、現実に対する悲観、そして正体不明の敵に対する静かな怒りが入り混じっていた。
「やはり、ただの山賊ではないな」
「同意します」
低く呟いた男に、アルトが頷く。
そこで初めて、男の刃のような視線が、見習いたちの後方に立つユウへと向けられた。
「……で、そいつは?」
「現地で遭遇した民間人です。状況的に保護しました」
嘘ではないが、真実の半分も語っていない。男はしばらくユウを見つめ、底知れぬ何かを値踏みするように測り……やがて興味を失ったように視線を書類へと戻した。
「……好きにしろ。ただし、問題は起こすな」
忠告はそれだけだった。
「以上だ。ご苦労だった」
その言葉で、報告は終了した。アルトが深く一礼し、踵を返す。ユウもそれに続き、速やかに部屋を退出した。分厚い木製の扉が閉まる音が、やけに重く廊下に響いた。
報告室から離れた廊下に出た瞬間――
最後まで張り詰めていた見習いたちの一人が、冷たい石壁に背を預け、肺の底から絞り出すように息を吐き出した。
「……フレッジが、死んだのかよ」
誰に宛てるでもなく虚空へ落とすように零れた声には、その場にいる全員の胸を抉るだけの生々しい悲痛さが宿っていた。
「今朝まで、普通に話してたのに……」
別の少年が掠れた声で続く。無理に笑って事実を誤魔化そうとして、ひきつった表情のまま顔を歪ませていた。ユウは少し離れた位置から、ただ黙ってその光景を見つめている。
「……あいつ、来週の試験で首席狙うって言ってただろ」
「馬鹿言え、無理に決まってるって……笑ったのに、さ……」
会話は、そこで完全に途切れた。
これ以上言葉を繋げば、必死に保っている感情の堤防が決壊し、全員がその場に崩れ落ちてしまう。誰もがその限界を本能で理解しているからだ。
アルトは彼らにかける言葉を持たなかった。あえて距離をとるように、前だけを向いて歩きだす。だが、その背中の筋肉が限界まで硬く強張っていることに、ユウは気づいていた。
(……軽くは、ないよな)
当然だ。数時間前まで同じ釜の飯を食い、轡を並べて笑っていた同輩が、今は冷たい骸となっている。それでも指揮官として前を向き、歩き続けなければならない。それが彼らの身を置く世界の現実なのだ。
アルトは歩みを止めず、背後の全員へ届く通る声で告げた。
「ひとまず解散しよう」
振り返らずに発した声色は、平時と変わらず落ち着き払っていた。
「各自、休養を取るように」
その言葉に含まれる意味は、普段の厳しい訓練の後にかけられる労いとは決定的に違う。今はただ、休める者から休めという確かな気遣いがそこにあった。
隊は解散した。友を失い虚ろな目で去る者。自分が生き残ったことに安堵し、直後に強い罪悪感に苛まれる者。それぞれが重い思考を抱えたまま、自らの日常へと戻っていく。
全員の背中が回廊の奥へ消えた後、アルトはようやくユウの方を向いた。
「さて」
わずかに、張り詰めていた表情の筋肉が和らぐ。
「これからどうするんだい?」
問いかけられたが、ユウに選択肢など存在しない。この見知らぬ世界に放り出され、まだ何の知識も持たない。頼れる者も皆無だ。ならば――
「……任せる」
ユウが短く答えると、アルトは小さく息をついて笑った。
「だろうね。ついて来てくれ」
アルトが再び歩き出す。ユウも一定の距離を保ちながらその後を追った。
士官学校の重厚な門を抜け、再び街の中へ。
先ほどよりも人々の動きは緩やかになり、空が少しずつ色を変え始めていた。見上げる空の色だけは、ユウの知る元の世界と同じ、穏やかな茜色に染まっている。
「どこへ行くんだ?」
ユウが尋ねると、アルトは前を見たままあっさりと答えた。
「僕の家だ」
「……いいのか?」
少しだけ間を置いて真意を探るユウに、アルトは軽く肩をすくめる。
「得体の知れない君をその辺に放っておく方が、よっぽど問題になるからね」
極めて現実的な理由だったが、アルトの横顔には微かな笑みが浮かんでいた。仲間たちと別れ、指揮官としての張り詰めた重責からようやく解放されたのだろう。年相応の少年らしい表情が垣間見える。
「それに」
アルトが歩みを止めずに、わずかに振り返る。
「君には、聞きたいことも山ほどあるからね」
声のトーンは穏やかだが、その瞳に宿る光は間違いなく、未知の事象を推し量ろうとする観察者のものだった。ユウは何も言わず、ただその静かな視線を受け止める。
街の奥へと進んでいく。石畳の道と整然と並ぶ一般の建物を抜け、やがて明らかに周囲の空気が変わる区画へと足を踏み入れた。
大通りの喧騒は遠のき、厳かな静寂が空間を支配している。立ち並ぶ建物はどれも巨大で、高い鉄柵の向こうには広大な庭園が広がっていた。
(……ここは)
ユウの思考を先回りするように、アルトが口を開く。
「貴族街だよ」
短い説明だったが、それで全てが腑に落ちた。整った立ち振る舞い、指揮官としての高度な教育、そして『アルト・レイヴァルト』という洗練された名前の響き。
「その中でも――」
アルトが一軒の巨大な屋敷の前で足を止めた。
見上げるほどに高い堅牢な鉄門。幾何学的に美しく整えられた庭木。そして、圧倒的な財力と権力を無言で誇示するような豪奢な石造りの本館。
「ここが、僕の家だ」
静かに言った。
門の向こうには、ユウの知らない、この世界の新たなルールが待ち構えている。ユウはそびえ立つ門を見上げながら、深く息を吐き出した。
(……まだ、チュートリアルが終わったばかりか)
そんなゲーマーとしての乾いた実感だけが、確かな重みを持って胸の内に居座っていた。




